長谷寺 二本の杉

長谷寺
高束城跡から石畳の道をずっと下ると初瀬ダムがあります。ここから初瀬川となり、やがて大和川になって大阪湾へ至ります。
初瀬ダムから初瀬川沿いに下っていくと牡丹で有名な花の御寺である長谷寺があります。ふつうは近鉄の長谷寺駅から行くのですが、山側から行くのも、なかかなオススメです。長谷寺に着き、境内入口で待っているのが399段の登廊です。
長谷寺の創建は奈良時代で、平安時代には貴族の信仰を集め、枕草子、源氏物語などにも登場します。登回廊の途中から藤原定家塚へ行く道があり、途中にあるのが二本(ふたもと)の杉で、この杉は源氏物語の第22帖「玉鬘(夕顔の娘の名前)」で登場します。
長谷寺の御利益を頼みに参詣の旅に出た玉鬘が、夕顔(母親)の女房である右近と再会するのが二本の杉で、根元から二本に別れています。再会がかなう霊木とされており現在もあります。早い話がパワースポットの一つなんですが、全然知られていないようで観光客は誰もいません(笑)。再会で縁結びじゃないからかな~あ。

薬師寺

薬師寺
昨日は西ノ京で仕事だったので久しぶりに薬師寺へ寄ってきました。
奥さんの実家が西ノ京なので、西ノ京自体へはよく行っているんですが薬師寺や唐招提寺はさっぱりですね。大阪人が身近な通天閣に登らないのと同じです。もっとも高所恐怖症という話もあります。
フェノロサが”凍れる音楽”と絶賛した東塔は解体修理中で、平成32年6月頃に修理完了予定です。その代わりに食堂が新しくなっていました。堂内には壁画「仏教伝来の道と薬師寺」があり、平城京までの大きな絵画が何枚も飾ってありました。

深井の土塔

土塔
中小企業診断士の研究会であるファイティング・コンサルタンツ研究会。根城にしている株式会社セレソヴィーがM&Aで堺東から深井に移転したことで、深井の新事務所で初会合。
深井駅を降りると駅前に”史跡土塔”の文字を発見。調べると10年ほど前に創建当時の姿に復元整備されたとニュースで見た土塔でした。”そうか深井にあったんだあ!”というわけでメンバー全員で急遽、土塔見学に。
土塔は東大寺建立などに関わった堺出身の奈良時代の僧、行基が建立したものです。約60,000枚もの瓦を使った十三重の塔で、奈良の高畑町にはよく似た頭塔があり、こちらも奈良時代のものです。
研究会が終わってからは深井駅近くの情熱ホルモンで飲み会。研究会と同じ時間だけ飲んでおりました。

商売繁盛で笹もってこい

額田戎神社
関西は十日戎の真っ最中です。今日は最終日の残り戎。
家から歩いてすぐのところにある額田戎神社へ。朝8時頃からやっていると思って行ったら誰もいません。屋台で開店準備をしている人に聞いたら8:30頃にはいつも来ているということで待ってお参りしてきました。
残り戎の一番でお参りしてきたので、今年もあんじょう頼みまっせえ、戎さん!

はたよ食堂(湯浅)

はたよ食堂
先週金曜日、夜のセミナーまで、どっか喫茶店に入って時間をつぶそうと思ったら、どこにも喫茶店がない!
しょうがないので早い目にご飯でも食べようと思って町を歩いていると湯浅駅近くで赤暖簾(はたよ食堂)を発見。しらす丼とかメニューが出ていたので中に入ると客は誰もいません。しらす丼やオデンを食べながら店主と話をしていました。もちろんセミナー前なのでお酒は厳禁です。赤暖簾で酒を我慢するほど体に悪いことはありません。
■外部環境の変化
(1)一番の打撃が道路交通法の改正による飲酒運転の厳罰化で客足がとまる
(2)高速道路が周参見まで伸びたため釣り客が周参見まで行くようになり釣り客が立ち寄らなくなった
(3)湯浅駅の隣に広川ビーチ駅ができ、駐車場代がほぼタダなので湯浅駅の通勤客が減り店への立ち寄りも減った
なかなか経営が大変なんですが、地元の大学生が勝手にFacebookページを立ち上げ、書き込みを見て観光客が寄ってくれるようになったそうです。またFacebookページを見たテレビ局から取材の連絡がはいり、吉田類がやってきて「吉田類の酒場放浪記」(BS-TBS)にも登場。今度は番組を見た観光客が寄ってくれるという循環になっているそうです。
セミナー前になかなか面白い話を聞けましたが、一杯飲みたかったな~あ。

もう一つの湯浅城

湯浅城
紀伊国屋文左衛門の出身地、村人たちに津波の危険を知らせるため稲の束に火をつけた”稲むらの火”で有名な湯浅です。大和ハウス工業のCMでは湯浅町の古い街並みが出てきます。
この湯浅の町を見下ろすところにあるのが湯浅宗重が築いた湯浅城ですが、その横にもう一つの湯浅城が建っています。それが湯浅温泉 湯浅城で、以前は国民宿舎だったようです。湯浅城は戦国時代なんで山城なんですが、こちらは江戸時代の近代城郭スタイルになっていて日帰り温泉と宿泊ができます。
離れたところに二の丸温泉というのもあり、以前は同じ経営だったのが、どうも別れたようです。
湯浅では全国の湯浅姓が集まって親睦を深める「湯浅ふるさと会」という催しがあるそうで、催しの際は近代城郭風の湯浅城に泊まるんですかねえ。山城の方の湯浅城・登城記録に湯浅という名前も書かれていました。なんせ自分のルーツの場所ですからねえ。

相撲の発祥

力士埴輪
相撲界が騒がしいですが、日本で相撲が始まったのは垂仁天皇の時代。大和八木駅から西ノ京駅へ向かう時、線路のすぐ右手に見える古墳が垂仁天皇陵です。
垂仁天皇の時代、当麻に当麻蹴速(たいまのけはや)という剛の者がいて俺に勝てる者はいないと言っているので、出雲の国に野見宿禰(のみのすくね)を呼び出し展覧試合が行われました。これが相撲の祖となります。相撲を取った場所は山の辺の道沿いにある穴師坐兵主神社です。
試合に勝ったのは野見宿禰で当麻蹴速の腰を踏み折って殺します。コロッセオの試合のようですね。その後、野見宿禰は垂仁天皇に仕えることになります。また、それまで行われていた殉死をやめ埴輪に替えることを提案し、野見宿禰は土師臣(はじのおみ)の祖となります。今の藤井寺市や道明寺が本拠地となり土師の里と呼ばれるようになります。
古墳時代には力士が定着したようで今城塚古墳では力士埴輪が見つかっています。織田信長も相撲が好きで勝者を家臣にしています。高杉晋作が組織した騎兵隊には力士隊があり伊藤博文が率いて功山寺の挙兵に参加しています。そういえば新選組が大坂で起こした乱闘事件の相手も力士でした。

奈良競馬場跡

奈良競馬場跡
「近鉄沿線ディープなふしぎ発見」に奈良競馬場跡が載っていました。
秋篠寺の近く、神功皇后陵のすぐ隣にみえるのが巨大な楕円形で、これが奈良競馬場跡です。1939年につくられた一周1600mの超巨大な競馬場でした。戦後、競輪ブームが起きるとパドック等に競輪場を開きます。1954年に競馬場は廃止となり、維持が簡単な競輪場のみとなったそうです。それで横に奈良競輪があるんですねえ。

和田賢秀の墓(四条畷)

和田賢秀の墓(四条畷)
大阪府よろず支援拠点の仕事で四条畷商工会へ。途中にあるのが和田賢秀の墓です。
和田賢秀は楠木正季の息子です。楠木正季は楠木正成の弟で、湊川の戦で兄である正成と共に討死しました。楠木兄弟が戦死した後、一門の棟梁となったのが楠木正行です。楠木正成・正行父子が訣別する桜井の別れで有名です。
そういえば高校の歴史教科書から、武田信玄、上杉謙信、坂本龍馬と共に楠木正成の名前もなくなるんですね。
和田賢秀は従兄弟の楠木正行と共に四條畷の戦いに出陣し、討死します。伝説によると、討死の際に敵将の首に噛み付き睨んで放さず、敵はそれが原因で死んだと言われています。
■楠木一族なのに、なぜ名前が和田?
もともとは饒速日命の後裔で、物部氏や穂積氏とは同祖となります。河内国の和田正遠が楠木氏の家系を継承したことから楠木正成一族は楠木の名前を使います。
ただ他の一族は和田を称しており、和田賢秀の兄である和田高家は岸和田古城を築きます。岸と呼ばれた土地の和田からダンジリで有名な岸和田という地名になります。

大坂の陣巡り

木村重成
中小企業診断士の集まりであるファイティング・コンサルタンツ研究会で大坂の陣巡りをしてきました。昨年のコース(真田丸跡→安居神社、茶臼山→九度山)の続きです。
まずは河内国分駅に11:10に集合。電車の時間まで掲載したのに、さっそく15分も遅れてくるメンバーがでてきます。まずは駅近くの小松山へ。道明寺合戦の舞台となったところで後藤又兵衛が討死したところです。「後藤又兵衛の碑を見たい」という希望があり、予定にはなかった市立玉手山公園へえっちらおっちら登ります。ここには碑だけでなく供養塔などもあります。急坂なんで「しんどい」と文句が出ますが、碑が見たいと言うたのは誰や!
河内国分駅から若江岩田駅へ。駅前の中華料理店でさっそくミニ宴会。そこからひたすら歩いて若江城跡、木村重成墓を巡ります。飲んでいるので、このあたりから、どんどんと「しんどい」と文句が出始めます。そもそも最初から「今日は歩きまっせえ」って言うてましたやん!
若江岩田から上六へ出て、仁徳天皇の高津宮跡、空堀商店街、榎木大明神などを巡って、最終目的地の大阪城へ。終わってから昔、研究会でよく行っていた谷四の「いつもの場所」へ。結局、2万歩以上歩いた大坂の陣巡りでした。お疲れさまでした。