和を以て貴しとなす

和を以て貴しとなす
太子町のマンホールをよく見ると「和を以て貴しとなす」と書かれています。ご存知、十七条憲法の第一条です。今回の選挙の争点に憲法改正が話題にあがっていました。
十七条憲法は「篤く三宝を敬へ」など、法律というより役人の心構えが中心に書かれています。当時は他に法律がなかったようですので十七条憲法が最高法規となります。
やがて律(刑法)と令(行政法など律以外)が制定され、律令時代となります。鎌倉時代になると公家は律令にしばられますが、武士用ではなかったので御成敗式目が制定されます。戦国時代の分国法(今川仮名目録など大河ドラマ・井伊直虎に出てきました)も、この御成敗式目が基本となっています。もっとも戦国時代、法はあっても自力救済(権利を侵害された者が、司法手続によらず実力をもって権利回復をはたすこと)の世界でした。ですので映画「七人の侍」が描かれました。あの映画のテーマは自力救済です。
江戸幕府になると武家諸法度、禁中並公家諸法度が制定され、明治となり大日本帝国憲法ができ、昭和の日本国憲法へとつながっていきます。

日出ずる処の天子 小野妹子墓

小野妹子墓
日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。つつがなしや
第二回遣隋使で聖徳太子が小野妹子に持参させた国書の冒頭部分。天子という言葉に隋の煬帝が怒ったと伝わっています。ただ当時の国際情勢から倭国と敵対するわけにもいかず、煬帝の家臣である裴世清が小野妹子の帰還に伴って返書を持ち派遣されます。住吉津に着き、大道を通って飛鳥京へ戻りました。
翌年には返書と裴世清の帰国のため、高向玄理、南淵請安、旻らと共に再び隋に派遣されます。ウーン、日本史で習った人物ばかりですねえ。(笑)
なぜか太子町に小野妹子の墓があります。蘇我氏の一族と連なっていたんですかねえ。小野妹子は華道の家元である池坊の始祖にあたり、墓は池坊が管理しています。それはいいのですが、墓は長い階段の上にあり太子町が一望できます。山城には最適な場所なんですが、城の遺構はないですね。

ほんまかいな?蘇我馬子の墓

蘇我馬子の墓
聖徳太子のお墓がある叡福寺から少し行った住宅街に石塔が建っています。これが地元では蘇我馬子墓と伝わっています。最近のGoogleマップはすごいですね。きちんと表示されます。
定説では石舞台古墳が蘇我馬子の墓ではないかと言われています。この石舞台古墳のすぐ近くにある都塚古墳が近年、階段ピラミッドの墓だったと分かり、これが蘇我稲目の墓ではと言われています。蘇我稲目は馬子の父親で仏教伝来の時に大連の物部尾輿と争った人物です。仏教公伝、日本史で覚えましたねえ。蘇我氏の墓は本来、飛鳥にありますので、なんで太子町に蘇我馬子の墓が伝わっているのでしょうか。
太子町にある磯長谷は、大和川の支流である石川流域にあります。蘇我氏の祖は石川宿禰(いしかわのすくね)と言われ、この一帯が蘇我氏の最初の本拠地との一つと考えられています。大化の改新では蘇我倉山田石川麻呂が登場し、蘇我氏はもとの石川を名乗るようになります。そんな土地だからこそ、聖徳太子と二人三脚で歩んだ蘇我馬子の墓のいわれができたのでしょう。

推古天皇陵じゃない推古天皇陵

推古天皇陵
用明天皇陵、聖徳太子のお墓ときたので次は推古天皇陵。同じ太子町にあります。推古天皇といえば日本で初めての女帝で第33代の天皇。用明天皇の妹にあたり、甥の聖徳太子が摂政を努めました。
推古天皇は聖徳太子や蘇我馬子と共に仏法興隆にも努め、斑鳩に法隆寺が建立されます。また難波京から飛鳥まで大道(幅19m)を整備し、冠位十二階、十七条憲法が制定され、小野妹子が隋に派遣されます。激動する海外情勢に対応するため日本という国家が大いに整備された時代でした。
推古天皇は75歳で小墾田宮で亡くなりますが、若くして亡くなった息子の竹田王子と一緒に葬ってほしいということから合葬されました。これが橿原市にある植山古墳のようですが、改葬され、現在の推古天皇陵になりました。
どうも二つの石室があったので宮内庁が推古陵と比定したようですが、「?」のようです。地元ではすぐ近くにある二子塚古墳こそが本当の合葬陵であるとする言い伝えがあります。本当のところは誰の陵か分かりりませんが、高台にあり近辺が一望できる眺めがよいところです。

聖徳太子のお墓

聖徳太子
太子町に叡福寺というお寺があり、ここに聖徳太子のお墓があります。直径50メートル、高さ10メートルの円墳で、太子と母君の穴穂部間人皇后、妃の膳郎女の3人の棺が納められています。前後し相次いで亡くなっていますので、伝染病で亡くなったという説があります。
お墓には立派な山門や線香立てがあり、3層の建物もあって、他の天皇陵などとはだいぶ趣が違っています。
江戸時代まで、参拝のために石室内に入れたので、空海などが石室内の図を残しています。先日、NHK・歴史秘話ヒストリアで「聖徳太子の棺(ひつぎ) 伝説のその先へ」という番組をしており、釈迦三尊像の光背に彫られた196文字の銘文が聖徳太子と同時代のものである可能性を伝えていました。銘文によると像の高さを聖徳太子の背の高さにあわせたとあり、175cmぐらいあったようです。古代ではかなりの長身ですね。

枚岡駅の踏切越えがハイライト 枚岡祭り

枚岡祭り
河内一之宮である枚岡神社の秋祭り。毎年、10月14日、15日に行われます。今年はたまたま土日となりましたが、天気はいまいちでした。
東高野街道にある鳥居に集合し、ひたすら生駒山の裾野を上がり枚岡神社境内を目指します。ハイライトは近鉄・枚岡駅の踏切越え。職員が電車の通過タイミングの間隙をぬって23もの太鼓台を通します。枚岡駅周辺は祭り見物で人があふれており、異様な雰囲気に電車の運転士がどうしても徐行運転するため、ダイヤが狂いがち。なんとか連絡を取り合って、太鼓台を通せる時間を作って通しています。毎年のこととはいえ、ご苦労様です。
踏切を超えると一番傾斜がきつい坂が待っています。この坂を登りきると、いよいよ境内で宮入がはじまります。

比定地として間違いがない用明天皇陵

用明天皇陵
先日、山城へ行くついでに太子町へ寄ってきました。太子町は日本の王家の谷とも呼ばれ蘇我に縁がある古墳が集まっているところです。
写真は用明天皇陵。用明天皇は第31代天皇で聖徳太子のお父さんとして有名です。用明天皇自身のお父さんは仏教伝来で有名な欽明天皇。日本史で習いましたね。お母さんは蘇我稲目の娘・堅塩媛です。都は天香具山近くの磐余池辺雙槻宮でした。
用明天皇となり在位2年足らずで崩御してしまい、後継者争いから物部守屋の排仏派と蘇我馬子・聖徳太子の崇仏派が争うことになります。最終決戦は現在の八尾市で行われ、大聖勝軍寺に物部守屋の墓があります。単純に仏教受入だけでなく半島情勢を元にした外交や国家運営に対する考え方の違いも影響していました。
天皇陵といえば前方後円墳が基本でしたが、初めて方墳になったのが用明天皇陵です。また宮内庁が天皇陵を定めていますが、考古学の知識がない江戸時代の比定を元にしているため、とんでもないことになっています。そのなかでも、比定通り用明天皇陵で間違いないだろうという稀有な例になっています。

紀氏神社

紀氏神社
平群を根城にしていたのが紀氏と呼ばれる豪族。
朝鮮半島で軍事・外交に活躍した氏族です。氏神がこの平群坐紀氏神社(へぐりにますきのうじじんじゃ)で、式内社になっています。祖神の平群木菟宿禰(へぐりのずくのすくね)を祀っていました。紀氏は平群氏と同族で、平群氏の嫡流は武烈天皇の時代に滅ぼされてしまいます。日本書紀に平群鮪、武烈天皇との影媛(物部麁鹿火の娘)を巡る恋争いが出てきますが、武烈天皇に命じられた大伴金村によって平群氏は滅ぼされてしまいます。単純な恋争いではなく、政治的にいろいろとあったようです。
滅ぼした大伴金村も任那割譲時に百済から賄賂を受け取ったことで失脚しています。昔、日本史で習いましたが、こっちもそんな単純な話ではなく政治的にいろいろとあったようです。

大阪南港ATC

南港
大阪南港に ATC(アジアトレードセンター)という建物があります。久しぶりに行くと、だいぶお店が変わっていました。またATCは大阪と九州を結ぶサンフラワーの港になっているんですが、でかでかと2017年10月1日より「さんふらわあターミナル(大阪)」という看板が出ていました。
ネーミングライツ(自治体が命名権を企業などに販売)で、株式会社フェリーさんふらわが命名権を取得し、10年間の長期契約を結んだそうです。大阪では他にも大阪ドームは京セラドーム大阪になっています。
今日は「IoT関連技術の開放特許フェア2017」というイベントがあり、併設して相談会があったので、大阪府よろず支援拠点と大阪発明協会がペアで相談対応していました。

長屋王の呪い

長屋王の墓
平群にあるのが長屋王の墓。
墓の主である長屋王は天武天皇の孫で、血統も良く優れた政治的能力をもっていました。力を恐れたのが藤原氏で、長屋王を陥れて殺してしまいます。これが日本史で名高い長屋王の変。ところが政権を握った藤原四兄弟が、次々と天然痘で亡くなってしまい、”長屋王の呪い”と言われました。
時代が下り、平城京のすぐ近く、奈良市二条大路南で奈良そごうの建築に伴う発掘調査が始まりました。貴族の邸宅が見つかり長屋王の邸宅だったことが分かります。夏に氷室から運んだ氷でかき氷を楽しんでいたなど生活が分かる木簡などが発見されます。
反対運動が起きましたが、奈良そごう建設は止まらず後に豪華絢爛な隠し会長室があったことなどが判明します。そごうが倒産した時、皆が言ったのが”長屋王の呪い”だという言葉。1300年前の呪いが今も続いています。
奈良そごうを引き継いだイトーヨーカドー奈良店も9月に閉店となりました。こちらは呪いではなく販売不振でしょう。