石上神宮

石上神宮

豊田城跡から山の辺の道をたどると石上神宮(いそのかみじんぐう)に着きます、

石上神宮は物部氏の総氏神で古代からある神社です。古代に神宮だったのは伊勢神宮と石上神宮の2つしかありません。物部氏というと物部守屋が仏教を巡り蘇我馬子、聖徳太子と対立し、河内国渋川郡にあった館で破れ、物部氏そのものが滅んだという印象がありますが、石上氏と名前を変えて存続します。物部氏の本拠地は現在の東大阪、八尾と奈良の天理あたりでしたので天理の物部氏が本宗家の地位を継いだようです。

物部氏は大伴氏と並んで、武門の棟梁でした。磐井の乱の鎮圧などで活躍をしています。その関係もあり古代には武器庫もありました。垂仁天皇の時代に剣一千口と神宝が納められという記録があり、日本後記には石上神宮の武器類を山城国葛野郡に移す時、延べ15万7千人が必要だったと記録されています。正倉院にも武器が収められていて恵美押勝の乱の時に、写経生が叩き起こされて宮中の警備のために武器を取り出し、何もしなかったが後でほうびがもらえた記録が残っています。

宝塚古墳の被葬者は誰?

宝塚古墳

船型埴輪が見つかったのが宝塚古墳の1号墳で、伊勢国では最大の前方後円墳です。宝塚古墳は松阪郊外の丘陵上にあり伊勢湾が一望できるところで、航行中の船からはランドマークになっていたでしょう。宝塚古墳は国の史跡として整備され船形埴輪が見つかった造り出し部分に埴輪が再現されています。

【伊勢にもあった国譲り神話】
1号墳の被葬者は分かっていませんが、地域をおさめた飯高氏の先祖である乙加豆知命(オトカズチノミコト)ではないかともいわれています。乙加豆知命は斎王である倭姫命を伊勢で出迎えたと伝わっていますので、大和朝廷と関係があり、東の守りをまかされた人物でしょう。日本武尊(ヤマトタケル)が東征に出向く前、伊勢へ寄って倭姫命より草薙剣を受け取っています。

伊勢にはもともと伊勢津彦という出雲神がいて、神武天皇に逆らっていました。ところが攻められて東海に逃げたという、出雲と同じような国譲り神話が残っています。伊勢という国名はこの伊勢津彦からとられたという説があり、古代にはいろいろとあったようです。

1号墳のすぐ横に2号墳があり、こちらは帆立貝形古墳になっています。1号墳との位置関係から1号墳の後を引き継いだ首長のようです。宝塚古墳には88基以上の古墳があり、王家の谷のようになっていましたが、宅地開発などでほとんどが消滅してしまいました。

船形埴輪

船形埴輪

松阪に宝塚古墳群があり、ここで見つかったのが船形埴輪。前方後円墳の造り出し部分(祭が行われた場所)でほぼ完全な形で発掘されました。古墳の石室に描かれた壁画や円筒埴輪の線画で装飾用の船があったことは知られていましたが、立体的な形で確認されたのは日本で初めてです。船には王がいることを示す太刀や蓋、杖がそびえていました。古代にこんな船があったんですね。

中世の伊勢には桑名、白子、安濃津、的潟(まとかた)、大湊の港があり、的潟は櫛田川の支流である「中の川」の河口にあったといわれる港の名前です。的の形に似ているのでマトカタと呼ばれるようになったようですが現在は地形が変わってしまって正確な場所は分かっていません。。万葉集には702年に持統上皇が三河へ行幸する時の出発地として「マトカタの浦」という地名が出てきますので古代から中世には港で栄えていたようです。

ヤマト政権が東方経営の拠点としていたようですので宝塚古墳群に葬られたのはヤマト政権に協力していた地元の王だったのでしょう。

額田戎神社

額田戎神社

えべっさん、今年もあんじょう頼んまっせえ!他のヤツの願いはどうでもええから、ワテの願いは絶対でっせえ!合同会社もやっているし、ほんまに頼んまっせえ!!

ということで家のすぐ近くにある額田戎神社へ。人が多い今宮や西宮へ行かなくても、ゆっくりお参りできるのが最高です。西宮のえべっさんを勧請しているので、ご利益は同じです!!と信じています(笑)。なんせ浄土真宗なみの絶対他力ですから、ほんまにあんじょう頼んまっせえ!

いつもは閑散としている額田戎神社も十日戎の間は”商売繁盛で笹もってこい!”が大音量で流れています。まずはえべっさんにお願いして、次は社殿裏にまわって木の板をたたき、もう一度お願いをします。なんせ耳が遠い神様なんで念には念をいれます。

境内でお神酒と甘酒をいただいてから縁起物を買い求めます。額田戎神社では縁起物を買うと福引ができ、今年も5等(末等)のゴミ袋でした。さあ、また1年がんばろう!

上之宮遺跡

上之宮遺跡

聖徳太子による最初の国立劇場である土舞台から山を降り、少し歩いた住宅街のど真ん中にあるのが上之宮遺跡。とっても分かりにくいところにあります。 

発掘によって周囲100m四方の敷地内に大型建物、花園、園地遺構があることが判明しました。近くを川が流れており川が削った河岸段丘の上にあります。今は住宅地の中に園地遺構が復元され、小さな公園として整備されています。 

聖徳太子を最近の教科書では厩戸皇子と呼ぶそうですが、別名で上宮王(かみつみやおう)とも呼ばれています。上之宮という地名から、聖徳太子が斑鳩宮に移るまで過ごした宮殿、上宮(かみつみや)が上之宮遺跡跡ではないかとも言われています。またこのあたりは豪族・阿倍(安倍)氏の本貫でもあるので阿倍氏関係の居館の可能性もあります。阿倍氏は阿倍比羅夫などを輩出し、平安時代には安倍晴明へとつながります。飛鳥時代から続く安倍文殊院もあります。 

近年、もう少し西へ行った東池尻・池之内遺跡で池の堤跡が見つかり、これが磐余池ではないかと言われています。磐余池の近くには用明天皇の磐余池辺雙槻宮があり、上宮はその南隣にあったとされているので、上ノ宮遺跡は阿倍氏関係ですかねえ。 

土舞台

土舞台

安倍山城から尾根づたいに歩くと郭跡のような広場があり、”おおっ!”と思ったら土舞台という碑が建っていました。

なんでも推古天皇の時代に百済人の味摩之が日本に帰化したんですが、伎楽の舞を習得していたので聖徳太子が子供を集め、この伎楽の舞を習わせた場所なんだそうです。技術伝承ですなあ。というわけで土舞台は日本芸能発祥の地で日本最初の国立劇場なんだそうです。ほんまかいな~あ。地名が土舞台ですから、何かはあったんでしょう。

伎楽は三国志で有名な呉から伝わった舞で東大寺の大仏開眼供養などでも披露されましたし、正倉院にも酔胡王、迦楼羅、呉女などの伎楽面がいくつも伝わっています。

土舞台は江戸時代の「大和名所図絵」に紹介されるほど有名だったそうですが、今はほとんど知られていないので顕彰碑が建てられたんだそうです。まあ行っても単なる広場で、南北朝時代の安倍山城の時は絶対に兵士が駐屯した郭として使われていたでしょうね。

磐余若桜宮跡

磐余若桜宮跡

大和谷城跡は現在、若桜神社となっていますが古代には磐余若桜宮跡があったようで伝承地になっています。磐余(いわれ)というのは現在の桜井市西部地域を指した古代の地名で、神武天皇の和風諡号にも磐余の名前が入っており、かなり古いですね。 

磐余若桜宮を作ったのは第17代履中天皇で、宋書に出てくる倭の五王の倭王讃ではないかと言われており、実在したようです。磐余に造った池で船遊びをしていると、杯に季節はずれの桜の花びらが舞い落ちたことから、宮名を磐余稚桜宮としました。 

磐余池といえば大津皇子の辞世の歌が万葉集に残っています。”ももづたふ 磐余の池に 鳴く鴨を 今日のみ見てや 雲隠りなむ”。大津皇子の墓は二上山にあります。里中満智子の「天上の虹」の世界ですな~あ。

泊瀬列城宮跡(武烈天皇)

泊瀬列城宮跡(武烈天皇)

暴君として伝えられているのが武烈天皇。名前からしてメチャクチャ悪い諡号(おくりな)です。

野見宿禰塚から下ると出雲集落(桜井市)があり、ここに十二柱神社があります。国常立神(くにとこたちのかみ)など神世七代の神々と、天照大神など地神五代の神、あわせて十二柱の神々を祀っている少し変わった神社です。一回のお参りで十二の神さんに参拝できますのでコスパは高いですねえ。

この十二柱神社の境内一帯が武烈天皇の「泊瀬列城宮跡(はつせのなみきのみや)」伝承地として伝わっています。出雲集落は初瀬谷にあり、大和から伊勢へ通じる古代の主要道が通っていて、ここを抑える場所に宮がありました。

ただ宮があったにしては狭い場所ですねえ。武烈天皇は平群鮪の暗殺やら悪逆非道について日本書紀に書かれていて暴君と呼ばれています。ただ後継者がおらず、次は遠く越前から継体天皇を迎えることになり、王朝交代説もあるぐらいなので、武烈天皇を暴君に仕立てたという説が有力です。また日本書紀と古事記ではけっこう記載内容が異なっており武烈天皇は実在しなかったのではとも言われています。

野見宿禰塚

野見宿禰塚

貴乃花の引退や貴ノ岩の暴行事件など今年も角界ではいろいろとありました。

■相撲の発祥
さて相撲の発祥といえば野見宿禰。日本書紀に書かれているのは垂仁天皇の時代に相撲が発祥したという記述です。大和の當麻(当麻寺で有名)に住む当麻蹴速が剛の者で、出雲国から招いた野見宿禰と相撲(天覧試合)をとらせ野見宿禰が勝ちました。というか当麻蹴速は腰を踏み折られて死んでしまいます。当時の相撲は蹴ってもよかったんですね。相撲を取った場所が桜井市の穴師坐兵主神社の摂社である相撲神社のある所で、日本最古の道である山の辺の道沿いにあります。

さて相撲で勝った野見宿禰ですが、殉死の代わりに埴輪を活用するよう提言し土師氏の祖となります。前方後円墳で埴輪が見つかるのは野見宿禰のおかげなんですねえ。ちなみに垂仁(仁を垂れる)はこの殉死をやめたことから天皇(当時は大王)に贈られた贈り名です。野見宿禰は播磨の立野(龍野)で亡くなり、そちらにお墓があるんですが、なぜか桜井市にもお墓があります。

■野見宿禰塚
近鉄・大和朝倉駅と長谷寺駅のちょうど中間あたりの伊勢街道沿いに出雲という場所があります。一説に野見宿禰は出雲国ではなく出雲村の出身だったと言われています。この出雲を見下ろす高台に野見宿禰塚跡があります。明治16年まで大きな塚があり地元では野見宿禰のお墓と言われていました。そのため力士のお参りも多かったそうです。ところが明治16年に農地整理かなんかで塚が壊されてしまいました。塚にあった朱を捨てたら初瀬川が三日三晩、赤く染まったそうです。なにも壊さなくてもよいのに!

というわけで今は野見宿禰塚跡の碑が畑の中に建っています。かなり分かりにくい場所にあります。

織田信孝のお墓(関宿)

織田信孝のお墓(関宿)

伊勢・神戸家をM&A戦略で乗っ取った織田信孝(信長の息子)は、やがて遊軍として活躍することになります。信長の命令で越前一向一揆討伐戦や雑賀攻め、播磨へも伊勢勢を率いて出陣しています。

織田信孝が丹羽長秀と共に大坂から四国の長宗我部を攻めようとしていた時に発生したのが本能寺の変。明智光秀を討つのに一番近い所にいながら本能寺の変が伝わると兵が逃亡してしまい、なすすべがありません。そこへ備中高松城より中国大返しで軍を引き連れてきたのが秀吉で織田信孝は名目上、弔い合戦の総大将に祭り上げられます。

■山崎の合戦
天王山との戦いとも言い、明智光秀の敗因は天王山をおさえられなかったという説がありますが、どうも違うようで明智光秀が考えていたのが長篠の合戦の再現だったようです。光秀は山崎の小泉川(円明寺川)沿いに長大な柵をもうけ、秀吉を武田勝頼に見立てて得意の鉄砲戦術で破る予定でした。ですが秀吉も見抜いていたようで、翌日に総攻撃をするという情報を流しながら、雨の日の夕刻に攻め込み、雨で鉄砲を使えなくして勝利をおさめたようです。

■織田信孝の墓
清須会議の後、織田信孝は美濃国一国と岐阜城を支配することになりますが、やがて秀吉と対立。連携を組んでいた柴田勝家が北庄城で滅び、自身は尾張で切腹することとなります。享年26歳でした。

信孝の首を家臣が神戸に葬ろうとして持ち帰りましたが、戦乱の末に果たせず、関に葬ったといわれています。それが関宿の街道筋にある福蔵寺で、もともと織田信孝が信長の供養のために設立した寺でした。