中小企業診断士の研究会であるファイティング・コンサルタンツ研究会。根城にしている株式会社セレソヴィーがM&Aで堺東から深井に移転したことで、深井の新事務所で初会合。
深井駅を降りると駅前に”史跡土塔”の文字を発見。調べると10年ほど前に創建当時の姿に復元整備されたとニュースで見た土塔でした。”そうか深井にあったんだあ!”というわけでメンバー全員で急遽、土塔見学に。
土塔は東大寺建立などに関わった堺出身の奈良時代の僧、行基が建立したものです。約60,000枚もの瓦を使った十三重の塔で、奈良の高畑町にはよく似た頭塔があり、こちらも奈良時代のものです。
研究会が終わってからは深井駅近くの情熱ホルモンで飲み会。研究会と同じ時間だけ飲んでおりました。
カテゴリー: 大阪の話題
商売繁盛で笹もってこい
和田賢秀の墓(四条畷)
大阪府よろず支援拠点の仕事で四条畷商工会へ。途中にあるのが和田賢秀の墓です。
和田賢秀は楠木正季の息子です。楠木正季は楠木正成の弟で、湊川の戦で兄である正成と共に討死しました。楠木兄弟が戦死した後、一門の棟梁となったのが楠木正行です。楠木正成・正行父子が訣別する桜井の別れで有名です。
そういえば高校の歴史教科書から、武田信玄、上杉謙信、坂本龍馬と共に楠木正成の名前もなくなるんですね。
和田賢秀は従兄弟の楠木正行と共に四條畷の戦いに出陣し、討死します。伝説によると、討死の際に敵将の首に噛み付き睨んで放さず、敵はそれが原因で死んだと言われています。
■楠木一族なのに、なぜ名前が和田?
もともとは饒速日命の後裔で、物部氏や穂積氏とは同祖となります。河内国の和田正遠が楠木氏の家系を継承したことから楠木正成一族は楠木の名前を使います。
ただ他の一族は和田を称しており、和田賢秀の兄である和田高家は岸和田古城を築きます。岸と呼ばれた土地の和田からダンジリで有名な岸和田という地名になります。
大坂の陣巡り
中小企業診断士の集まりであるファイティング・コンサルタンツ研究会で大坂の陣巡りをしてきました。昨年のコース(真田丸跡→安居神社、茶臼山→九度山)の続きです。
まずは河内国分駅に11:10に集合。電車の時間まで掲載したのに、さっそく15分も遅れてくるメンバーがでてきます。まずは駅近くの小松山へ。道明寺合戦の舞台となったところで後藤又兵衛が討死したところです。「後藤又兵衛の碑を見たい」という希望があり、予定にはなかった市立玉手山公園へえっちらおっちら登ります。ここには碑だけでなく供養塔などもあります。急坂なんで「しんどい」と文句が出ますが、碑が見たいと言うたのは誰や!
河内国分駅から若江岩田駅へ。駅前の中華料理店でさっそくミニ宴会。そこからひたすら歩いて若江城跡、木村重成墓を巡ります。飲んでいるので、このあたりから、どんどんと「しんどい」と文句が出始めます。そもそも最初から「今日は歩きまっせえ」って言うてましたやん!
若江岩田から上六へ出て、仁徳天皇の高津宮跡、空堀商店街、榎木大明神などを巡って、最終目的地の大阪城へ。終わってから昔、研究会でよく行っていた谷四の「いつもの場所」へ。結局、2万歩以上歩いた大坂の陣巡りでした。お疲れさまでした。
妙国寺(堺市)
昔の地形を道が覚えていた津堂山城古墳
近鉄・藤井寺駅の北で大和川近くにあるのが津堂城山古墳。城山という名前がついているように室町時代は三好氏が城として使っていました。近辺にある恵我ノ荘駅近くの大塚山古墳も城として使われていました。
本当の継体天皇陵といわれている高槻の今城塚古墳も堀と思われるような窪みなどがあり城跡と考えられていましたが、発掘調査の結果、伏見大地震によって墳丘が地すべりによる崩壊で城ではなかったことが判明しています。
津堂城山古墳は前方後円墳として認識されていましたが、考古学者の末永雅雄氏(橿原考古学研究所初代所長)が戦後、空から古墳を観察する新しい研究方法を考案します。航空写真をよく見ると道路が変な風に曲がっていることが判明。外側にも濠があったようで発掘してみると濠跡を発見。結局、二重の濠をもつ巨大な前方後円墳だったことが判明します。古市古墳群では応神天皇陵の次に大きいことが分かりました。
住宅地が外濠にあわせて建てられ昔の地形を道や住宅が覚えており、今もその痕跡をGoogleマップで見ることができます。
岩屋
太子町のすぐ東にあるのが大和と河内の境にある二上山。”にじょうざん”とも読みますが、昔は”ふたかみやま”と呼んでいました。二上山は雄岳と雌岳の2つの山頂からなっており、駱駝のコブのような形になっています。
大和の東側、大神神社の近くにある檜原神社(元伊勢)から見ると春分と秋分の日に夕日がこのコブの間に沈むのを見ることができます。二上山には非業の死を遂げた大津皇子の墓があることでも有名です。
二上山の南を通るのが竹内街道で日本最古の官道です。推古天皇の時代に隋からの使節団を迎え入れるために整備されたと考えられていて、オリンピックで道路を作るのと同じですね。現在は国道166号が走っていて飛鳥時代からの道が今も使われています。ただ車が多く、あまり情緒を感じられません。そんな時は竹内峠ではなく、少し北の岩屋峠にハイキングコースがあり、こちらがおすすめ。ここには奈良時代に作られた大陸風の石窟寺院「岩屋」があり、国の史跡に指定されています。
和を以て貴しとなす
太子町のマンホールをよく見ると「和を以て貴しとなす」と書かれています。ご存知、十七条憲法の第一条です。今回の選挙の争点に憲法改正が話題にあがっていました。
十七条憲法は「篤く三宝を敬へ」など、法律というより役人の心構えが中心に書かれています。当時は他に法律がなかったようですので十七条憲法が最高法規となります。
やがて律(刑法)と令(行政法など律以外)が制定され、律令時代となります。鎌倉時代になると公家は律令にしばられますが、武士用ではなかったので御成敗式目が制定されます。戦国時代の分国法(今川仮名目録など大河ドラマ・井伊直虎に出てきました)も、この御成敗式目が基本となっています。もっとも戦国時代、法はあっても自力救済(権利を侵害された者が、司法手続によらず実力をもって権利回復をはたすこと)の世界でした。ですので映画「七人の侍」が描かれました。あの映画のテーマは自力救済です。
江戸幕府になると武家諸法度、禁中並公家諸法度が制定され、明治となり大日本帝国憲法ができ、昭和の日本国憲法へとつながっていきます。
日出ずる処の天子 小野妹子墓
日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。つつがなしや
第二回遣隋使で聖徳太子が小野妹子に持参させた国書の冒頭部分。天子という言葉に隋の煬帝が怒ったと伝わっています。ただ当時の国際情勢から倭国と敵対するわけにもいかず、煬帝の家臣である裴世清が小野妹子の帰還に伴って返書を持ち派遣されます。住吉津に着き、大道を通って飛鳥京へ戻りました。
翌年には返書と裴世清の帰国のため、高向玄理、南淵請安、旻らと共に再び隋に派遣されます。ウーン、日本史で習った人物ばかりですねえ。(笑)
なぜか太子町に小野妹子の墓があります。蘇我氏の一族と連なっていたんですかねえ。小野妹子は華道の家元である池坊の始祖にあたり、墓は池坊が管理しています。それはいいのですが、墓は長い階段の上にあり太子町が一望できます。山城には最適な場所なんですが、城の遺構はないですね。
ほんまかいな?蘇我馬子の墓
聖徳太子のお墓がある叡福寺から少し行った住宅街に石塔が建っています。これが地元では蘇我馬子墓と伝わっています。最近のGoogleマップはすごいですね。きちんと表示されます。
定説では石舞台古墳が蘇我馬子の墓ではないかと言われています。この石舞台古墳のすぐ近くにある都塚古墳が近年、階段ピラミッドの墓だったと分かり、これが蘇我稲目の墓ではと言われています。蘇我稲目は馬子の父親で仏教伝来の時に大連の物部尾輿と争った人物です。仏教公伝、日本史で覚えましたねえ。蘇我氏の墓は本来、飛鳥にありますので、なんで太子町に蘇我馬子の墓が伝わっているのでしょうか。
太子町にある磯長谷は、大和川の支流である石川流域にあります。蘇我氏の祖は石川宿禰(いしかわのすくね)と言われ、この一帯が蘇我氏の最初の本拠地との一つと考えられています。大化の改新では蘇我倉山田石川麻呂が登場し、蘇我氏はもとの石川を名乗るようになります。そんな土地だからこそ、聖徳太子と二人三脚で歩んだ蘇我馬子の墓のいわれができたのでしょう。