なにも残っていない御殿山城

御殿山城
新幹線で品川に近づくと左に見えるのが御殿山。高台になっていて高級マンションが建っていますが、江戸時代に将軍家の鷹場御殿があったことから御殿山という名前がつきました。江戸時代以前には太田道灌の居城がありました。これが御殿山城。
北条氏綱軍と扇谷上杉朝興軍の合戦が行われた高輪原の戦いは、御殿山近くの高輪で行われました。戦いは北条氏綱軍が勝って、江戸城を奪います。
朝、早めに出て品川駅で降り、大崎駅まで御殿山経由で歩いてみましたが、城跡はなにもありませんでした(笑)。でも眺めはいいですねえ。当時は線路のすぐ向こうが海でしたので街道を見張るには絶好の場所でだったのでしょう。

織田信長が歩いた道が残る勝幡城

勝幡城
名古屋市新事業支援センターの窓口相談が終わってから名鉄で勝幡(しょばた)駅へ。駅から少し歩いたところに勝幡城跡があります。
織田信長は那古野城(現在の名古屋城の前)で生まれたという説がありましたが、最近の学説では勝幡城で生まれた説が有力です。二重の堀で囲まれていた館城で、江戸時代まで城跡は残っていたようですが、尾張藩が日光川を開削する時に城をぶっこわしてしまったようです。ただし縄張図を残したため、どんな城だったかが現在まで伝わりました。
主郭の半分は現在の日光川になり、半分は住宅街になっていますが、城西や城之内などの地名が残っています。岩波新書から「信長の城」(千田 嘉博著)が出ていて、現在の地図と勝幡城跡を重ね合わせて考察していますが、住宅街にある小さな小道が勝幡城の虎口につながる道と判明。城跡にはなにも残っていませんが、織田信長や織田信秀、柴田勝家らが歩いた道が残っていました。
感慨に浸って織田信長が歩いた道を歩いていたら夕立が!落ち武者のごとくずぶぬれになりました。

余野本城へ登り汗びっしょり

余野本城 虎口
摂津の池田からずっと山に分け入った豊能町へ専門家派遣で行ってきました。せっかく豊能町まで行ったので山城へ行ってきました。(笑)
行ったのは余野本城。応仁の乱の後に廃城になった説もありますが、しっかりした虎口もあるので戦国時代に改修して使っていたようです。看板などがある山城はほとんどないので、城への入口をネットで調べるとネットで資材置場ちかくから尾根まで直登とあります。つまり尾根まで崖を登れということです。
行ってみたらヤブだらけ。さすがにスーツ姿では無理だなあ、冬にもう一度来るかなと思ったのですが、あきらめ悪く、そこらへんを探していると空堀を発見。空堀沿いにすすむと主郭に出ることができました。ラッキー!
なかなか広い縄張のお城で、ヤブや余計な木が伐り倒されており、とっても見やすくなっています。虎口(郭への入口)が見事で、2回、折り曲がらないと郭へ入れず、張り出した土塁から横矢がかかる仕組みになっていました。こんな複雑な虎口は戦国時代のものでしょう。土塁の高さも10メートルほどもあり、よく遺構が残っていました。堪能しましたが、汗びっしょりになりました。やっぱり山城めぐりは冬がベストシーズンです。

信長が2度攻めて落とせなかった高岡城

高岡城
鈴鹿にある高岡城跡。鈴鹿川沿いの標高50メートルほどの高岡山に築かれた山城です。
ここは信長の伊勢侵攻を2度もくいとめた城です。城主は神戸友盛の家老である山路弾正。滝川一益を大将として信長が攻めてきましたが、城はなかなか落ちません。
美濃三人衆の謀反の動きが出てきたこともあり、信長は兵をひきます。翌年にも攻めましたが落ちません。仕方ないので信長は三男・信孝の養子を条件に和睦をすることとなりました。織田信孝は神戸家に入り神戸信孝と名乗りますが、北畠などと同様に結局は信長に乗っ取られます。
高岡城から川向こうを見ると楠城が見えます。直線距離は1.8kmほど。反対側の方にあるのが采女城で、こちらも3kmしか離れていません。楠城、采女城ともに滝川一益に攻め滅ぼされましたが、高岡城からよく見えたでしょう。
郭跡と堀跡が残っています。

徳川家康が攻め落とした丸根砦

丸根砦
大高城がのぞめる小高い丘の上にあるのが丸根砦。鷲津砦と共に織田信長が大高城を封鎖するために築いた付城です。
砦を守っていたのは佐久間盛重。松平元康(後の徳川家康)が率いる岡崎勢に攻め寄せられ、佐久間盛重は清州城の織田信長へ急使を送ります。
そして、「人間五十年、下天のうちをくらぶれば夢幻のごとくなり」と敦盛の一節を舞い、茶漬けを食べながら、「螺(ほらがい)を吹け、具足をよこせ」と映画やドラマでよく描かれる信長が出陣していくシーンとなります。
清州城を飛び出した信長は熱田神社で兵がまとまるのを待ち、大高方面へ進軍。やがて信長の目には丸根砦と鷲津砦の陥落を告げる二筋の煙が上がるのが見え、善照寺砦に向かいます。
佐久間盛重らが玉砕した丸根砦ですが、今は住宅地の中に郭跡などが遺構として残っています。もっともマニア以外には単なる土の広場なんですが。

家康が捕虜生活を脱した大高城

大高城
日が長くなってきたので、名古屋市新事業支援センターでの窓口相談が終わってから東海道線に乗って大高城跡に行ってきました。
住宅街の中にあるこんもりとした小山が大高城跡。「大高城跡公園」という矢印のついた小さな看板の所を曲がり民家と民家の間を通る細い路地を登ったところにあります。看板がなければ、絶対に気づきません。
大高城は桶狭間の合戦の前哨戦が行われたところです。大高城は今川義元が奪った城で尾張の最前線。織田信長は周りに砦を築いて対抗します。戦国時代は城のすぐ近くが海岸線でしたが、この海からの補給を砦網で塞いでしまい大高城は孤立してしまいました。
そこで今川義元が大高城を救援するために起こしたのが桶狭間の合戦の発端と言われています。この時、徳川家康が大高城に兵糧を入れる役目を命じられ、丸根砦を落として、見事に兵糧入れに成功します。
やがて大高城へ届いたのが今川義元が織田信長に敗れたという知らせ。撤退して岡崎城へ向かうことになり、家康にとっては、長い捕虜生活から開放され新しい門出となった場所となりました。

若江城

若江城
織田信長の臣下だった太田牛一が書いた「信長公記」によく登場するのが若江城。
難波から近鉄奈良線に乗ると途中に若江岩田駅があります。ラグビーで有名な花園の手前にあり、普通しか止まりません。若江岩田駅から商店街を抜けて、ずっと南に行くと若江城跡があります。遺構はなにも残っていなく碑がたっているだけ。
若江城は南北朝時代に北朝方の有力な守護大名である畠山基國(もとくに)が対南朝の防衛拠点として築城。大坂城の築城の時に破却されました。よく戦乱に巻き込まれ河内をおさえるには若江城攻略がかかせませんでした。足利義昭が京を追放された時も、まず若江城に入ります。織田信長が石山本願寺と戦ったいた時に織田方の前線であったのが若江城で、織田信長もよく滞在していました。
城下町には教会が建っていて旧字名に大臼(だいうす)という所がありゼウスからきているようです。遺構は残っていませんが、堀のかわりだった川は今も流れています。若江という名前は大昔にあった河内湖の港からきているのでしょう。

落城で姫が井戸に身を投げた采女城

采女城
前から行きたかった采女城へ行ってきました。
近鉄四日市駅から軽便鉄道に乗り、内部駅から20分ほど歩くと城の入口につきます。采女城は3つの尾根上に9つの郭を配置した平山城。采女城保存会が整備しており、ヤブもかってあり、非常に歩きやすく、また見やすくなっています。スーツ姿で登れました。(笑)
南側の入口から入り10分ほど登ると主郭(一の郭)につきます。ここに深井戸がありますが、落城する時に城主の姫が身を投げたところと伝わっています。
城を造ったには藤原氏を祖先とする後藤家で三重郡采女郷の地頭職となった時に築城しました。鎌倉時代の話になります。それ以来、15代にわたり続きましたが、織田信長の伊勢進攻で落城します。攻めたのは滝川一益で、城の四方から6000の兵で攻めました。守っていたのは500ほどだったようです。
1~5郭と8郭は簡単に行くことができますが、6、7郭は道がなかったので堀に降りて崖を登るしか方法がなかったですね。さすがにこっちまでは整備されていなくってヤブだらけでした。離れたところにある9郭は断念しました。

子孫が寄贈した大和高山城(生駒)

大和高山城
ようやく足の痛みが治ったので山城登りを再開。ただこの時期から山城はヤブ蚊がすごくなりますので、なるべくヤブの少ない山城を探したところ生駒にありました。 


近鉄けいはんな線・学研北生駒駅から奈良交通バスに乗り西庄田で降りて、山を目指します。近畿自然歩道が通っているため、高山城への案内板もあり、また遊歩道も整備されています。高山は南都、山城、河内の三国の境界にあり、中世には鷹山庄という荘園がありました。この高山をおさめていたのが鷹山氏。 


鷹山氏は高山氏とも書き、大和の国人の一人で戦国時代、江戸時代を生き抜き、鷹山氏の末裔が城跡を所有していました。平成18年に城跡を再整備するのにあわせ地元に寄贈。それで遊歩道ができたんですね。 


遊歩道を登ると九頭龍王社が祀られている2郭に着きますが、主郭はどうも2郭ではなく尾根沿いに進んだ別の郭のようで、そちらに進出。さすがに遊歩道も何も整備されていないので、ヤブに分け入って土塁などを見てきました。井戸跡も残る郭で見応えがあり、おかげで堪能できました。

市場城(朝倉城)

市場城
企業訪問が終わって三岐鉄道の北勢中央公園口へ行くと、電車は出たばっかりで、次の電車が来るまで約1時間。(笑)時刻表を見ると通常は1時間に2本なんですが12時台だけは1本になっていました。 


近くのスーパーで弁当を買ってきて駅で食べたのですが、まだ30分あります。駅の地図に城跡の表記があったので城跡へ出かけてきました。(笑) 


市場城というお城で駅から歩いて10分ぐらいの竹藪の中にあります。もともとは少し離れたところに朝倉城という城がありました。朝倉というと信長に滅ぼされた朝倉義景の越前朝倉氏が有名ですが、伊勢の朝倉氏は早期の分家のようで同じ朝倉氏一族でした。 


この朝倉城を移築したのが市場城。城は地元で守られているようで珍しく城の碑が建っていました。朝倉城を移築したので、碑は朝倉城になっていました。さっそく城跡の竹藪に入ってみましたが、やぶ蚊がすごく、早々に退散。ただ堀跡とかなり高い土塁を見ることができました。ネットで調べると土橋もあり、かなり見応えがありそうなので冬にリベンジですね。