岐阜へ行った時に一番楽しみにしていたのが織田信長居館跡。
場所は金華山ロープウェイの裏側にあります。ここにあったのが織田信長の居館跡。と言っても観光客はほとんどいません。発掘された虎口(入口)が復元され、他は発掘中です。
後奈良天皇の法会の財源問題で岐阜へ赴いた山科言継の日記が残っていますが、信長に連絡をとろうと右筆(秘書)の武井夕庵に頼むと、信長は山上の城にいて、「老人の身で山登りは大変だろうから、明日、麓の邸宅で会おう」、と信長から返事がありました。
山科言継と織田信長が会ったその邸宅が織田信長居館跡です。しかも、三河の徳川家康にも頼みにいくという山科言継に、「老人の身でこの酷暑のなか、三河まで行くのは大変だから家康には飛脚をとばして資金を調達するから、この岐阜で待っておればよい。」と飛脚で資金調達を助けてくれました。織田信長の実像について見直しが行われていますが、こまやかな気遣いをする人物だったようです。
山科言継の後、この邸宅を訪れたのがポルトガルの宣教師ルイス・フロイス。キリスト教布教の許しをえます。最初に会ったのが邸宅跡で、美しい庭園がいくともあると本国に報告しています。この庭園が、現在も行われている発掘で見つかり、邸宅跡からは金箔瓦も出土しています。安土城以前に金箔瓦を使っていたんですね。迎賓館のような存在だったようです。
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稲葉山城(岐阜城)
先週、セミナー前に行った稲葉山城(岐阜城)。
さすがにセミナー前に金華山を登るのはやめてロープウェイに乗りましたが、高所恐怖症にはたまりませんね。岐阜城は昭和31年に造られたお城で、中は史料展示室になっています。一番上は展望台になっていて、濃尾平野が一望できます。名古屋駅前のツインビルもよく見えますので、戦国時代は織田軍の動きもよく分かったでしょう。
稲葉山城は難攻不落の城といわれた割には、よく落城しています。まずは竹中半兵衛に策略で落とされ、次は織田信長。「絵本太閤記」では秀吉が稲葉山城攻めで戦功をあげ、これ以降、瓢箪を馬印にしたという話があり、岐阜城にも千成瓢箪発祥の地という岩がありましたが、眉唾モノでしょう。
最後の落城は関ヶ原合戦の前哨戦で、織田秀信(三法師)が守る岐阜城を池田輝政と福島正則に攻められて落城。池田輝政は岐阜城の城主だったこともあったので、有利でした。
城のあちこちに戦国時代の跡があり、ちょっと脇に入ると野面積みになっている古い石垣があり、堀切も残っていました。昔の郭跡はレストランなどが建てられていますが、そう大きな城ではないですね。
加納城
岐阜のお城と言われて、まず思い出すのが岐阜城。金華山にある山城です。加納城と聞いても岐阜市以外の人には通じません。
岐阜城は関ヶ原の戦いの前哨戦で落城し、廃城となってしまいました。代わって江戸時代に整備されたのが加納城。岐阜駅のずっと南が城下町になっていて加納城がありました。加納という地名は古く、織田信長が初めて楽市楽座を出したのが加納市場。加納は美川憲一の「柳ヶ瀬ブルース」で有名な柳ヶ瀬商店街あたりから、ずっと南に拡がっていました。
北側(金華山の麓)には斎藤道三や信長が作った戦国時代からの城下町がありましたが、関ヶ原の戦いなどでさびれ、加納が新しい城下町として発展します。岐阜駅でレンターサイクルを借りて、さっそく加納城へ行ってきました。加納大手門という地名があり、ここから入っていくと本丸跡があります。
加納城は水堀で囲まれたお城で現在は本丸の土塁・石垣が残っています。土塁で囲まれた中心部は公園になっていて、グラウンドなどで使われていましたが、けっこう広く、篠山城の主郭ほどあります。石垣も古い時代の野面積みでした。都会に土塁がきっちり残っているのがいいですねえ。
大垣城
大垣駅を降り、駅前商店街を5分ほど歩き、商店街からすぐ入った所に大垣城があります。商店街からは城は見えず、商店街の途中にある津城とよく似ています。
天守や櫓がありますが、全て復元されたものです、本丸の縄張りは残っていて埋門跡などがあり、二の丸は公園になっています。
大垣城と言えば関ヶ原の戦いの舞台となった城。、石田三成らが入城して西軍の本拠地となりました。対する東軍は清洲城を本拠とし、まずは織田秀信が守っていた岐阜城を攻めて、落とします。大垣城で東軍と対する案もありましたが。結局は関ヶ原に移動しての戦いになります。
総大将の毛利輝元をいれるつもりだった松尾山を守っていた伊藤盛正を追い出して、小早川秀秋が陣を構えたのに対抗するためなどの理由で、関ヶ原へ移動したようです。石田三成が関ヶ原に移動せず大垣城の籠城戦になっていたら歴史は変わっていたかもしれません。
西軍は大津城を落とした小早川秀包や立花宗茂ら1万5,000の兵で東宮を挟撃できたし、東軍は中山道をすすんだ徳川秀忠が間に合ったかもしれません。
犬山城
全国にたくさんのお城がありますが、個人が所有しているお城として有名だったのが犬山城。
江戸時代、犬山城の城主だった成瀬家が明治以降も代々、所有していたのですが、現在は財団法人犬山城白帝文庫が所有・管理しています。成瀬家の時代、不動産登記には「城郭」と記載されていたんですかねえ。
30年ぶりぐらいに犬山城を訪ねました。天守に上がると遠く稲葉山城(岐阜城)が見れます。川をはさんだ向こう側にこんもりとした山が見え、ここの頂上にあったのが伊木山城、また犬山公園駅を出て川を渡った岩山には鵜沼城がありました。
犬山城は国宝の天守が有名ですが、三光稲荷神社の裏手に戦国時代の空堀が残っています。あれだけ見事な空堀が残っているのも珍しいですね。ただ案内板もないので、観光客は素通り、もったいないなあ。もっとも案内板があってもタダの土の堀ですので、結局は素通りするだけでしょう。(笑)
■犬山城城主
犬山城を造ったのは織田信康(織田信長の叔父)。目的は美濃攻めで、犬山城の下を流れる鵜飼で有名な長良川を超えれば美濃で。犬山城は国境に造られたお城でした。
織田信康が稲葉山城攻めで討死にすると、信康の子である織田信清が城主となります。ところが途中で信長と仲たがいし美濃の斉藤龍興と手を結んだことから、犬山城は丹羽長秀に攻められて落城。美濃攻めの拠点となります。
小牧・長久手の合戦では秀吉方の池田恒興が犬山城を攻略して入り、小牧山城の家康と対峙しました。池田恒興は美濃攻めの後、犬山城の城主でしたので勝手知ったる城だったのでしょう。
松ヶ島城
松阪にある松ヶ島城跡。
畑のど真ん中に小山が残っていて、ここが天守閣跡。松ヶ島という名前がついていますが、、現在の海岸線は500mも先。戦国時代には海のそばにあって島になっていたとは、とても思えません。
松ヶ島城を造ったのは織田軍に備えた北畠氏。やがて織田と北畠で和議が結ばれ、北畠(織田)信雄が城主となります。本能寺の変の後に織田信雄は清州城に移り、家臣の津川義冬にまかせますが、秀吉と織田信雄が対立すると、秀吉は信雄の家臣が吉に寝返った流言を流し、まんまと信じた信雄は津川義冬を殺してしまいます。
次に松ヶ島城をまかされたのが滝川雄利。北畠家の一族、木造氏でしたが、北畠と織田の和睦を斡旋。また滝川一益に気に入られ娘婿として迎えられます。これで名前が滝川になります。織田信雄の家老となりますが、信雄が没落した後も秀吉に気に入られ、豊臣秀次事件も乗り切り、関ヶ原の戦いでは西軍で戦い、敗れて出家。ところが家康に呼び出されて領地をもらい御伽衆の一人になっています。戦国時代を見事に乗り切った武将です。
滝川雄利は小牧長久手の戦いの時は織田信雄の家老でしたので、秀吉軍と松ヶ島城に籠城して戦いましたが落城。秀吉の命で蒲生氏郷が入ります。やがて蒲生氏郷は現在の松坂城を造り城下町ごと移転、松ヶ島城は廃城になります。松ヶ島城から山の方を見ると松坂城の森を見ることができます。
伊勢・川方城
近鉄名古屋線の久居駅-伊勢中川駅の間に桃園駅という普通電車しか止まらない駅があります。
桃園駅近くに住宅街が広がっていて地名が川方。住宅街の中にあるのか伊勢・川方城です。城の遺構はほとんどなくなっていてマンションの裏手の竹藪の中に土塁が残っているだけ。案内板もなにもないので、これが城の遺構だと気づく人はほとんどいないでしょう。
伊勢川方城を作ったのは木造城主だった木造政宗。久居に戸木城があり、戸木城と木造城を結ぶ線上に造られた城です。小牧・長久手の戦いで秀吉と北畠(織田)信雄が争った時は、戦場となり木造は北畠側でしたので秀吉側の蒲生氏郷に攻められて落城します。
それにしても不思議なのは城の場所。久居は南側が崖になっている台地で、伊勢川方城は、この崖を利用して造られています。南には強いですが北からの攻撃は台地続きなので弱くなります。
実際、蒲生氏郷も北側から攻めています。戸木城も同じ崖の上で、北側に出城として造った宮山城を蒲生氏郷に奪われ、高台から攻撃されています。ここに造るしかなかったんですかねえ。考えると不思議な城です。
椿井城
椿井城(つばいじょう)
近鉄生駒線・竜田川駅の東側にある山を登ったところにある山城。嶋左近の居城だったのはという説がありますが、はっきりしたことは分かっていません。筒井氏に備えるために松永久秀が築いたという説もあります。
山城へ登る道の麓に椿井という名前の井戸があります。蘇我や聖徳太子が物部守屋を攻める時に苦戦し、この地域(平群)の神手将軍が戦勝を祈願して、椿の杖をついたところ泉が湧き出します。これを聖徳太子や兵士が飲んだところ士気が上がり、守屋との戦いに勝てたということです。
平群からだと暗峠超えで物部の本拠地である東大阪へ攻め込めまめますし、山の向こうは斑鳩ですから、この地から攻めた部隊もあったのでしょう。
椿井城ですが、山城では珍しく地元有志によって整備されていて、とっても見やすくなっています。ただし北郭は保存のため見学ができず、見学できるのは南郭だけです。かなり大きな山城なので見応えは十分。堀切などもしっかり残っています。山上の郭からは松永久秀の信貴山城がすぐ近くに見えます。
嶋左近のお城 西宮城(生駒郡)
西宮と言っても兵庫県ではなく奈良県生駒郡平群町西宮にある城跡。
生駒駅から単線&ワンマン運転の近鉄生駒線に乗って、平群駅と竜田川駅のちょうど間ぐらいにある平群中央公園に城跡があります。城は小高い丘の上にありましたが、今は公園になってしまい遊具がおかれ、家族連れでにぎわっていました。ただ西郭の土塁や主郭と副郭の間のくびれの部分など遺構が一部残っています。西郭は西宮古墳をそのまま郭に使っていました。戦国時代によく古墳を城にしていました。
谷の向こう側に下垣内城がありましたが、こちらも公園化のよって城の遺構は皆無になっています。このあたりを支配していたのが嶋氏という国人。あの嶋左近の一族です。筒井氏に仕えていましたが、石田三成からのヘッドハンティングを受け、それも三成の禄高の半分を与えるという破格の待遇。意気に感じた嶋左近は三成に仕え、「治部少(三成)に過ぎたるものが二つあり 島の左近と佐和山(城)」と言われます。三成は豪放磊落だったようで大河ドラマで描かれる姿とは、だいぶイメージが違います。
関ヶ原の戦いで三成軍として華々しく戦った嶋左近。最期の奮戦ぶりは東軍諸将のあいだでも語り草となりました。その嶋氏のお城です。
狭間城・北の城・城山城(伊賀)
伊賀鉄道・猪田道駅の直ぐ近くにある北側の丘に狭間城・北の城・城山城と呼ばれる三つの城があります。
昨日、上野商工会議所でのセミナーが夜の開始でしたので、その間に城に登ってきました。3つの城ともすぐ近くで、比高も高くないので、すぐ登れます。誰の城なのか分かっていませんが猪田道駅近くに依那古神社があり、ここが小泉氏館跡でした。
小泉氏は伊賀の土豪として丸山合戦や伊賀の乱に参加しており、依那古神社のすぐ近くの城ですので小泉氏の詰城ではないかとも言われています。
城といっても単郭で周りを土塁で囲んだ城。まず入り口にある城山城に入ると竹藪の中に土塁がありました。北の城は四方を巡る土塁と虎口跡が、ほぼ完存していますが竹藪がすごくって、土塁に登るのがやっと。
狭間城も同じかなと土塁をえっちら登ると郭全体の竹藪が刈られていて、竹藪が残っている虎口以外が一望できます。これだけ土塁がはっきり見える城はなかなかないですね。内側の郭からの高さは5メートルほど、外側の空堀からですと8メートルほどあり、土塁が完存していました。狭間城の土塁にとりつくまでは少し大変ですが、なかなかおすすめの城です。スーツ姿で行くのは、なるべくやめた方がよいでしょうね。(笑)