用明天皇陵、聖徳太子のお墓ときたので次は推古天皇陵。同じ太子町にあります。推古天皇といえば日本で初めての女帝で第33代の天皇。用明天皇の妹にあたり、甥の聖徳太子が摂政を努めました。
推古天皇は聖徳太子や蘇我馬子と共に仏法興隆にも努め、斑鳩に法隆寺が建立されます。また難波京から飛鳥まで大道(幅19m)を整備し、冠位十二階、十七条憲法が制定され、小野妹子が隋に派遣されます。激動する海外情勢に対応するため日本という国家が大いに整備された時代でした。
推古天皇は75歳で小墾田宮で亡くなりますが、若くして亡くなった息子の竹田王子と一緒に葬ってほしいということから合葬されました。これが橿原市にある植山古墳のようですが、改葬され、現在の推古天皇陵になりました。
どうも二つの石室があったので宮内庁が推古陵と比定したようですが、「?」のようです。地元ではすぐ近くにある二子塚古墳こそが本当の合葬陵であるとする言い伝えがあります。本当のところは誰の陵か分かりりませんが、高台にあり近辺が一望できる眺めがよいところです。
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聖徳太子のお墓
太子町に叡福寺というお寺があり、ここに聖徳太子のお墓があります。直径50メートル、高さ10メートルの円墳で、太子と母君の穴穂部間人皇后、妃の膳郎女の3人の棺が納められています。前後し相次いで亡くなっていますので、伝染病で亡くなったという説があります。
お墓には立派な山門や線香立てがあり、3層の建物もあって、他の天皇陵などとはだいぶ趣が違っています。
江戸時代まで、参拝のために石室内に入れたので、空海などが石室内の図を残しています。先日、NHK・歴史秘話ヒストリアで「聖徳太子の棺(ひつぎ) 伝説のその先へ」という番組をしており、釈迦三尊像の光背に彫られた196文字の銘文が聖徳太子と同時代のものである可能性を伝えていました。銘文によると像の高さを聖徳太子の背の高さにあわせたとあり、175cmぐらいあったようです。古代ではかなりの長身ですね。
枚岡駅の踏切越えがハイライト 枚岡祭り
河内一之宮である枚岡神社の秋祭り。毎年、10月14日、15日に行われます。今年はたまたま土日となりましたが、天気はいまいちでした。
東高野街道にある鳥居に集合し、ひたすら生駒山の裾野を上がり枚岡神社境内を目指します。ハイライトは近鉄・枚岡駅の踏切越え。職員が電車の通過タイミングの間隙をぬって23もの太鼓台を通します。枚岡駅周辺は祭り見物で人があふれており、異様な雰囲気に電車の運転士がどうしても徐行運転するため、ダイヤが狂いがち。なんとか連絡を取り合って、太鼓台を通せる時間を作って通しています。毎年のこととはいえ、ご苦労様です。
踏切を超えると一番傾斜がきつい坂が待っています。この坂を登りきると、いよいよ境内で宮入がはじまります。
比定地として間違いがない用明天皇陵
先日、山城へ行くついでに太子町へ寄ってきました。太子町は日本の王家の谷とも呼ばれ蘇我に縁がある古墳が集まっているところです。
写真は用明天皇陵。用明天皇は第31代天皇で聖徳太子のお父さんとして有名です。用明天皇自身のお父さんは仏教伝来で有名な欽明天皇。日本史で習いましたね。お母さんは蘇我稲目の娘・堅塩媛です。都は天香具山近くの磐余池辺雙槻宮でした。
用明天皇となり在位2年足らずで崩御してしまい、後継者争いから物部守屋の排仏派と蘇我馬子・聖徳太子の崇仏派が争うことになります。最終決戦は現在の八尾市で行われ、大聖勝軍寺に物部守屋の墓があります。単純に仏教受入だけでなく半島情勢を元にした外交や国家運営に対する考え方の違いも影響していました。
天皇陵といえば前方後円墳が基本でしたが、初めて方墳になったのが用明天皇陵です。また宮内庁が天皇陵を定めていますが、考古学の知識がない江戸時代の比定を元にしているため、とんでもないことになっています。そのなかでも、比定通り用明天皇陵で間違いないだろうという稀有な例になっています。
大阪南港ATC
大阪南港に ATC(アジアトレードセンター)という建物があります。久しぶりに行くと、だいぶお店が変わっていました。またATCは大阪と九州を結ぶサンフラワーの港になっているんですが、でかでかと2017年10月1日より「さんふらわあターミナル(大阪)」という看板が出ていました。
ネーミングライツ(自治体が命名権を企業などに販売)で、株式会社フェリーさんふらわが命名権を取得し、10年間の長期契約を結んだそうです。大阪では他にも大阪ドームは京セラドーム大阪になっています。
今日は「IoT関連技術の開放特許フェア2017」というイベントがあり、併設して相談会があったので、大阪府よろず支援拠点と大阪発明協会がペアで相談対応していました。
ほったらかしにできる花鉢ハラポット
原スイコー社(堺市)の花鉢ハラポットを試してみました。
まず石切商店街にある花屋さんで買ってきた花鉢からハラポットに植え替えます。根についた土を落としますがマンションのベランダで行いますので水洗いできません。本当は水洗いをした方がよいでしょうが、風呂場でやるわけにもいかず、適当に土を落としてキットについている培養土(軽石と布のようなものでとっても軽い)に入れます。
次に2リットルのペットボトルに培養液を少し入れて水で薄めます。10mlと書いていましたが目分量です。(笑)ペットボトルを振ってから水タンクに入れてセットすれば作業は終了。水タンクを下向きにする時に素早くやらないと少しこぼれます。あとは日があたるところに置いて、ほったらかしです。
水タンクは5日ほどでなくなりますので、なくなる前に補充するだけ。出張でも、ほったらかしでかまいません。水タンクは重いのですが培養土などはとっても軽いです。ベランダに花を植えていますが、水やりをどれほどやればよく分からず、やりすぎて枯らすこともありますがハラポットはほったかしでかまいません。
花を植えたら次々に他の花も咲きだし1ケ月ほど楽しめました。
→ 原スイコー社
オタクからインバウンドへ 日本橋
豊浦は邪馬台国と関係がある?
我が家の隣が豊浦町ですが、反対側には額田町があります。
こちらも古い土地で額田氏が住んでいました。今は住宅街になってしまいましたが、古代には馬を放牧する牧だったようで遺跡からも馬の骨などが見つかっています。額田の名前の由来は額に旋毛(つむじ)がある馬を大王に献上したことから額田部の姓をたまわったようです。当時は軍や農耕に馬の機動力が必要でしたので馬の放牧はとても重要でした。豊浦に拠点があった河内母樹馬飼首御狩の名前にも馬飼とついています。
■額田と豊浦
額田氏の居住した地域には額田や豊浦の地名が多く、奈良の平群や尼崎にも額田という名前の土地があります。推古天皇は額田氏に養育されたことから額田部皇女と呼ばれ、飛鳥で政治をとった場所が豊浦宮と呼ばれました。推古天皇は豊御食炊屋姫尊とも呼ばれています。
■トヨは邪馬台国と関係がある
神功皇后の宮も豊浦宮で、聖徳太子(豊聡耳)やお父さんである用明天皇(橘豊日天皇)にも皆、豊(トヨ)が入っています。日本書紀は魏志倭人伝を読んでいるはずなのに邪馬台国の記載がなく、神功紀に邪馬台国で卑弥呼の後に擁立されたトヨが魏王に朝貢したと解釈できる文があり、邪馬台国のトヨが豊浦などと関係しているのではという説もあります。
ウチの近所で孔舎衙坂の戦いが行われた?
近鉄・新石切駅から少し北に行くと日下(くさか)という土地があります。神武天皇の時代は生駒山の麓まで海でした。
日下は草香、孔舎衙とも書き、日本書紀、古事記に出てくる神武東征で孔舎衛坂の戦いが行われたところです。大和をおさめていた長髓彦(ながすねひこ)に敗れ、神武天皇の兄が矢傷を負います。神武天皇は”日神の子であるのに、東(太陽)に向かって進んだのがダメなんだ”という”最初からそんなことぐらい分かるだろう”というツッコミどころ満載の理由で紀州を迂回し、熊野から大和へ攻め入ります。
■孔舎衛坂は暗峠?
神武東征は日下の出来事と思っていたんですが、「蘇我氏と馬飼集団の謎」という本を読むと、隣の豊浦町が孔舎衛坂の戦いの舞台になっていてビックり!長髓彦の攻撃をやりすごすために大きな樹に隠れてやりすごした人がいて、恩、母のごとしと樹に感謝したことから、その地を母木邑(おものきむら)と名づけました。この母木邑が豊浦町だそうです。
大阪から奈良へ攻め入るなら暗峠を進のが基本です。大坂の陣でも後藤又兵衛らが暗峠を越えて、大和郡山城を占領しに行っています。暗峠に行く途中が豊浦なので、孔舎衛坂の戦いとは暗峠の攻防戦だったかもしれません。
継体天皇の時代に任那復興で派遣された近江毛野臣の従者に河内母樹馬飼首御狩という人物がいて母木邑の母樹が名前に入っています。枚岡神主の水走氏旧記によると、母木は豊浦になっていますので、河内母樹馬飼首御狩の本拠地は豊浦周辺のようです。大坂夏の陣で徳川家康が本陣を置いた中村屋敷跡も豊浦にありますので、今は住宅街ですが昔は館を作りやすい土地だったのでしょう。
神武天皇の東征か、もしくは神話のモデルとなった戦いはウチの近所で行われた可能性大なんですねえ。
サントリービルディング
堂島の一番端にあるのがサントリービルディングです。堂島グランドビルにいた頃、サントリービルディングの地下にあったバーに、時たま行っておりました。
マティーニにパールオニオンを入れるとギブソンになりますが、当時、読んだ火浦功の「ハードボイルドで行こう」にパールオニオンではなく桃屋の花らっきょをマティーニにいれるシーンがあり、真似して入れたのはサントリーのバーだったかなあ。
■ペンギンCM 覚えています?
サントリーといえばCMですね。1980年代はペンギンで松田聖子のスィート・メモリーズがバックに流れたペンギンの悲喜こもごものアニメでした。あと山下達郎のアイラブユーが流れるなか、ロボット風パントマイムのCMもオシャレでしたね。
もう少し古い時代には、ちょうど日経新聞の小説連載でオールドが登場していますが、オールドのコマーシャルに冬の渡り鳥というのがあります、夜の浜辺で焚火をしながらホットオールドを飲むシーンが出てきます。
その時のセリフが「冬になると渡り鳥が木の枝をもって渡ってくる。波間に浮かべて休むためだ。春になって鳥たちが帰っていくと、冬を越せなかった鳥の数だけ木の枝が浜辺に残る。その枝をくべてウィスキーを飲む。」としみじみする内容でした。
一幅の絵になるようなコマーシャルって、少なくなりましたねえ。CMスキップが行われるわけです。