尼崎

阪神尼崎駅すぐ近くにある商店街は日本一早いマジック点灯で有名です。もちろん阪神タイガースの優勝マジックで、商店街は阪神タイガースカラーになっています。

尼崎
尼崎

尼崎の略称はアマで、かっては、ひったくり件数・兵庫ナンバーワンと散々な街だったんですが、近年は関西住みやすい街、第1位になったりしています。ほんまかいな~あ。尼崎は大阪から淀川を渡ればすぐですし、市外局番は大阪と同じ「06」。三宮へ行くより梅田へ行く方が近く兵庫県という意識が希薄です。

尼崎は北から阪急、JR、阪神と並行して走っていて阪急沿線といえば塚口、武庫之荘と高級イメージですが、南になればなるほど庶民的ですね。阪急、阪神は経営統合しましたが、やっぱり阪神の雰囲気は阪急のマリンブルーとは全然ちゃいますなあ。

三月書房 閉店

日経新聞・朝刊の「交遊抄」(私の履歴書の下)を読んでいてビックリ!三月書房が6/10に閉店していたんですね。それがオシャレな閉店で顛末が掲載されていました。

三月書房は寺町御池を上がったところにある小さな新刊書店です。見た目は古本屋さんなので、よく間違って入る人がいます。私もウン十年前に古本屋だと思って入りました(笑)。

小さな本屋なんですが、店主が特定ジャンルの本を集めていて、ジャンルにはまっている人が三月書房に入ると、たくさんの本を買わざるをえないアリ地獄のような本屋さんです。初めて入った時、10冊ぐらい買って店を出た途端に重さに気がつき、すごすごと下宿まで持って帰った思い出があります。

三月書房のすぐ近くにあった八百卯は梶井基次郎の小説「檸檬」に登場する名店でしたが、こちらもだいぶ前に閉店しました。寺町通りを歩く楽しみが減ってしまいました。

廣徳寺(尼崎)

城下町には大概、寺町があります。

廣徳寺
廣徳寺

京都の寺町通りは秀吉が京都の大改造をした時に80以上の寺院を集めた名残です。寺院は兵が駐屯できる土地と塀があるので寺をずらっと並べると防備するのに最適でした。伊賀上野の寺町通りなど各地にあります。大坂では江戸時代に上町台地に四天王寺にかけて寺町が作られました。

尼崎にも戸田氏鉄が尼崎城築城時に寺院ばかりを集めて作った寺町があり阪神・尼崎駅を電車が出ると南側にずらっと並んだ寺を見ることができます。この寺町にあるのが廣徳寺、もともとは大物にありましたが寺町を作る時に移されました。

廣徳寺が大物にあった時、大物崩れで負けた管領・細川高国は敵対した細川晴元と三好元長にこの寺で自害に追い込まれます。秀吉が中国大返しで山崎に行く途中に立ち寄って休息した寺とも言われています。

船弁慶

大物を舞台にしたのが能の船弁慶。源義経、武蔵坊弁慶、静御前、平知盛が登場する能です。この能を題材にした上方落語もあります。今では埋め立てられて信じられませんが大物浦は西国への船の表玄関でした。

義経・弁慶
義経・弁慶

■船弁慶
頼朝と不和になり義経は都落ちを決意して弁慶以下十余人で摂津の大物浦に着きます。ここで静御前を都に返すことになり、静御前は同行をあきらめて離れます。さて大物浦から船出すると、外海は大荒れに。そこへ平知盛の幽霊があらわれますが弁慶が数珠で祈ることで鎮めます。

■実際は
実際のところは頼朝と敵対した義経は九州で再起しようと大物浦から船出しましたが、途中暴風のために摂津に押し戻されてしまいます。これで再起は無理となり、吉野に逃げ込みますが静御前が捕らえられ、最後は奥州・平泉を目指します。当時の大物浦は大物主神社のすぐ近くまでが海になっていて義経主従は神社横にあった宿屋に逗留していたと伝わっています。。

大物崩れ

阪神尼崎駅の一つ手前にあるのが大物。「だいもつ」とよみます。戦国時代、ここで起きたのが大物崩れ。

大物
大物

赤松政祐・細川晴元・三好元長の連合軍が、細川高国・浦上村宗の連合軍を破った戦です。大河ドラマ「軍師官兵衛」で浦上氏に嫁いだおたつ(南沢奈央)が、婚礼の夜に赤松氏に襲われるシーンが出てきますが、もともとは守護代だった浦上村宗が守護の赤松氏を凌ぐ力を持ち、播磨国で争いになっていたことが原因です。

また細川家も分裂していて細川晴元と細川高国が争っていました。三好元長は細川晴元に仕えており従っていましたが、大物崩れの後に主君と対立することになります。ちなみに信長の前に天下人となる三好長慶のお父さんです。

戦いは膠着状態でしたが戦局が崩れ、浦上村宗は討死、細川高国は尼崎で自害させられます。

江口の君

江口城から淀川沿いに歩くと江口の里があります。江口は淀川が神崎川へ入る分流点で、江(川)の口から名づけられています。長岡京の造営がはじまった頃の延暦3年(784)に淀川と三国川(昔の神崎川の名前)を江口付近でつなぐ工事が行なわれ現在の神崎川ができました。神崎川が都と西日本を結ぶ主要水路となり、江口は交通の要衝となります。昔はトラックなどがなかったので物資を運ぶのは船運が中心でした。

江口の君
江口の君

■江口の君
西行が四天王寺参詣のため、江口の里までやってきたところ、にわか雨にあいます。一夜の宿を頼みましたが、主人の遊女は断ります。遊女をなじる歌を歌った西行に対して、遊女屋に宿を求める西行を皮肉った歌が返ってきて、この言い合いの歌(歌問答)が新古今和歌集にのっています。これを題材になって能の「江口」にもなっています。

この主人ですが、平資盛の娘で平家没落の後、乳母の郷里に移り遊女となったと言われています。遊女といっても格式高かったんですねえ。こうなると網野史学ですなあ。

さて西行と出会った後、主人は仏門に入り庵を結んだのが寂光寺で江口の君堂と呼ばれています。淀川沿いにある、なかなか鄙びたお寺です。

板チョコ看板

松永久秀屋敷跡の近くにあるのが明治・大阪工場。

板チョコ看板
板チョコ看板

大阪から京都方面に向かいJR摂津富田駅を過ぎてすぐ左側に見えてくるのが大きな板チョコ。明治・大阪工場の巨大看板です。昭和30年にできた工場でチョコレート、きのこの山、たけのこの里などを造っています。看板は高さ27.6メートル×幅165.9メートルで工場がすっぽり隠れる大きさになっています。

近くで見るととっても大きいですねえ。

土居川公園(堺)

戦国時代の堺は堀で囲まれた城塞都市でした。城塞に櫓が建ち並び、こうなると都市というより平城ですね。織田信長が「矢銭を払わんと攻めるぞ」と脅しますが、戦うかどうか審議したのは戦える能力があったからです。結局、堺は信長の命に従うことになります。

大小路橋
大小路橋

堺といえば第12代将軍・足利義晴(「麒麟がゆく」向井理が演じる足利義輝の父親)と争っていた異母兄の足利義維が堺公方として支配していました。足利義晴は京都を離れ近江の朽木などに逃げていましたので、うまくやればとって変わるチャンスがありました。結局はできませんでした。

■堀跡
さて戦国時代に作られた堀が土居川で土居とは堤防のことです。秀吉が天下をとってから堀は埋められてしまいます。元あった土居川よりも外側に堀を再度、造ったのが徳川家康です。南海堺東駅から大阪湾の方へ向かうと阪神高速道路の下に大小路橋という陸橋があり、阪神高速道路沿いに土居川公園が続いていて、ここが家康が造った堀跡です。

大小路橋から大小路が大阪湾へ向かって伸びていますが、この通りが堺の語源となる摂津国と和泉国の国境になりました。

王将・出町店 閉店

京都で専門学校の教員をしていた頃、出町商店街が近くで時たま行っていたのが王将・出町店。小さな店なんですがチャーハンがおいしかったですね。

近くに京大、同志社、府立医科大学があるため、店頭には「飯代のない人 お腹いっぱい ただで食べさせてあげます。但し食後30分間お皿洗いをしていただきます。」と張り紙がしてありました。人情味のあふれるお店でした。そういえば京産大学生が多い王将・御園橋店も同じようなシステムでしたね。

長年、店を切り盛りしていた店主が70歳を超えたこともあり、10月末で閉店が決まったそうでネットでは惜しむ声があがっています。知らなかったのですが、この皿洗いのエピソードが「取締役 島耕作」に出てくるそうです。

「ほんやら堂」もなくなったし、昔、行っていたお店がなくなるのは寂しいですなあ。

大坂か大阪か

秀吉や秀忠、家光が造ったのは大阪城ではなく大坂城です。坂の字が違い、戦国時代は大坂が使われていました。

大坂
大坂

幕末、浜松歌国という狂言作者が「摂陽落穂集」に「坂」は土に反(かえ)るいう意味なので「阪」を使おうと提唱しています。これで急激に代わったわけではなく江戸時代頃から大阪の字が使われてボチボチと変わっていったようです。

もともとは上町台地に小坂という坂があり、一帯を小坂と呼んでいました。石山本願寺を造った時に蓮如が大坂にしようと言い出してから大坂になったようです。最初は上町大地一帯を指していましたが、やがて摂津、和泉、河内全体をさすようになっていきます。

松阪牛で有名な松阪でも同じで、蒲生氏郷が城下町を作った頃は松坂でした。明治になり大阪が変えたのにあわせて松坂になったそうです。