石切神社 上之社

散歩がてら石切神社へ。デンボの神様やお百度参りで有名なのが下之宮ですが、今回は山の上にある上之宮へ行ってきました。いい運動になります。

石切神社 上之社
石切神社 上之社

もともと石切神社は生駒山山頂近くの宮山に饒速日尊(にぎはやひのみこと)、つまり物部氏の祖先神と可美真手命(うましまじのみこと、饒速日尊の子供)を祀っていました。ですが宮山に登るのは登山になりますので気楽に参拝に行けません。というわけで崇神天皇の時代に可美真手命を下之社(今の石切神社)に移します。

なんで饒速日尊も一緒に移さなかったんですかねえ。これで宮山の饒速日尊と下之社の可美真手命の二座体制となります。さすがに宮山まで登るのがしんどくなったのか慶安三年(1650)、由比正雪の乱の頃ですなあ。この年に饒速日尊が宮山から光堂山(今の上之社)に移されます。高さは低くなりましたが山の上という点は変わりません。

明治40年には下之社に合祀されます。これで現在の石切神社になります。上之社は石碑だけでしたが再興されました。上之社からは大阪平野が一望できます。可美真手命ですが石見国一之宮である物部神社の祭神でもあり、一説にはヤマトの命令で出雲を平定した神様でもあります

深野池・新開地

東大阪市役所から届いたハザードマップを見ていると地下鉄・中央線(横の赤い線)北側が青くなっていて、つまり大雨などで洪水の危険があるところです。

ハザードマップ
ハザードマップ

右側の青いところは深野池(ふこのいけ)と呼ばれる湖があった場所。左側の青いところは新開地池ですね。古代、大阪市や東大阪市は河内湖と呼ばれる湖が拡がっていました。上町大地だけが湖に突き出しており四天王寺の伽藍がすぐ近くの海から見えました。

河内湖はだんだん縮小していったのですが、深野池などは江戸時代まで残りました。ハザードマップで青くなっているのは玉櫛川、吉田川、菱江川など大和川が大和から大阪へ出て分岐した川跡です。洪水などが多かったので江戸時代に大和川の付替えが行われ鴻池新田など多くの新田開発が行われます。

災害が多い日本ですので家を買う前に古地図を確認し歴史を調べるのは鉄則ですねえ。

祟道神社

神社検索にとっても便利な法人番号検索サイト!「崇道」と入力するとヒットするのな9件で奈良に4件あります。

祟道神社
祟道神社

ですが出てくるのは奈良市内の4社だけ、法人番号検索サイトに出てこない小さな社がけっこうあり、昔、御所を歩いていた時に崇道神社を見つけました。

崇道天皇とは天皇に即位していない早良親王のこと、非業の死を遂げて怨霊となったため崇道天皇と追称されました。映画「陰陽道」で安倍晴明と戦っていました。

早良親王の容疑は桓武天皇の命で長岡宮を造営していた藤原種継暗殺事件です。結局、桓武天皇は平安京に遷都しますが、遷都の理由の一つが奈良仏教界の影響力低下を狙ったこと。当時の仏教界はテロ組織みたいなものですから暗殺も不思議ではありません。早良親王は奈良仏教界とも近かったので、まったくのシロというわけでもなさそうです。ただし無実の罪で殺されて怨霊になったということで崇道神社や御霊神社として祀られることになります。

山口神社

杵築神社と奈良に多いのが山口神社で法人番号検索サイトで検索すると全国39件中15件を占め、2番目は鳥取で7件です。同様に多いのが水分神社でこちらは48件中、18件、御県神社にいたっては5件すべてが奈良です。

鴨山口神社
鴨山口神社

奈良平野を取り巻く形であるのが御県神社で、さらにそれを取り巻くように山口神社があり、さらに高地の分水嶺に配置されているのが水分神社で同心円状になっています。御県は「みあがた」と呼んで、天皇の食事に供える農作物を栽培した朝廷の直轄地になります。

伊勢神宮の式年遷宮の最初が山口祭で新社殿の用材を切り出すにあたって「山の口に坐す神」に祈るお祭りです。山口神社は山の神と関係しているのでしょう。奈良の神社は奥深いですねえ。

杵築神社

磯城郡川西町吐田にある杵築(きづき)神社です。300mほど離れた所から大和川の改修によって移転しました。

杵築神社
杵築神社

この杵築神社の祭神はスサノオノミコトで、なぜか奈良県にたくさんあります。今は便利なツールがあって国税庁法人番号公表サイトで「杵築神社」と入力して検索すると44件ヒットします。その中で奈良県内が半分以上の24、次に続くのは大分と岡山の3なんで奈良がダントツです。

■さてクイズです。

日本一有名な杵築神社と言えばどこでしょうか?

ピンポン!そうです。出雲大社です。

古代から杵築大社と呼ばれてきましたが、明治4年に出雲大社へと改称されました。この時に祭神もスサノオノミコトから大国主に変更になっています。もっとも平安時代ぐらいまでは大国主が祭神だったようです。杵築大社がある島根には津和野しか杵築神社が見つかりませんでした。

でもなんでスサノオノミコトを祀る杵築神社が奈良に多いのでしょうか?

梅原猛「神々の流竄」ではヤマタノオロチは「大和のオロチ」で三輪山の神さんだと論説していましたが、後年、出雲から大量の銅鐸、銅剣、銅矛が大量に見つかったことから、やはりヤマタノオロチは出雲だということになっています。

でも杵築神社がなんで奈良に多いんですかねえ。

奈良湖

山の辺の道
山の辺の道

GWだというのに、ずっと家に籠ってセミナー準備。早く寒くなって山城シーズンになんないかなあ

そうそう推古天皇の後を継いだ舒明天皇の不思議な歌が万葉集に載っています。天の香具山に登って国見をした時の歌で「国原は 煙立ち立つ 海原は 鴎(かまめ)立ち立つ」というフレーズが出てきます。奈良に海原はないので香具山の麓にある埴安の池を歌ったのではというのが定説です。

でも天の香具山からカモメが飛ぶ海原が見えたらどうでしょうか。

■古代、奈良湖があった
奈良盆地、縄文時代の遺跡は微高地で見つかりますが盆地の中心にはありません。弥生時代になってようやく見つかるようになります。古代、奈良湖があり弥生時代に水位が下がってきたようです。日本で一番古い官道と言われる山の辺の道が山麓を巡っているのは、残っている湖や湿地帯を避けるためのようです。また蘇我氏や葛城氏など古代の豪族が盆地の周辺を本拠地にしていたのも同じ理屈でしょう。舒明天皇の時代にも奈良湖の痕跡が残っていたようです。

邪馬台国説がある纏向遺跡には南北2本の運河がありましたし、斉明天皇も香具山の西から石上山(天理市)まで10数キロの運河を作りましたので奈良湖の痕跡をうまく活用して実現したのでしょ。

鉄砲の里 国友

昨日、NHKを見ていたら「山城トレッキング」の再放送をやっていて春風亭昇太が小谷城を登っていました。こんな山城を登るだけの番組があるんだあ。これからのバズワードはDXじゃなくって山城ですね(笑)

国友
国友

小谷城の近くにあるのが国友。戦国時代から江戸時代へ続く鉄砲の里です。

■鉄砲工房「国友」
国友は刀鍛冶の村でしたが1544年、将軍・足利義晴より見本の銃を示され作ったのが鉄砲製造の始まりと言われています。信長が10歳の時で、翌年に浅井長政が生まれます。大河ドラマ「麒麟がくる」でも将軍が鉄砲作りを命じた設定になっていましたが、1544年は種子島へ鉄砲が伝来した翌年ですから時期的に早く、最近の説では、地元を治めていた浅井長政が国友で鉄砲を作らせたようです。

国友は小谷城から近く、可能性が高いですね。そうそう「麒麟がくる」では齋藤道三の命をうけた明智光秀が伊平次という腕利きの鉄砲鍛冶を国友で探しておりました。

1549年には織田信長が500挺もの鉄砲を発注したという記録がありますが、これもどうですかねえ。ちょっと不思議なのが浅井長政が鉄砲を戦略物資として他の大名に流れるのを止めなかったことです。信長なんか堺をおさえ当時、輸入に頼っていた鉛(鉄砲の玉)と火薬を作る硝石を武田勝頼側に流れないように経済封鎖していました。武田も鉄砲を持っていましたが、玉と火薬不足でうまく運用できませんでした。

和邇駅

近江の渡来人といえば和邇氏がいます。強風でよく止まる湖西線に和邇(わに)駅があります。大津市の北側です。

和邇駅
和邇駅

古代、和邇氏の拠点でした。和邇氏は渡来人といわれ奈良の東北部を基盤にしていました。現在も天理市に和爾町という地名が残っています。和邇氏は6世紀頃に春日氏、小野氏、粟田氏、柿本氏、大宅氏、櫟井氏に分かれます。和邇氏は琵琶湖の物流をおさえていたため湖西線には和邇駅の隣に小野駅が残っています。小野といえば遣隋使で有名な小野妹子は小野駅周辺を地盤とした豪族でした。

春日神社の地は本来、春日氏の氏神だった榎本神社があったのですが藤原氏に乗っ取られてしまい春日神社の摂社になってしまいました。

穴太野添古墳群

穴太野添古墳群
穴太野添古墳群

壺笠山城へ行くには穴太野添古墳群の横を通っていきます。穴太野添古墳群は琵琶湖を見下ろす高台にあり眺めは抜群。このあたりに180基以上あります。古墳からはドーム状の天井をもつ形態の石室やミニチュア炊飯具(カマド・カマ・コシキ・ナベ)の副葬品などが見つかっており渡来人の墓といわれています。

■日本への亡命者が多かった
渡来人の来訪で多かったのが白村江の戦いの後。百済から多くの渡来人が亡命してきました。日本書紀に「鬼室集斯ら男女7百余人を近江国蒲生郡に遷居」とあり、蒲生に渡来人の一団がいました。鬼室集斯は白村江の戦いで活躍した百済の将軍、鬼室福信の子で,近江朝廷では学識頭になっています。東京の狛江市なども高麗からの渡来人が集団移転したのがきっかけです。南宋が滅んだ時も亡命者がたくさんいました

■渡辺党
天満近くの大川近辺に住んでいたのが新羅系渡来人のツゲ氏で、このツゲ氏が平安時代後期に「渡辺」と名前を変え、摂津の武士団である「渡辺党」となります。茨木童子で有名な渡辺綱も渡辺党です。豊臣秀吉が大坂築城に当たり替地を命ぜられ大川から移転。この時に氏神だった坐摩(いかすり)神社も移転しました。

茨木童子

かって日本には鬼がいました。と言っても竈門炭治郎じゃないですよ。

茨木童子
茨木童子

鬼といっても「カミ」ともよむので、もともとは山神のようなイメージだったのでしょう。鬼退治といえば大江山が有名です。酒呑童子という鬼が大江山にいて悪さをすることから勅命が下り、源頼光が坂田金時(金太郎のモデル)、渡辺綱らを引き連れて鬼退治する物語です。

酒呑童子には家来がいて、その一人が茨木童子。茨木出身ともいわれ源頼光の鬼退治でも生き延びました。

京都の異界スポットに一条戻橋があり、安倍晴明が橋の下に式神を潜ませていたとして有名な橋です。この橋に大江山の鬼退治の参加メンバーである渡辺綱が通りかかると若い美女が道に困っていました。そこで馬に乗せてやると、女は突然、鬼の姿になって、空中に飛び上がり渡辺綱を愛宕山に連れ去ろうとしましたた。刀で鬼の腕を切って難を逃れます。