IMPビル

京橋でお仕事だったので帰りは久しぶりにOBP(大阪ビジネスパーク)へ。大阪砲兵工廠があったところで小松左京の「日本アパッチ族」の舞台となったところです。今は再開発され超高層ビル群と公園で構成されています。TWIN21ビルのすぐ横にあるのがIMPビルで上に貸し会議室があり、20年ほど前、ITコーディネータのケースケース会場として使っていたので、よく来ていました。懐かしいな~。

IMPビル
IMPビル

IMPビルの隣には読売テレビのビルができていてコナンの銅像もありました。そうそう団扇をもった女性がたくさんいて、大阪城ホールでキンプリのコンサートだったんですねえ。その後、ITコーディネータの研修会場は梅田スカイビルに移り、最後は松屋町のUHA味覚糖ビルとなりました。

関西学院構内古墳

関西学院大学です。関西は「くわんせい」と読みますので「かんさいがくいん」と言うと怒られます。

関西学院構内古墳
関西学院構内古墳

関西学院大学は創立40周年の1929年(昭和4年)に神戸から甲東村(西宮市)へ移転。移転した上ケ原校地は東六甲石丁場など遺跡が多い所でした。社会学部の裏手には古墳もあり、関西学院構内古墳と呼ばれています。古墳時代後期に造られたもので、このあたりに古墳群がありましたが多くが消失しました。

上ケ原では江戸時代に用水を整備し新田が作られます。江戸時代に建てられた道標や、用水を分配する石の分水樋がそこかしこに残っています。

旧三井家下鴨別邸

時代劇の定番といえば「お代官様、これを...」「越後屋、お主も悪よのう」で出てくるのが日本橋にあった越後屋(三越)です。時代劇では悪役イメージですが、店頭で現金取引、掛け値なしのビジネスモデルを提供し大成功します。皆さん、よくご存じのように三井といえば松坂商人です。松阪には三井財閥の基礎を築いた三井高利の生家跡地が三井家発祥地として残っています。

旧三井家下鴨別邸
旧三井家下鴨別邸

この三井家には11家あったそうですが、共有の別邸が下鴨神社のすぐ近くにあり、これが旧三井家下鴨別邸です。1階座敷から庭を眺めることができ、よく京都特集の番組でも使われています。3階に望楼があるのが特徴で、明治時代の建物です。下鴨納涼古本まつりに行ったついでにのぞいてきました。

大阪歴史博物館

久しぶりに谷四にある大阪歴史博物館へ

大阪歴史博物館
大阪歴史博物館

一番上の展示場が難波京大極殿をモチーフにしていて朱塗りの柱が原寸大に復元され、官人が整列しています。以前は暗いなか、上のスクリーンに長安から新羅、難波京への旅が映し出され、難波京大極殿前に整列した官人の前で左大臣である橘諸兄が聖武天皇による遷都の詔を読み上げるシーンで終わります。大極殿を俯瞰する映像に変わって現代の姿にだんだんと変貌すると、前方の窓が全部開きます。そして現在の難波京跡が俯瞰できるという粋な演出になっていました。

とってもダイナミックだったんですが、開閉動作を続けるのは保守が大変ということもあり、現在は開けっ放しになっていて映像を流しています。

龍田社

奈良には龍田神社が2つあります。一つは三郷町にある龍田大社で、風の神様で有名です。近くの斑鳩にも龍田社という神社があります。

龍田社
龍田社

龍田社は聖徳太子が寺地を探し求めていた時に、白髪の老人に化身した龍田大明神があらわれ、「斑鳩の里こそが仏法興隆の地である。私はその守護神となろう」と言われたそうです。そこで法隆寺を建立し、鎮守社として龍田大明神を祀る龍田社を創建したのが由来だそうです。

龍田社の元々の祭神は龍田比古神・龍田比女神でしたが、龍田大社から天御柱命・国御柱命が勧請され、こちらが主祭神となっています。『大和志』では、龍田大社の本宮に対して龍田新宮となっているので龍田大社の後にできたのでしょう。

■金剛流の発祥地
能の発祥は奈良で観世(結崎座)、金剛(坂戸座)、宝生(外山座)、金春(円満井座)は大和四座と呼ばれています。龍田地域には、金剛流の源流とされる「坂戸座猿楽」が古くからあり秋の祭礼には、村人たちにより猿楽や田楽が演じられてきました。そこで境内には「金剛流発祥の地」の碑が建立されています。

能は代々の政権に保護され、江戸時代には江戸城内に町人5千人が招待され、将軍とともに能を楽しむイベントがありました。この日ばかりは無礼講で、将軍が登場すると「親玉!」や「成田屋!」という声が町人からかかったそうです。

築留(大和川付け替え)

大和川は亀の瀬から大阪に出て、現在はそのまま西に流れ堺市の北側で大阪湾に出ます。古代は、北に流れ河内湖に注いでいました。難波津に着いた隋からの使節は河内湖から大和川に入り南下し、亀の瀬から斑鳩、飛鳥を目指しました。

築留(大和川付け替え)
築留(大和川付け替え)

江戸時代になると、この大和川が天井川になってしまい周囲の田よりも3メートルほど高くなってしまいました。大雨が降ると洪水になってしまいます。ここで中甚兵衛という人物が中心になって大和川の付け替えが計画されますが、新しく流路になる村などは猛反対。抵抗勢力を排除しながら付け替えは成功。鴻池新田などが生まれます。

大和川の付け替えをした場所が「築留(つきどめ)」。土を積み上げて(築いて)、川の流れを止めた(留めた)所です。明治時代には煉瓦造りの単アーチ型樋門も作られました。現在の玉串川、長瀬川になります。

奈良の大仏の原点 智識寺

■奈良の大仏の出発点 智識寺
河内六寺の一つ智識寺です。仏教信徒のことを智識と言い、寺や仏像を造るために私財や労働力を提供しました。民間の力で建てられた寺院を智識寺と言っておりました。高台にある石神社には東塔の礎石があり、50mほどの塔が建っていたようです。智識寺は東西2つの塔をもつ薬師寺式伽藍だったようです。

智識寺
智識寺

この智識寺が奈良の大仏のきっかけとなりました。740年に難波宮へ行く途中に聖武天皇が智識寺を訪れ、廬舎那仏(観音立像の説もあり)と寺を支える民間の力に感動して、奈良の大仏を作ろうと考えます。この廬舎那仏が高さが18mもあったという説がありますが、よくわかっていません。

■仏教バリアで日本を守る
当時、天然痘が猛威をふるい藤原武智麻呂・房前・宇合・麻呂の四兄弟が相次いで死去します。また天平時代は例年旱魃・飢饉が続き、734年には畿内七道地震という大地震がありました。生駒断層帯が動いた直下型地震で聖武天皇も体験します。

社会不安を鎮めるために仏教で日本を守ることにします。東大寺に大仏を建立し、各地に国分寺、国分尼寺を作って日本中を仏教バリアで覆う壮大な計画を実行します。

木沢長政の墓

鳥坂寺跡から智識寺跡を目指そうと柏原市歩いていると安堂太平寺共同墓地に木沢長政の墓を発見!
調べてみると木沢長政の遺族が五輪塔を建立した可能性が高そうです。

木沢長政の墓
木沢長政の墓

木沢長政といえば飯森山城を築城した人物です。守護である畠山氏の有力な被官でしたが、力があり信貴山城や二上山城を築城しています。三好の遺児である三好長慶を畠山晴元のもとへ帰参させたのも木沢長政でした。畠山の家中はかなりグチャグチャで、ここに三好長慶、遊佐長教、室町将軍、一向宗、法華宗、筒井などがからんで、さらにグチャグチャになります。

河内や摂津の山城関係で必ず名前が出てくるのが木沢長政です。10年にわたり畿内で権勢をふるっていた木沢長政は最後に孤立することになり、遊佐軍、三好軍との戦いとなります。これが太平寺の戦いで、カタシモワイナリー付近で戦われ木沢長政は討ち死にします。この後に台頭するのが信長の前に天下人となった三好長慶です。

そうか、あの木沢長政の墓があったのか!

鳥坂寺跡

単なる野原のように見えますが、ここが鳥坂寺跡です。鳥坂寺跡の中心は近鉄大阪線が通り、こんもりとした森が塔跡になり、手前には金堂がありました。鳥坂寺は河内六寺の一番南にあった寺で孝謙天皇(聖武天皇の娘)が平城京から難波京へ行く途中、河内六寺を参拝した記事があります。

鳥坂寺跡
鳥坂寺跡

旧大和川沿いに6つの寺が近い距離で連続して建てられました。川沿いに6つの塔がそびえ立っていたことになります。当時の塔といえば庶民にとってが超高層建築ですので今でいうと梅田の高層ビル街を眺めるような感じでしょう。隋や唐からの使者も難波京から旧大和川に入って飛鳥や平城京に向かいましたので、林立する塔を船から見て感心していたでしょう。

竹原井頓宮

河内国・国分寺から大和川をはさんだ対面にあったのが竹原井頓宮跡地です。頓宮(とんぐう)とは仮の宮のことを言います。頓宮跡だと期待して現地に行っても何もなく広っぽい平地があるだけですのでご注意を。

竹原井頓宮
竹原井頓宮

続日本紀に養老元年(717)、元正天皇が和泉宮から平城宮へ還る途中に、竹原井頓宮に宿泊したという記事が出てきます。聖武天皇も難波宮へ向かう途中に竹原井頓宮跡地でよく泊まっていました。

平城京から難波宮へ向かうには斑鳩を通って龍田道に入り、亀の瀬を通っていきますが、竹原井頓宮は河内国にちょうど入ったところにあります。平城京と難波京のちょうど真ん中でしたので宿泊地にはよかったのでしょう。しかも大和川が湾曲するところで吉野宮(宮滝遺跡)に場所が似ています。

竹原井頓宮は光仁天皇の頃まで使われていましたが、長岡京遷都に伴って解体され、建築資材として大和川・淀川水運を利用して大山崎へ運ばれました。