天気がよかったので奥さんと宇治の平等院へ。
平等院の入口にあるのが有名な扇の芝。鵺(ぬえ)退治で有名な源三位頼政が自害した場所です。以仁王の平家打倒の綸旨をうけて挙兵した源頼政。平等院に籠って戦いましたが平氏に宇治川を突破され多勢に無勢で自害します。
能「頼政」では、宇治に立ち寄った僧を呼び止め、頼政の幽霊があらわれ回向を頼んで、扇の芝の草蔭に消えていきます。能では、よく「扇の芝」という言葉が出てきますが、その場所が何の変哲もないココ。ただし観光客のほとんどはまっすぐ平等院鳳凰堂を目指して、誰もいません。
平等院は修復工事をしていますが、創建当時からある扉絵「日想観図」の復元扉が博物館に展示されていました。12月6日まで公開され、その後はお堂に取り付けられるそうで、間近で目にすることができるのは今だけ。ラッキーでした。
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10月14日、15日 枚岡まつり
近所では2週間ほど前から夜になると太鼓の音が町中に響いています。今日のような休日は朝から太鼓の音。枚岡まつり(秋郷祭)が近づいているので子供たちによる太鼓の練習です。
枚岡まつりは京都の祇園祭のように曜日固定で毎年、10月14日、15日に開催され、今年は水曜、木曜なんで残念ながら見られないなあ。
近くにある石切神社の秋季大祭は10月24日、25日で、毎年、日をずらして土日開催です。枚岡神社は河内一ノ宮なんで伝統なんでしょうね。
枚岡神社の各町から23台の太鼓台が出て宮入りします。江戸時代までは、だんじり(地車)が中心でしたが、枚岡神社までの坂がきついので明治時代に安全上の理由から布団太鼓に切り替わっていったようです。
この界隈の会社は皆さん太鼓をかつぐので、実質的に休業になります(笑)。
ラバーダック
ラバーダックが今年も中之島に登場しています。ラバードッグとはオランダの芸術家が制作したアヒルで、なかなか愛嬌がある顔をしています。
9月から中之島(バラ園)にいたんですが、展示のラストは10月12日(月/祝)。あいかわらず、でかいアヒルです。最初に見た時は「すごく、でかいな~あ」という印象でしたが、何回も見ているとけっこう大きさに慣れ、「あいかわらず、でかいな~あ」になっています。
時の鐘
大阪府よろず支援拠点が入っているマイドーム大阪の近くに釣鐘町があり、「時の鐘」があります。
そもそもは大坂の陣で燃えてしまった町を復興するために徳川家光が大坂三郷の地子銀(固定資産税)の永代免除を決定しました。大坂三郷とは北組、南組、天満組から構成された街で大坂の町人が住む町でした。各組では惣年寄が選出され運営にあたっていました。当時の地子銀は1年間で178貫934匁ですので現在の価値では1億9600万円ほど。
三郷の総年寄は評議して、恩恵を忘れないよう鐘を造り、時刻を伝えることにしました。これが1634年に作られた大坂町中時報鐘「時の鐘」です。釣鐘は釣鐘屋敷に設置され、江戸時代、4回の火事にあいますが鐘は無事でした。
近松門左衛門の曽根崎心中にはお初と徳兵衛が曽根崎の露天神の森へ向かう途中、この「時の鐘」が鳴り、「あれ数うれば暁の七つの時が六つ鳴りて、残る一つが今生の 鐘の響きの聞納め 寂滅為楽と響くなり」と出てきます。
明治となり、「時の鐘」は廃止になります。鐘楼は撤去されて、釣鐘は近くの長光寺に預けられます。時報は大阪城内から打ち出す号砲となり、「お城のドン」と呼ばれました。1985年に釣鐘屋敷跡に里帰りすることになり、また釣鐘町へ戻ってきました。
紀伊長島へ
三重県産業支援センターのお仕事で紀伊長島の企業へ相談に行っておりました。
紀伊長島は東紀州の玄関口で、多気からずっと山間の道を行くと、ようやく山の上から熊野灘が見え、降りると紀伊長島。昔は国道42号線をひたすら行かないといけないんですが、紀勢自動車道ができて近くなりました。津からですと1時間です。
支援センターの車に乗せていってもらったのですが、お昼は新しくできた始神テラス。始神は「はじかみ」とよみ、熊野古道・始神峠から名づけられています。始神テラスはパーキングエリアなんですが、食堂がけっこう凝っていて地域の食材、名物を使用した料理が並んでいました。
「紀州岩清水豚のトンカツ」にもそそられたのですが、やっぱり魚だろうとキホクニヤ丼(海鮮丼)を注文。丼に乗る魚はいろいろ変わるそうです。紀伊長島と言えばマンボウが有名ですが、さすがにマンボウはのってませんでした。町の食堂へ行けばマンボウの刺身などが食べられます。
帰りは「めはり寿司」と「さんま寿司」を買って、大阪まで戻ってきました。
カラオケ屋を居抜きしたレンタルオフィス
午後から四日市商工会議所でIT窓口相談。
四日市商工会議所へ行くには近鉄四日市駅から諏訪商店街を通っていくのですが、この商店街にできたのがMIGという名前のレンタルオフィス。4月にできました。
三重県には民間のレンタルオフィスがほとんどなく、有名なのが四日市にある「ビズ・スクエアよっかいち BizSQ21」。三重県ではじめての民間運営インキュベーションオフィスです。
新しくできたMIGは、なんとパチスロの2階にあって、以前はカラオケ屋でした。中はなかなか重厚な造りで廊下が湾曲しています。(もとカラオケ屋なんで)
窓のない部屋が多いのが特徴ですが、部屋で騒いでも外に音が漏れないのがいいですね。セミナールームなどもあって、メンバーだけでなく一般でも借りることができます。
西求女塚古墳
ひょうご産業活性化センターの窓口相談が終わってから阪神電車で三宮駅から3つ目の西灘駅へ。駅のすぐ近くにあるのが西求女塚古墳です。
この古墳と処女塚古墳(おとめづかこふん)、東求女塚古墳の3つの古墳が大体、等間隔で並んでいるので、大昔に日本版ロミオとジュリエットの物語が作られました。
美しい乙女を巡って2人の若者が争い、それを嘆いて死んだ乙女を追って、2人の若者も亡くなってしまうというストーリで、真ん中が乙女を葬った処女塚古墳。等間隔で離れた2つの古墳が若者のもので、それぞれ東求女塚古墳と西求女塚古墳。そんなバカなことはないんですが、万葉集にも歌われています。
この西求女塚古墳ですが最初に発掘された時、古墳内部がグチャグチャだったので盗掘で荒らされたと考えられていましたが、秀吉の伏見城が倒れた、慶長伏見地震による地滑りで石室が移動して崩壊していたことが判明。その石室から発見されたのが邪馬台国の「卑弥呼の鏡」ともいわれる三角縁神獣鏡7枚。
古墳時代前期の前方後方墳で、全長98メートルを超える長さがあります。前方後方墳なのでヤマト朝廷とは距離をおいた地方の豪族の墓でしょう。今では住宅地の中にある公園になっています。
番と号 どっち?
本町橋船着場
大阪府よろず支援拠点の住所は本町橋になっています。
近くに東横堀川があり、川の上を阪神高速が通っています。川にかかっているのが本町橋。東横堀川は「堀」と名前がついているように、もともとは豊臣秀吉が大坂城の西惣構堀として造ったもの。
大坂冬の陣では本町橋に塙団右衛門が床几をおいて、どっかと座り、蜂須賀軍などに夜討ちをかけ成功します。しかも「夜討ちの大将 塙団右衛門直之」と書いた木札をばら撒いて宣伝していました。すごいプロモーションですねえ。来年の大河ドラマ「真田丸」にこのシーンは出てくるかなあ。
本町橋の脇で、ずっと本町橋船着場の工事をしていましたが工事が終わったようでオープン記念のクルーズがシルバーウィークに行われます。東横堀川をずっと南に行くと、西に90度曲がって道頓堀になります。クルーズでは本町橋船着場から道頓堀へ出て、引っかけ橋(戎橋)の下を通って湊川船付場(難波の向こう)まで運行します。
■道頓堀
大阪といえば道頓堀ですが、工事が開始されたのが1612年。巌流島で宮本武蔵と佐々木小次郎が決闘した年です。始めたのが安井道頓という商人で、大坂城の外堀を造ることに尽力したことから秀吉から大坂城の南側の土地をもらいます。
この土地開発のため東横堀川と西横堀川を結ぶ運河を作ろうと考え工事を始めました。ところが安井道頓は大坂夏の陣で秀頼側につき、大坂夏の陣で討死してしまいます。一族が跡を継いで完成したのが道頓堀。阪神優勝で飛び込むのとグリコの看板で、すっかり有名になりました。
天野屋利兵衛が使った牢屋敷
大阪府よろず支援拠点があるマイドーム大阪の裏側にあるのが天野屋利兵衛の碑。
天野屋利兵衛の屋敷が近くの大手橋(通称思案橋)にあったからということで碑が建っていますが、天野屋利兵衛に関する資料を調べていると歌舞伎の演目に「第一場 天満与左衛門町牢屋敷の内部」というのがあるのを見つけました。
天野屋利兵衛は、大石内蔵助らが吉良邸に討ち入る直前、槍数十本をつくって赤穂浪士を支援していたとして大坂西町奉行所に捕縛されます。厳しい拷問にあった時、「天野屋利兵衛は男でござる」と言って自白しなかったシーンは、忠臣蔵で有名にです。
問題は天満与左衛門町牢屋敷の場所。マイドーム大阪と大阪商工会議所のある所が大坂西町奉行所跡で、すぐ近くに中大江小学校や中大江公園があります。この辺りが与左衛門町牢屋敷があった場所。というと屋敷のすぐ近くに捕まって拷問にあっていたことになります。ほんまですかいなあ。歌舞伎の演目が「第二場 思案橋詰利兵衛離座敷」ですので、ほんまにマイドーム大阪近辺なんですね。
与左衛門町牢屋敷ですが、大塩平八郎の乱が起きた時には、事件の嫌疑をうけたものが多かったため、新牢を建てて収容したそうです。