建部大社

近江国の一宮といえば瀬田にある建部神社です。境内に茅の輪があったので、くぐりぬけてきました。

建部大社
建部大社

祭神は日本武尊(ヤマトタケル)で境内にはイケメンのヤマトタケルがパネルで展示されていました。日本武尊は亀山の能褒野で亡くなりましが、妃が住んでいた場所に日本武尊を「建部大神」として祀り、建部という地名がつけられました。もっとも、なんで建部大神なんて名前をつけたんですかねえ。ひょっとすると地名の方が先だったかもしれません。

祀られた場所は神崎郡建部で、現在の八日市駅から愛知川の間あたりにありました。白鳳4年(675)に瀬田の地に移ります。神社のあるあたりは神領という地名になっています。

源頼朝が伊豆に流される途中、建部神社に立ち寄り祈願しました。30年が経過し平家を滅ぼして源氏の再興がなります。上洛する途中に大願成就のお礼に建部神社を訪れています。ですので建部神社は出世開運の神様になっています。

都から東に向かう東山道の街道筋で、少し東に行った「鏡の宿」には源義経の元服した場所や平宗盛、清宗父子が切られた平家終焉の地もあります。

大きな黄色いアヒル

大きな黄色いアヒルが天満橋に来ているというので八軒家浜船着場に行ってきました。

ラバーダック
ラバーダック

ラバー・ダックです。あいかわらず剽軽な表情でプカプカと大川に浮かんでいます。展示されているのは8/31(月)までだそうです。高さは9.5メートルあり、作ったのはオランダのアーティストフロレンティン・ホフマン。世界中を旅してセーヌ川などでプカプカしています。2015年に中之島(バラ園)で見て以来ですね。あいかわらずでかいですねえ。

瀬田の唐橋

琵琶湖から唯一流れ出るのが瀬田川で、この瀬田川にかかるのが瀬田の唐橋です。京都人と言い争いになった滋賀人の決め台詞が「琵琶湖の水、止めたろか」という一言。以前に瀬田川を止めたシミュレーションが行われ、結果、大津などが水没してしまいました(笑)。

瀬田の唐橋
瀬田の唐橋

瀬田川を超えると京都まで一気に攻め込めますので、古代からこの瀬田川が攻防戦の舞台となりました。壬申の乱では、大友皇子と大海人皇子の最後の決戦場となり、瀬田川を突破された大友皇子は自刃することになります。

藤原仲麻呂の乱では朝廷軍が先回りし、瀬田の唐橋を焼いてしまったため藤原仲麻呂(恵美押勝)は湖西を北上することになり三尾城で破れてしまいます。

本能寺の変の後、安土城に向かう明智光秀を足止めするために山岡景隆が瀬田の唐橋と川のほとりにあった瀬田城を焼いてしまったため明智光秀が仮橋を架けるのに3日を要しました。

堂ノ上遺跡

近江国府から800mほど行ったところに小高い丘があり、ここが堂ノ上遺跡。看板はありますが、何もない原っぱです。当然、誰もいません(笑)。

堂ノ上遺跡
堂ノ上遺跡

堂ノ上遺跡は東海道、東山道、瀬田川を見下ろす高台にあり発掘調査によると奈良時代後半には建物が造られていました。近江国府と同じ瓦などが見つかっているので同時に造られたようです。一説には瀬田駅家との説もあります。

■駅家(うまや)とは
天武天皇時代に古代道路網が整備されました。当時は白村江の戦いからそう時間が経っておらず、唐などとの外交関係が緊張していました。緊急事態を伝える情報システムが全国に整備され、大路は幅12メートルの道がまっすぐ作られました。途中には駅家が作られ、ここで馬を取り換えて都を目指しました。伝達スピードはめちゃくちゃ早かったようで大宰府では発生した藤原広嗣の乱が大宰府から聖武天皇が行幸していた関宮(津市白山町)まで705キロあり、これを5日で伝送したそうです。1日140キロの移動です。

忠臣蔵で浅野内匠頭が吉良に切りつけた刃傷事件を起こし、使者は早かごを使って江戸ー赤穂間620キロを伝えるのに四日半かかりましたので、ですので駅家制度がいかに早かったかが分かります。

■崩壊した駅家制度
駅家には駅田という田が与えられ、この田から採れる稲を民衆に貸し付けた利息で経営されていましたが、持ち出しが多かったようで地元の名士が所管していました。天皇の崩御など緊急事態があると駅家で馬を乗りかえながら知らせが伝えられました。

ところが、これがだんだん拡大解釈されて単なる公務でも使われるようになり、駅を経営する側にとってはたまったものではありませんでした。律令体制の崩壊と共に道路も整備されず消えていき駅家もなくなっていきました。

近江国府

古代、各国に置かれたのが国府です。どこにあったのか分かっていないケースがあるのですが、近江国府に関しては建物配置がほぼ完全に近い形で分かりました。まあ今でいうところの県庁です。場所は瀬田にあります。

近江国府
近江国府

京都橘大学の講義のついでに寄ろうと思っていたのですが、オンライン講義になってしまったので、国府跡を目指して出かけてきました。近江国府跡は少し高台になった所にあり、密どころか人っ子一人おりません(笑)。まあ国府跡といっても柱跡が示されているだけですからねえ。

近江国府は500年ほど続き、壬申の乱や藤原仲麻呂の乱も高台からよく見えたでしょう。

ジャンクション萌え

都市部で用地確保するのが大変なため大阪では外堀(東横堀川)の上に高速道路を通したり、道の上に高速道路を作ったり複雑怪奇なことになっています。西梅田ではビルの中を高速道路がぶち抜いているところがあります。

阪神高速
阪神高速

複雑な高速道路が構成されたことから、特にインバウンドでジャンクション萌えとして注目されていて、写真集もあるんですねえ。そういえば大昔、スタニスワフ・レムの小説『ソラリスの陽のもとに』を映画化した『惑星ソラリス』の冒頭に未来都市として東京の高速道路が出ていました。50年も前からジャンクション萌えだったんですね。

大阪城公園駐車場

大阪府よろず支援拠点での仕事が終わると、大阪城の六番櫓を眺めながら森ノ宮駅まで歩いて帰っています。

大阪城公園駐車場
大阪城公園駐車場

大阪城公園にある大型バス向け駐車場横を通るのですが、あれほどたくさん停まっていたバスの姿はなく、コンクリートの間から草が生えている状況になっていました。インバウンド客が戻るのははるか先になりそうです。

明智光秀の最後

天正10年(1582)6月13日(西暦7月2日)に行われたのが山崎の合戦。中国大返しをしてきた秀吉と明智光秀がぶつかった戦いです。

勝竜寺城
勝竜寺城

夜半に明智光秀は勝龍寺城を脱出して近江の坂本城を目指して落ち延びる途中、小栗栖の藪で落ち武者狩りによって絶命したと伝わります。つまり本日です。大河ドラマ「麒麟がくる」では、おそらくラストシーンになるでしょう。

山崎は淀川と山に囲まれた隘路で、名神高速の天王山トンネル、新幹線、阪急、JRが通っています。京都を西から抑えるには最適な地ですね。山崎の合戦後、清洲会議で長浜城を柴田勝家へ譲ったため、秀吉は山崎城を造って、ここを本拠地にしました。交通の大動脈をおさえたことになります。

夏越の祓

令和2年も前半がまもなく終了。

夏越の祓
夏越の祓

ということで枚岡神社へ夏越の祓に。例年は6/30の法要が終わってから茅の輪くぐりができるのですが、新型コロナの影響か、もう通れるようになっていました。

枚岡神社はしっかりマーケティングをしており、夏越の祓と大祓(年末)前には案内、人形(ひとがた)、振込用紙などの祓いセット、きっちり届きます。郵送もできるシステムになっていますが、いつも神社へ納めに行っています。

今年は新型コロナの影響もあるので、夏越の祓をする人が増えるかもしれません。

生国魂神社・行宮

大阪府よろず支援拠点は堺筋本町の大阪産業創造館にあり、朝は谷四で降りて生国魂神社・行宮にお参りしてから向かっています。行宮といいながら本殿と隣には稲荷神社もある立派な神社です。「商売繁盛」を祈願しています(笑)。

生国魂神社・行宮
生国魂神社・行宮

行宮から、ちょっと歩いた大阪城内には御旅所があります。本殿は上六近くにあり大阪では「いくたまさん」と呼ばれています。祭神は生島神(いくしまのかみ)、足島神(たるしまのかみ)で日本国土の神さんです。

なんで谷町周辺に行宮と御旅所があるのか不思議だったのですが行宮は明治始めに氏子が土地を奉納して行宮が作られたようです。御旅所は昭和の初めに大阪城公園を整備する時に造られました。今は碑だけが残っています。「いくたまさん」は元々、御旅所があった所にありましたが秀吉が大坂城を造る時、上六近くの現在の場所に移しました。