-
名古屋駅前にあるウィンク愛知の会議室で愛知県のマネージャーが集まっての会議。
最初は支援事例紹介ということで中小企業基盤整備機構、名古屋市新事業支援センター、豊橋科学技術大学、あいち産業振興機構の順番で発表。休憩をはさんで中部経済産業局から来年度に要求している概算予算と事業の説明。名古屋市新事業支援センターの事例発表を担当しておりました。
会議室はウィンク愛知、最上階の18階。ここの窓は床まであるので高所恐怖症にとっては、足がすくみます。
その代り眺めはいいですねえ。町のずっと先に見えるのは岐阜の山々。そのうちの一つが金華山があり、山の上には岐阜城(稲葉山城)があります。金華山は山脈から少し離れて前面に出た形になっており、岐阜城からは濃尾平野が一望。信長が天下布武を唱え出したのも岐山になぞらえた金華山から壮大な風景を見たからでしょう。
そんな濃尾平野に一カ所だけ小山があります。ウィンク愛知の18階から見ると平野にちょこんと島がある感じで、これが小牧山。他にはありません。信長が平城だった清州城から、より稲葉山城に近い場所に移るとなると小牧山しかありません。18階の高さから見ると、城を移した理由がよく分かります。
カテゴリー: 城・山城
織田信雄が伊賀攻めの拠点にしようとした丸山城
近鉄・伊賀神戸駅から北上する伊賀鉄道に乗ると3つ目の駅が丸山駅。駅のすぐ近くにこんもりとした山があり、ここが丸山城跡。
信長が伊勢国司だった北畠を攻め、むりやり織田信雄を北畠に養子に送り込み伊勢を支配しました。織田信雄は映画・清州会議では妻夫木聡が演じていたバカ殿です。
丸山城はもともと北畠が城を作っていましたが、伊勢の次に伊賀を領国にしようと家臣である滝川雄利に命じて、大幅修正します。天守まである大きな城でした。
驚いたのが伊賀の郷士達。城が完成するまでに攻めようと総攻撃を開始。不意を突かれた滝川雄利は伊勢へ逃げ帰ります。翌年、織田信雄は軍を伊賀へ進めますが、敗退してしまいます。第一次天正伊賀の乱です。
敗戦を知った信長は激怒。勝手に軍を動かして、しかも敗退するとは親子の縁を切るとまで言われています。織田信雄がバカ殿と言われるゆえんの一つになっています。ですが京都に近い伊賀をそのままにするわけにもいかず、信長は伊賀の殲滅戦を行います。これが第二次天正伊賀の乱で伊賀は焦土になりました。
丸山城は曲輪跡もよく残っていて、天守のあった所には丸山城の碑が建っています。石垣もあったのですが伊賀鉄道を通すときに持ち運ばれたそうです。道も割と整備されて山城にしては歩きやすいのですが、蜘蛛の巣だらけなのが難点。
新神戸駅裏にある戦国時代のお城
片道40分、こんな通勤はいやだ(高取城)
三木の干殺し 戦を土木に変える
豊臣秀吉の有名な戦いといえば三木の干殺し、鳥取のかつえ殺し、備中高松の水攻めです。
いずれの戦いも大規模な土木工事を行った戦いで有名です。司馬遼太郎だったと思いますが、南方の島で日本軍が撤退した後、アメリカ軍がやってきて、いきなりブルドーザで滑走路を作りはじめ、そこから飛行機を飛ばしはじめます。戦争はつまるところ土木なんだというような文章がありましたが、それを戦国時代に行ったのが秀吉です。
神戸(新開地)から神戸電鉄に乗ってずっと山に入っていくと金物や刃物で有名な三木市があり、三木城のあったところ。神戸電鉄・三木上の丸駅のすぐ横の崖の上が三木城跡です。といっても本丸広場以外にはあんまり遺構がありませんが。縄張り図をみると、けっこう敷地が広く、比高は20メートルほどしかありませんが、この城を攻めるのは大変だったでしょうね。
というわけで城の周りに付城を作り兵糧攻めを始めました。明石にある魚住城が瀬戸内海沿いにあり毛利がここから兵糧を入れないようにするためです。付城は一説には40と言われていますが、そのうち23城の遺構が残っています。よく残りましたね!付城と付城の間は土塁を巡らし、完全に封鎖しました。早い話が万里の長城のミニチュア版ですね。
戦国時代の付城が大量に残っているのは珍しく、この三木城と付城、土塁跡が今年、国史跡に認定されたそうです。教育委員会で国史認定記念の展示会をやっていてラッキーでした。秀吉の本陣は三木城から4kmほど離れた平井山の上にあった付城でした。秀吉の軍師・竹中半兵衛は三木城攻防戦の最中、平井山の陣中で病死したため、お墓は平井山にあるそうです。一度、行かないと
城巡りシーズン到来
生きている間に日の目を見ない修理記録
松江城
せっかく出雲まで行ったので荒神谷遺跡まで足をのばそうという話があったのですが出雲大社横の島根県立古代出雲歴史博物館へ行ったら、荒神谷遺跡の鉄剣がずらっと壁一面に並んでいました。おまけに加茂岩倉遺跡の銅鐸も勢揃い。こりゃ、現地まで行かなくてもいいなとなったので行先を松江に変更。
まずは定番の松江城へ。昔、三重県中小企業診断協会の旅行で松江へ行ったのですが時間の都合で城が見られなく、そのリベンジです。もっともAll Aboutのガイド記事「戦国武将とシステム作り」シリーズのイメージ写真になりそうな所ばかり撮っていました。
名古屋城 本丸御殿
名古屋城がやられたら八事で迎え撃つ
名古屋の中心部を斜めに走るのが飯田街道。
主要道路を斜めに横切るので都会では珍しい五道の辻がいたる所にできています。これが名古屋で道に迷う遠因にもなっています。飯高街道は飯田ろ結ぶ目的があるのですが別名、駿河街道、岡崎街道とも言われ、徳川家康の命により軍事・産業用道路として整備されました。
まっすぐ進むと岡崎に行きますので、いろいろと考えられていて、まずは飯田街道沿いの八事(やごと)。近くには名城大学があります。地下鉄の八事がありますが、ここが名古屋から一番近い峠になります。興正寺など寺が整備されていますが、万が一西国から攻められて名古屋城が抜かれた時に迎撃する拠点でした。
尾張藩の重臣を有事の際に陣を構えることがきまっていたそうで興正寺には土塁が残っています。