十日戎

額田戎神社
額田戎神社

この時期、関西の電車に乗ると笹を持った人をよく見かけます。十日戎がスタートしました。

西宮戎、今宮戎はめちゃくちゃ混みますので、いつも家から歩いて5分のところにある額田戎神社へ行っております。額田戎は西宮のえべっさんを勧請していますので霊験は同じです(笑)。住宅街にあるんですが3日間、大音量で「商売繁盛、笹もってこい~」と流れています。

ビジネスマンを辞め独立してから18年間、額田戎神社へ行っていますねえ。お参りをして今宮戎は参拝後社殿の裏へ回ってドラを打ちますが、額田戎は木板を打ちます。最後に縁起物を買うと福引券をくれるので、神社入口で福引抽選器を回しますが、また末等のゴミ袋でした。

諏訪商店街

四日市商工会議所で三重県よろず支援拠点の出張相談。
諏訪商店街を歩いていると2軒ほどが閉店になっていてテナント募集の張り紙がしてありました。角の洋品店はベトナム料理店かな、なにかエスニックなお店に変貌していました。
松阪の商店街も同様ですが物販店が減って飲食店の比重がどんどん増えています。

葛城高丘宮(綏靖天皇)

葛城高丘宮(綏靖天皇)
葛城高丘宮(綏靖天皇)

綏靖天皇は神武天皇の次となる2代目で、この綏靖天皇から第9代開化天皇までが欠史八代といわれ実在が疑われています。もっとも実在したという説もあります。綏靖天皇の都があったのが葛城高丘宮で、一言主神社のすぐ近くにあります。名前通り高い丘となっていて畝傍山や香具山などの大和三山がよく見えます。

第9代開花天皇まで都があったのが畝傍の軽から葛城一帯となります。当時、奈良盆地の中心部には奈良湖がありましたので奈良湖の南西部が大王の本拠地でした。三輪山の麓には纏向遺跡時代から大きな連合国家みたいなのがありましたので、そことの関係はどうだったんでしょうね。第10代、崇神天皇の時に三輪に進出し宮が造られ全国に四道将軍が派遣されますので国家としてある程度、まとまったようです。ちなみに四道将軍で東に派遣された二人の将軍が出会った場所から会津という地名となりました。

奈良湖といえばハイキングでにぎわう「山辺の道」が日本最古の道といわれていますが、もともとは奈良湖の東側をまわる道でしたので、ですので直線ではなく、くねくねとした道になっています。

葛城一言主神社

葛城一言主神社
葛城一言主神社

2020年、今年の抱負を一言であらわすと何ですか?

家内安全!金儲け!世界征服!一言の願いであれば、なんでも聞き届ける神様が葛城にあります。それが一言主神を祀る一言主神社です。

■一言主神
一言主神は日本書紀、古事記に登場する神様です。大王である雄略が葛城山中で狩猟をしていた時、大王自身や随行一行と全く同じ恰好をした一行が向かいの尾根を歩いています。雄略が名を尋ねると「吾は悪事も一言、善事も一言、言い離つ神。葛城の一言主の大神なり」と答えます。恐れ入った大王は、自分と随行している者の衣服を脱がさせて無礼を詫び、刀や弓矢とともに差し上げたという話が出ています。この一言主神が現れた場所に造られたのが一言主神社ですので相当に古い神社です。

■雄略(倭王武)の時代
大王である雄略は宋書に出てくる倭王武に比定されていて、かなりのやり手でした。大王による強力な専制支配を確立しようとし、大王家の外戚として権勢を振るってきた葛城氏を没落させています。国宝である稲荷山古墳出土鉄剣(埼玉)に獲加多支鹵大王と雄略の名前が記載され熊本の鉄剣からも同じように見つかっていますので雄略の時代には関東から九州にかけて大和朝廷の覇権が成立していたようです。

雄略は葛城氏の勢力圏で狩猟して一言主神に会っていますので、この頃には葛城を直接の支配下においていたのでしょう。葛城氏が信仰していたのが豊受大神で、葛城氏が没落してから衰退していましたが、訴えがあったのか丹後の豊受大神を移して伊勢神宮・外宮が雄略の時代に造られました。

秋津はここから国見神社

国見神社
国見神社

国見山城の最寄り駅はJR掖上(わきがみ)駅。この掖上は古い地名で日本書紀に由来しています。神武天皇が東征が終了した後に国見を行います。それが「掖上(わきがみ)の嗛間(ほほま)の丘」。この丘が国見山と言われています。

現在、麓にある国見神社は昔は山頂にあり、神武天皇がニニギノミコト(高天原から日向に降り,皇室の祖先になった神様)を祀ったのが国見神社の始ま理と言われています。いつの頃か東麓に移されて地元の氏神となっています。

さて神武天皇が国見をした時に「なんと美しい国だろう、国原は緑したたる山々に囲まれ、あたかも蜻蛉(あきつ)の臀拈(となめ・交尾ものこと)しているようだ」と言ったので「あきつ」と呼ぶようになり、日本の別号「秋津州(あきつしま)」の名となりました。

二塚古墳(新庄)

二塚古墳
二塚古墳

奈良・新庄にあるのが二塚古墳。丘陵の尾根の先端を分断して造られた前方後円墳で、標高200メートルほどの所にありますので畝傍山など大和盆地を一望できます。

被葬者はこの辺りを拠点とした葛城氏でしょう。けっこう変わった古墳で、前方部、後円部、造り出し部のそれぞれに横穴式石室があります。つまり3つの石室があります。

■同じ古墳に2人を葬る
2人を葬るケースはよくあり、斉明天皇・間人皇女が被葬者と考えられる牽牛子塚古墳は石室が1つで2つの石棺が入るようになっています。後円部と前方部の両方に葬られるケースもあり、一つは卑弥呼の後に擁立された台与の墓ではないかと言われている西殿塚古墳です。卑弥呼を補佐したのが弟でしたので、西殿塚古墳には台与と台与を補佐した男性が葬られているのではと言われています。

世界遺産となった大山古墳も埋葬場所がどうも2つ以上あり2人以上が葬られているようです。大阪にある大塚山古墳は8ケ所の埋葬場所があります。二塚古墳には全長60メートルもの造り出しがあり、ここに石室がありました。造り出しというのは前方部、後方部の間にある半円形もしくは方形の壇状の施設です。通常は祭礼場所として埴輪が並べられます。

■葛城氏と蘇我氏
葛城氏は代々、大王に正妻を出す家柄でしたが雄略天皇の頃に没落してしまいました。葛城には高天原や天岩戸伝説があるので古代の大和朝廷は大王+葛城氏体制だったのでしょう。蘇我氏はこの葛城氏の傍流だったという説があり、物部氏などが大王に正妻を出せなかった家系でしたが、蘇我氏は大王家と姻戚関係を結ぶことができました。これを手本にしたのが後の藤原家です。

蘇我氏は葛城氏として復活したので「我、蘇り」と命名したという話もありますが、後世の歴史書によっていろいろと改ざんされた可能性が高いので本当のところはよく分かっていません。

行基の久米田池

久米田池
久米田池

灌漑施設のインフラ整備を行ったのが行基で久米田池、狭山池、昆陽池を作りました。狭山池は日本最古のダム式ため池として有名で、昆陽池は伊丹空港から出た飛行機からミニ日本列島が見えることで有名です。

久米田池は大阪府内最大の面積を持つため池で、周りを歩くと大きさが実感できます。神亀2(725)年~天平10(738)年の14年をかけて造られました。池を管理するために隆池院(現在の久米田寺)が整備されます。敷葉工法で堤が造られ、1300年経った現在も現存しています。

■異端だった行基
民衆への仏教の布教活動が禁じられていた時代、禁を破って布教する行基とその集団は異端と思われており、続日本記には「平城京の東の丘陵で妖言を吐き数千人から多い時には1万人を集めて説教し民衆を惑わしている」と記載されています。橋をかけるなど社会事業を推進しており反政府運動でもないので政権側から接近し最終的には大仏建立のプロジェクトマネージャーに就任します。

近鉄の大阪線と奈良線が分岐する駅が布施駅で布施という地名は困窮者のための福祉施設である布施屋があったことに由来しています。

光明皇后のお墓が岸和田にある?

光明塚古墳
光明塚古墳

久保田寺の境内にあるのが光明塚古墳。昔は光明皇后塚と呼ばれていたそうですが、光明皇后のお墓は奈良の佐保山東陵にあるので何とも不思議な話です。もともとは直径25メートルから30メートル程度の円墳だったようで、もちろん光明皇后の奈良時代よりも古い時代の古墳です。

久米田寺の近くにある光明池は光明皇后生誕伝説から名づけられましたので、まんざら縁がないわけではなさそうです。光明池というと光明池自動車教習所のCMを思い出しますなあ。

また聖武天皇を補佐したのが橘諸兄、吉備真備、玄昉ですが、橘諸兄は光明皇后と異父兄妹で灌漑用のため池である久米田池を作ったのは行基&橘諸兄コンビです。久米田寺近くの貝吹山古墳は橘諸兄の墓と伝えられていましたが、これも時代があいませんし本来の墓は井手町にあります。

聖武天皇の命のもと橘諸兄や行基が中心になってインフラ整備を行ったことから、そういった伝説が地元で広がっていったようです。

行基が開祖した久米田寺

久米田寺
久米田寺

楢原氏の菩提寺である九品寺は行基が開祖と伝わるお寺ですが、青森県から宮崎県まで行基が開基したとの伝承がある寺がなんと約600!。まあ聖徳太子伝説と同様にあやかってということでしょう。

岸和田にある久米田寺は正真正銘、行基が開祖となっています。行基が開祖した49院というのがあり、その中にある隆池院(久米多)が現在の久米田寺です。創建は738年と伝わっています。久米田寺の隣に久米田池という人工池(ため池)があり、聖武天皇の命をうけて行基が開削し、この久米田池を維持管理するために作られたのが久米田寺です。

戦国時代は三好実休と畠山高政が戦った久米田の戦いや織田信長による高屋城の戦いの兵火等により、寺はほぼ焼失しますが江戸時代に本堂などが再建されました。

おやぢの会2019

ふぐ久
ふぐ久

冬はふぐ久。
空揚げは言ふべきにもあらず、白子のいと白きも、またさらでもいと寒きに、火など急ぎおこして、フグ鍋持て渡るも、いとつきづきし。

ということで雨降る中、鶴橋の「ふぐ久」で恒例の「おやぢの会」。とっても平均年齢が高い会で、しかも会話の半分以上が下ネタという会です。フグ雑炊、おいしかった!