冗談のような話ですが奈良公園の中にお城があります。
奈良公園には昔から何度も行っていますが、お城がよもやあるとは知りませんでした。少し前に奈良の城一覧を見ていたら奈良公園にあるのを発見。今日は朝から伊賀の企業へ行っていましたので関西本線での帰り、奈良駅で降りて城を見てきました。
場所は奈良ホテルの向かい側、瑜伽神社の裏手にあります。入口は奈良ホテルの駐車場なんですが、とんでもない場所で、調べて行かなければ絶対に分かりませんね。しかも主郭まで登らないといけないので、ちょっと大変です。でも見応えのあるお城で、二重になった空堀や土橋など見事に残っていますね。主郭からは興福寺の五重塔が見えます。奈良公園の一角なので主郭には鹿がいました。
このお城の名前は西方院山城(さいほういんざんじょう)。たった3日間という短命のお城でした。城が出来上がった3日間後に筒井氏が攻めてきて落城してしまいました。実は道路をはさんだ向かい側にある奈良ホテルにも昔、城があり、名前は鬼薗山城。遺構は何も残っていません。
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天花寺城 三重の山城
近鉄中川駅から大阪に向けて出発すると川を渡った左側にこんもりとした森が見えてきます。この森は丘になっていて、ここが天花寺城跡。こんな所に山城があるって、全然知らなかったのですが、今、発売されている「三重の山城ベスト50を歩く」に出ていました。
現在でも名古屋、伊勢、大阪の分岐点になっている交通の要所ですので平安時代には既に城が作られていました。南北朝時代から伊勢国司であった北畠家が支配し、足利幕府の戦いでも天花寺城の名前が出てきます。
地名の由来となった天華寺が城のすぐそばにあり、天平時代に作られた伽藍がありましたが、織田信長の伊勢侵攻で焼けてしまいました。現在、天華寺は丘の上に移転しています。
道路の右手に見えているところが主郭のあるところで、藪の中に入ると堀切もしっかり残っていました。ずっと奥に進むと虎口もあり、なかなか見応えがあります。虎口というのは城の入口で、防御の要になるところです。と言っても藪の中にある単なる土の山なんですが(笑)写真を撮りましたが、単なる藪としか見えません。やっぱり現地で見るに限ります。
現在、道路になっているところも郭があったのですが、すっかり破壊されてしまいました。丘上からの眺めはよく、久居や伊勢湾がよく見えます。反対側は山が連なり、北畠の本拠地である多気につながりますので織田信長との戦いでは最前線になりました。
都会のど真ん中に残る末森城
お釈迦さんの舎利が奉納されている日泰寺のすぐ近くに小高い山があり、山上にあるのが城山八幡宮。ここには前から行きたかった末森城跡があります。
織田信長のお父さん、織田信秀が築城した末森城。三河の松平や駿河の今川に備えた城で、織田信秀は古渡城から移ってきました。古渡城は現在の東別院にあります。やがて織田信秀はこの末森城で亡くなりました。
城山八幡宮がある場所が本丸で、周りには空堀が掘られていましたが、これが見事に残っています。空堀の底まで降りて撮影した写真ですが、単なる道にしか見えませんね(笑)。けっこう深い堀になっているところもあり本丸をぐるっと囲んでいます。それにしても都会の真ん中によく戦国時代の遺構が残りましたね。
信秀が死んで、末森城の新しい城主になったのが信長の弟である信行。母の土田御前がウツケと呼ばれる信長よりも品行方正な信行を溺愛していたこともあり、家臣が二手に分かれて家督争いに発展。やがて稲生が原の戦いが起き、信長は信行派だった柴田勝家らと戦い勝利をおさめます。桶狭間の戦いが起きる4年前のことです。
前田利家の生誕地(荒子城)
午後から「あおなみ線」沿いの企業さんに専門家派遣で行く用事がありましたので、午前中に前から気になっていた荒子へ行ってきました。
前田利家が生まれた荒子城。城といっても戦国時代ですので堀で囲まれた館のようなもの。現在、城跡はなにも残っておらず、天満天神宮になっています。この天満天神宮は荒子城の中にありました。今は住宅街に囲まれた中にポツンと残っています。
すぐ近くにある近鉄・伏屋駅に前田という地名があり、こちらに前田城がありました。この前田城で前田利家が生まれたという説もありますが、中心になったのは荒子城でした。信長の清須城からもそれほど離れておらず、そばを流れている川沿いに清須まで移動することもできました。当時、海岸線がずっと内陸部でしたので、荒子城は海を守る南の拠点にもなっていたのでしょう。
前田利家は信長の命で越前(石川県)に移り、城を守っていた前田利長も越前に移ることtなり荒子城は廃城になりました。尾張荒子から前田利家に従って移住した人が住んだことから金沢に尾張町ができています。
羽津城跡
津から名古屋へ向かう途中、近鉄四日市駅を超えて2駅目の阿倉川駅を超えたところで電車は小さな切通しのような所を通ります。電車の上に2つ橋がかかっていて森のような雰囲気。ネットで調べると城跡ということで、昨日、理論研修前に出かけてきました。
普通電車しか止まらない阿倉川駅から歩いて5分ほどのところにあります。小さな公園になっていて、お年寄りがゲートボールをやっていました。この
小さな公園が羽津城の本丸跡で碑が建っています。今でも土塁跡が残っていますが本丸の真ん中を近鉄が分断してしまっています。なんとも残念ですね。
藤原秀郷という、ムカデを退治した俵藤太という俗名の方が有名な武士がいて、この子孫である藤原盛宗が建てた城です。いわゆる伊勢赤堀氏で、もともとは、上野国赤堀庄の出身。
足利尊氏から鈴鹿の地頭職をまかされて伊勢に赴任しました。他に赤堀城や浜田城を兄弟が守っていました。赤堀城は住宅街の中に碑だけが残っていま
す。浜田城は近鉄四日市駅のすぐ近くにある鵜の森公園にあり、鵜森神社の周囲3ケ所に土塁が残っています。四日市の人間でも城跡が残っていることを知らな
い人が多いですね。
天王山(山崎城)
毎年、この時期に行なっている京都橘大学の集中講座がスタート。講義は午前中だけですので午後は山崎で下車。
秀吉と光秀がぶつかった山崎の合戦の舞台で、天下分け目の天王山と言われます。行楽シーズンになると高速道路の天王山トンネルの渋滞でも有名なところです。この天王山ですが、山の中腹にある山崎天王社に由来するんですね。
山崎駅から急坂を登るとハイキングコースになっています。月曜の午後にハイキングしている人なんていないだろうと思ったら、けっこうハイカーとすれ違いますね。クールビズとは言いながら皮靴で登っているので、周囲からは浮いています。
天王山の頂上に登ると、小学生の一団がワイワイやっています。この頂上付近は山崎城の跡地で光秀を破った秀吉が山崎城を作り、大坂城に移るまで利用していました。現在も曲輪の後などが残っています。
頂上付近をウロチョロしていたら、小学生に「おじさん、何してんの?山登り?」と尋ねられました。
「チャウチャウ、このあたりは昔の城跡なんだ」
「エー、ほんま」
そら小学生から見たら、ただの空き地にしか見えないでしょうなあ。
有岡城(伊丹城)
法事が伊丹市であったので朝から出かけてきました。法事が終わってからJR伊丹駅の目の前にある有岡城へ。
織田信長に所属していた荒木村重が突然謀反を起こし、伊丹城の戦いとなりましたが、この舞台となったのが有岡城です。と言っても本丸跡が公園として少し残っているぐらいですが、堀跡や土塁跡を見ることができます。都会のど真ん中によく残っていますね。
荒木村重を説得に有岡城へ行った黒田官兵衛が捕えられてしまい城の中の牢獄に1年間投獄されてしまいます。黒田官兵衛は息子の黒田長政を信長に人
質に出していましたが、信長はなかなか帰ってこない黒田官兵衛を裏切ったのではないかと考え秀吉に、人質の黒田長政を殺すように言います。この時、竹中半
兵衛が信長の命に逆らって黒田長政を匿うというシーンはよく時代劇などで描かれています。
有岡城は城下町を含めた惣構えになっていて、町の周りが土塁や堀で囲まれた大きな城でした。今のところ日本最初の惣構えのようです。さすがの信長も攻めあぐね、最後は城内からの裏切りで落城します。
北の端には「岸の砦」があり、現在の猪名野神社と考えられています。行ってみると神社の中には土塁跡が残っていました。JR伊丹駅と阪急伊丹駅のちょうど真ん中が惣構えの範囲にすっぽり入っています。
清洲城
新大阪から新幹線に乗って名古屋駅の手前に見えるのが清洲城。
いつも気になっていたので名古屋へ行ったついでに寄ってきました。信長が10年間、居城にした城で、ここから桶狭間の戦いに出陣しました。信長が
本能寺の変で倒れたあとに行われた、織田家の跡目について話し合う清洲会議もここで行われ、羽柴秀吉、柴田勝家、丹羽長秀などが出席していました。
清洲城は織田信雄が継ぎ、天守などを整備しましたが場所は現在の城の対岸側で、当時の石垣の一部が残っていますが、遺構は残っていません。現在の
清洲城は復元され博物館になっていて、発掘された金箔の瓦などが展示されています。名古屋城の櫓の一つに清須櫓があり、これは清洲城にあった天守を移した
ものと言われています。
この清洲城から桶狭間までは距離にして24km。時速6kmで行くと4時間の距離になります。ここで敦盛を舞って出陣する信長は時代劇の定番ですねえ。
物集女(もずめ)城
午前中は向日市で仕事。
午後から向日市をウロウロ。結局、有名な竹の径から戦国時代の城、物集女城まで行ってきました。竹の径は竹林を切り開いた道で、ずっと竹林が続くのは見事でした。ただ舗装ではなく土の道ならもっと風情があるんですが、農道目的なので無理でしょうね。
物集女は「もずめ」と呼び、古い土地です。少し前に「京都乙訓・西岡の戦国時代と物集女城」(文理閣)という本を読んだのですが、室町時代から戦
国にかけて村を統括する土豪が作った城がこの地域にたくさんあり、その一つです。室町幕府の配下で意気盛んでしたが信長の進出で細川藤孝が支配することに
なり、物集女城の主であった物集女氏は勝竜寺で殺されてしまいました。
城跡は住宅地の真ん中にあるのですが主郭は畑の形で残っています。周りには土塁と堀の一部が残っていて、よく現代まで残りましたね。近くに物集女公民館があり、係員に声をかけると復元模型がありますと案内してもらえ、パンフレットをもらいました。
ちょっと離れたところに寺戸城跡がありましたが、こちらは遺構は残っておらず児童公園に碑がたっていました。古城という字が残っているそうです。
開田城跡から勝龍寺城へ
午前中は長岡京市でお仕事。名前の通り、平安京の前に作られた長岡京のあったところです。安倍晴明の陰陽師では早良親王の怨霊の舞台となったところです。さすがに長岡京の痕跡は残っていません。
昼過ぎに終わったので阪急長岡天神駅近くの商店街を歩いていたら、バス停のすぐ近くにちょっと変わった公園がありました。公園といってもポケット公園でイスが置いてあるのですが名前が開田城跡公園!
開田城(かいでんじょう)!以前に「京都 乙訓‥西岡の戦国時代と物集女城」という本を読んだのですが、その本で紹介されていた城です。こんな商
店街のど真ん中にあったんだあ!遺構は土塁の一部だけが残っています。後で調べたら敷地跡に建つマンションの1階に開田城の復元模型があるそうで、今度
行ったら見てこよう!
阪急長岡天神駅から少し歩くとJR長岡京駅で、駅前にはムラタ本社があります。ここから少し歩くと勝龍寺城があります。信長の時代は細川藤孝が拠
点としており、ガラシャ夫人が輿入れした城で、11月には長岡京ガラシャ祭が行われるということで城の周りにはノボリが立っていました。
山崎の合戦では明智光秀の拠点となった城で、すぐそばが天王山です。敗れた光秀は勝龍寺城に戻り、夜陰に乗じて城を出て坂本城に向かったのですが途中の山科で殺されてしまいました。