新保館跡

新保館跡

近江中庄駅を降りてマキノ駅の方へ歩いていくと途中に天満宮があり、ここが新保館跡。土塁でもないかと神社の周りを探しましたが遺構はありませんでした。

足利尊氏の側近が饗庭の地をもらって饗庭氏と名乗りました。一帯には新保氏、田屋氏が地侍として勢力をもっており、この三氏が海津衆と呼ばれています。マキノ町新保は平安時代に新しく荘園として切り開かれた土地で新保には「新しく開墾した土地」という意味があります。新保氏はこのマキノ町新保を本貫としたようです。このあたりは湖西線から琵琶湖にむかって田んぼが規則正しく並んでいます。

■光秀が海から攻撃

海津は琵琶湖の北にあり、ここで船から荷をあげて疋田経由で日本海と結んでいました。古代から物流の拠点になっていたこともあり、戦国時代は六角氏、京極氏、浅井氏が取り合い、最終的に海津衆は浅井氏の支配下になります。信長が浅井氏と対立した時、浅井氏の経済基盤を壊すために明智光秀に命じて船から焼き討ち攻撃をしています。

櫟野大原城

櫟野大原城

甲賀・櫟野(いちの)に築かれた大原氏の城です。大原氏は甲賀五十三家の一つになります。独立した丘陵に築かれた城で、よく整備されていました。登山口に案内があり登っていくと郭と郭の間の堀切を進むことになります。当時は搦手として、この道が使われていたのかもしれません。郭から攻撃されたらひとたまりもありません。道は途中で90度に曲がり郭の虎口につながっています。

櫟野大原城は細長い丘陵の稜線上に、直線的に連立し3つの曲輪が連なっています。真ん中の郭が主郭のようで、高い土塁で囲まれています。もう一つの郭は土塁もありますが、土塁がとぎれていることもあり、こちらが大手道だったかもしれません。郭の中もよく整備されていて登りやすい山城です。

滝川城

滝川城

織田信長・家臣で中途採用から駆け上がった武将といえば秀吉や光秀が有名ですが、もう一人います。それが滝川一益です。伊勢攻めや武田攻めなどで功績をあげ、織田信長の信任も厚く、最終的に関東をまかされて関東管領のような地位につきます。ところが本能寺の変が起き、まだ戦後処理の真っ最中だった関東では騒乱となり、争いに負けて領地だった伊勢へ戻ります。最終的には秀吉に仕えることになりますが、運が悪かったですね。

滝川一益は甲賀出身といわれていて、滝川氏一族の居城だったのが滝川城です。櫟野川沿いの小山に築かれている城で尾根の先端部に築かれています。案内版があり、瀧川一益は、甲賀大原荘に生まれて16歳まで在住したと書かれていますが、本当かどうか分かりません。案内版から登ると土塁があり、南側には大きな堀切があります。

油日城

油日城

杣川と支流に囲まれた丘陵に築かれたのが油日城です。甲賀上野城と同様に上野氏一族の城と考えられています。近くに油日館跡という屋敷跡があり、油日城は有事の際の詰城と考えられています。ここは案内も何もないので事前に調べて山城へ。墓地を抜けて杣川の小さな橋を渡ったところから城跡に入れるとありましたが、行ってみたら藪の中。こりゃ、とても無理だなと鹿深の道(県道131号)へ戻ると遠くに土塁の壁が見えます。

藪よりはましだろうと林の中を進んで土塁の登れそうなところを探して直登です。主郭は方形で高い土塁が巡っています。一部は高くなっていて櫓台のようです。北東部に虎口があり出ると腰郭がありました。腰郭の虎口を抜けていくと藪になっていて、藪をかき分けていくと最初に断念した場所へ出ました。ここから入るのは冬でないと無理そうです。兵站地のような場所も城周りにありました。

甲賀上野城

甲賀上野城

伊賀、甲賀といえば忍者が有名で、忍者ハットリくんの敵役だったケムマキくんが甲賀忍者です。甲賀忍者が記録に初めて登場するのが鈎の陣です。第9代将軍、足利義尚が六角討伐の軍勢を率いて京を出発し、近江の鈎に陣をかまえます。この陣に夜襲をかけたのが甲賀衆で、神出鬼没の動きに甲賀忍者と呼ばれるようになります。

■上野氏
六角氏に味方したのが甲賀の地侍五十三家で甲賀五十三家と呼ばれます。この甲賀衆の一人が上野氏で、この上野氏の居城が甲賀上野城です。山城では珍しく県道4号線に「上野城」という道標がありました。道標に従って山に入り、山道に従って登っていくと城跡につきます。ただ虎口などはけっこう技巧的になっていて戦国時代に改修されたようです。主郭は方形で高い土塁が巡っています。よく遺構が保存されています。

菖蒲谷砦

菖蒲谷砦

天正11年(1583年)、柴田勝家と秀吉が戦った賎ヶ岳合戦は攻城戦でした。秀吉は最前線にあった天神山砦と茶臼山砦を放棄して、前線を下げたため堀秀政が守る東野山城が最前線になります。東野山城の出城として築かれたのが菖蒲谷砦です。菖蒲谷砦から堂木山砦との間には防塁を作って北国街道を封鎖しました。

■菖蒲谷砦
菖蒲谷砦は2つの尾根上に築かれ頂上に主郭があります。北側の尾根の裾野から城を目指しましたが、かなりの急斜面になっています。ヒーハー言いながら何とか木々の間の斜面を登り、ようやく尾根筋へ出ると郭跡がありました。ここが最前線で見張り台だったのでしょう。尾根筋がまた斜面になっていて、ひたすら登っていくと主郭に到達しました。土塁や堀切が明瞭に残っていました。帯郭や虎口もあります。

もう一つの尾根筋を下ろうと思ったら違った尾根を下ってしまい、途中で切れ落ちていました。こりゃダメだと主郭まで戻り、尾根を下っていくと、こちらは見張り台のような先にも削平地がありました。当時のものかは不明ですが、虎口もあるので駐屯地だったかもしれません。さらに下って、ようやく林道に出ました。

天神山砦

天神山砦

JR余呉駅からずっと北へ行ったところに天神山砦があります。天神山砦へは草岡神社の裏側から動物除け柵の入口を通ると遊歩道があるという事前の情報をチェックして向かったのですが、行ってみたら藪の中。ようやく柵の入口を見つけても遊歩道は見つかりません。ひたすら急坂を登るだけで、かってあった遊歩道は山道に変貌していました。何とか苦労して砦の虎口に到達。

天神山砦は天正11年(1583年)に起きた賎ヶ岳合戦で秀吉方が築いた砦です。賎ヶ岳合戦では柴田勝家側も秀吉側も、たくさんの砦を作り、均衡状態になります。天神山砦は最前線の砦として築かれました。最前線なので、けっこう大きな陣城になっていて東西二郭を中心としており、西郭の方が高所にありましたから主郭だったのでしょう。土塁が巡った郭が続き、郭の間は堀切で区切られています。

かなりの土木工事で砦を作りましたが、柴田勝家側の佐久間盛政が天神山砦を俯瞰できる行市山砦に布陣したことから、不利になりました。秀吉は天神山砦と茶臼山砦(遺構はほぼなくなっています)を破棄して、東野山城・堂木山砦・神明山砦まで前線を下げます。

笠上砦、見つけられず

東野山城からの帰り道、Googleマップを見ると笠上砦のマークが!

鉄塔

東野山城の出城がいくつか造られたので、その一つでしょう。林道から山の中に入って、マークの場所を目指しますが、結局は送電線の鉄塔のところをGoogleマップが笠上砦として示していました。「こんなところなの!」と、とりあえず周辺を探訪。けっこう歩き回りましたが城の痕跡はなし、大体、砦なら切岸があるはずですが、なだらかな坂になっているだけです。別の所を指しているのではと林道から反対側に登って、ひたすら尾根道を歩きますが、こちらも城の痕跡はなし。結局、さっき歩いてきた林道に行き当たりました。

Googleマップの山城の位置は、けっこう間違っていることも多いので、その一つですね。Googleマップが間違っている場合はフィードバックができ修正できます。送迎山城なんかも場所が間違っていたので修正したこともあります。笠上砦も調べなおして次のベストシーズンにアタックするしかないですね。

東野山砦

賤ケ岳の合戦で堀秀政が守ったのが東野山砦。秀吉軍の防衛線である連珠の砦よりも、さらに前に出て築かれた山城です。今も土塁や空堀などが見事に残っています。入口は堀底道になっていて高い土塁から攻撃を受けながら進まないと虎口にまでたどりつけない複雑な構造になっています。東野山砦からは余呉湖方面も柴田軍方面もよく見えたでしょう。現在は余呉湖方面しか見えません。東野山砦はもともと京極氏、浅井氏の配下だった東野豊前守一族の居城でしたが、堀秀政が整備しなおしました。

東野山砦

柴田軍にとっては、やっかいな場所に造られた城で、正面突破ができないので、佐久間政盛が行市山を出て、南下し余呉湖をまわりこむ形で中入りをしました。中入りといえば小牧・長久手の戦いで秀吉軍の中入りが失敗しましたが、堀秀政は冷静な判断で家康軍に一矢報いました。その後の小田原攻めの最中、陣中で病没しました。

連珠の砦

ちょっとした土の高まりしかないのですが、ここが連珠の砦跡です。

連珠の砦

賤ヶ岳の戦いで先手をとったのが柴田勝家側。玄蕃尾城、行市山城など次々と高台に拠点をつくり持久戦にかまえる体制を整えます。出遅れたのが秀吉側で防衛線を南に下げ、北国街道の西側の山に神明山砦、堂木山砦を築き、東側の山には東野山城を築きます。この砦の間の平地には塹壕を掘って、掘った土で土塁を築き、柵を設置します。塹壕が数珠のようにつながっていたので連珠の砦と呼ばれました。

三木城攻めでは各砦の間が土塁で連結されていました。あれよりも小規模ですが、賤ヶ岳の戦いの最前線になったところです。ただ、北国街道などが整備させれて、遺構はほぼ無くなりました。