今も残る御土居

ブラタモリ
「笑っていいとも」が終わって復活したのがブラタモリ。レギュラー放送は4月からですが、さっき京都編の特別番組をやっていました。
インクライン、新京極などがテーマでしたが、よかったのが秀吉が作った御土居。京都を外敵から守るのと洪水対策もあって土塁で囲んだのが御土居です。番組では特別に御土居の上をタモリが歩いていましたが、いいなあ(笑)。
洛中・洛外と呼ぶのは、この御土居の中か外かをあらわします。洛は平安京が作られた時に左京を洛陽城、右京を長安城と称していましたが右京は湿地帯で衰退し、左京が栄えたため京都のことを洛というようになります。御土居には出入口がいくつか設けられ、これが丹波口や荒神口などの地名で今も残っています。
都市化によって御土居は一部をのぞいて消えてしまいましたが、昔、勤めていた専門学校の本部が河原町通りの廬山寺近くにあり、裏の窓を開けるとだいぶ低くなっていましたが、この御土居が残っていました。見ても単なる土の山ですが、初めて見た時は「御土居が残っている!!」と興奮したものです。
→ 御土居マップ 今も京都の街に残っています

身代り申(奈良町)

身代り申
奈良町を歩くと家々の軒先に赤いぬいぐるみが列になってぶら下がっています。身代り申です。
奈良町はかつて元興寺の敷地内で、火災で焼けてしまった本堂跡に建っているのが庚申堂。庚申とは人のお腹のなかには「三尸の虫」という虫がいて、庚申の日の夜に人々が寝静まってから体からぬけだし、その人がしてきた悪事を天帝に告げにいくといわれています。
天帝が天の邪鬼に命じてその人に罰を与えるので、人々は三尸の虫がぬけださないように寝ずに過ごす習わしがありました。上方落語の「宿屋仇」などのテーマにもなっています。
さらに心配な人は天の邪鬼が嫌いな「身代り申」を吊るし、三尸の虫の嫌いなコンニャクを食べて悪魔を退散させます。庚申の日に徹夜する風習はなくなりましたが身代り申をつるし信仰は奈良町に残っています。
元興寺は蘇我入鹿が建立した日本最古の法興寺を平城京へ移転したものですが、不思議なことに元の法興寺はそのまま残っています。また元興寺は童子による鬼退治で有名ですが、この童子がやがて法師となり、故郷へ帰って建てたのが尾張元興寺。金山駅のすぐそばにあります。

奈良の正月

せんとくん
大晦日から正月にかけて津へ帰省していましたが、仕事でしょっちゅう津へ行っているので新鮮味はほとんどなし(笑)。
2日、3日は奥さんの実家の奈良へ。
最近は猿沢池近くの飛鳥苑に親類中が集まって一泊しています。飛鳥苑には露天風呂があり朝6時からやっていますので毎年、入っています。露天風呂の目の前に興福寺の五重塔があり、朝6時には興福寺の鐘がなり、なかなか風情があります。黎明の中で見る五重塔もオツですねえ。
朝から飛鳥苑のすぐ近くの奈良町を散策しましたが、観光客が多いですねえ。円安の影響か海外からの観光客も多かったです。

名張生まれの江戸川乱歩

江戸川乱歩
「ハッハッハッハッ、明智君」といえば怪人二十面相です。今なら名探偵コナンですね。
明智小五郎、怪盗二十面相、少年探偵団とくれば江戸川乱歩。江戸川乱歩は名張市生まれで、生家跡は商店街から細い路地を奥に入った一角で今は公園になっています。もともとは武士の家系で祖父の代まで藤堂家の藩士でした。
小さい時に父の転勤で転居したので名張にはあまり足跡がありませんが、鳥羽造船所に勤めるなど三重県とは縁はけっこう深い作家です。鳥羽の離島から発想を得て「パノラマ島奇談」。鳥羽の後、上京し、団子坂上で兄弟三人と三人書房と名づけた古本屋を始めます。これが「D坂の殺人事件」となります。探偵文壇の大御所になってから生まれ故郷の名張を訪れています。
これが随筆「ふるさと発見記」になっています。
“私の生家の跡は、新町という大通りの裏手にあった。四間くらいの小さな借家だったという。家主は名張の城代の侍医で、その医院の裏に幾軒かの貸家が建っていた、その一つを父が借りたのである。”
名張にある造り酒屋・木屋正酒造から「幻影城」というお酒が出ています。

ポラーノの広場

藤城清治世界展
チケットを買ってあるということで奥さんと「光と影の芸術人 藤城清治世界展」へ日曜の午前中に行ってきました。最終日で午後からは本人のサイン会もあるということでかなりの混雑。
場所は大阪港にある大阪文化館・天保山。昔のサントリーミュージアム「天保山」です。知的生産の技術研究会・関西で毎年、講演していただいた作家・野村正樹さんがサントリー時代の最後に手掛けたのがこのサントリーミュージアム「天保山」の設立。てっきり大阪在住と思ってセミナー講師を依頼したら、東京在住でした。それ以来、関西の別の用事にかこつけて前後にセミナーをしてもらいました。
「光と影の芸術人 藤城清治世界展」会場内には藤城清治作品が山のように展示されていました。なかでも多かったのが宮沢賢治の童話の挿絵。数ある作品の中で一番、印象的だったのが「ポラーノの広場」。昔、角川書店で宮沢賢治の「ポラーノの広場」を買ったのですが表紙の挿絵がまさにこれ。藤城清治には珍しく、淡い印象の絵で、懐かしかったですねえ。。
「つめくさの花の かおる夜は ポランの広場の夏まつり...」

伊勢へ

伊勢商工会議所
IT窓口相談で伊勢商工会議所へ。
写真は伊勢商工会議所1階の様子です。たまには近鉄ではなくJRの「快速みえ」に乗って伊勢へ行こうとしたのが失敗。
津駅は定刻通りに出ましたが、高茶屋駅ー松阪駅間が強風のため減速運転となり、結局25分遅れで伊勢市へ到着。商工会議所横に新しくできた店でランチをと思っていたら時間ギリギリで、お昼はなしでした。(泣)
1食、抜いても全然やせませんが(笑)

関西とは鈴鹿関の西のこと

鈴鹿関
関西の語源は関の西側という意味。関というのは不破関(関ヶ原)、鈴鹿関、愛発関(弁慶の愛発超えで有名)の三関のことで関宿には鈴鹿関がありました。ですので鈴鹿関の東側にある四日市、桑名、名古屋は古代では関東でした。
鈴鹿関がどこにあったのか長らく謎でしたが「西の追分」(東海道と大和街道の分岐点)ちかくにある観音山麓から西城壁跡が見つかりました。観音山から城山を通って鈴鹿川まで長い城壁が続いていたようです。古代の関は江戸時代の箱根の関のようなイメージではなく、ずっと城壁が続き、現在の関宿をすっぽり囲んでいました。
→ 亀山市史(鈴鹿関の再現動画)
「壬申の乱」の大海人皇子の時代には関宿には鈴鹿郡家がありました。壬申の乱の後に鈴鹿関が整備されます。
大海人皇子は吉野から逃れて、鈴鹿郡家までたどりついたところで、ようやく東国に入ったと安心します。伊勢国司が応援に出迎え、近江軍に対抗するために鈴鹿の道を封鎖します。ここで合流したのが近江京を抜け出してきた大津皇子。後に持統天皇の謀略で謀反の疑いをかけられ二上山に葬られる、あの大津皇子です。当時は9歳ぐらいでしたのでお供がいたとしても大変だったでしょう。

江戸時代の宿場が残る関

関宿
日曜日、セミナー前に関宿を歩いてきました。
東海道53次の47番目の宿場町「関宿」は、まさに江戸時代のオープンセット。町屋が200棟以上も現存し、東海道で唯一、往時の町並みが残っています。中山道の奈良井宿も趣きありますが、関宿は規模が大きいですね。
東海道と大和道が分岐する西の追分から、東海道と伊勢別街道が分岐する東の追分までの約1.8kmに街並みが続きます。東の追分にある鳥居は20年に一度の式年遷宮の際に、内宮にある宇治橋の鳥居が新調されますが、それをリサイクルしたもの。もう一つの鳥居は桑名の七里の渡し跡にある鳥居にリサイクルされます。東の追分から伊勢別街道に入ると、そこから伊勢神宮の神域でした。
関宿を全部歩くと、けっこう時間がかかりそうだったので、関駅から西の追分まで歩きましたが、まあまあ距離がありました。
精一杯がんばることを「関の山」と言いますが、語源になっているのが関の山車。全盛期には16台ありましたが、現在は4台となっています。山車が壮麗で、これ以上は豪華にできなかったことと、山車をこれ以上、大きくすると道を巡行できなくなることから「関の山」という慣用句が生まれました。

織田信孝の首塚が関にあった

福蔵寺
織田信孝とは織田信長の三男。映画「清州会議」では坂東巳之助が演じていました。首塚が関にあるとは知りませんでした。
織田信孝は信長の伊勢攻めで鈴鹿近辺をおさめる神戸氏(関氏の一族)に養子にはいることになり、神戸信孝と名乗ります。信孝のお母さんは坂氏の出身で、坂氏は関氏の庶流、鹿伏兎氏の庶流にあたります。それで親戚筋にあたる神戸氏の養子に入ったんですね。
関西本線で亀山駅の隣が関駅で、次の駅が加太駅。鹿伏兎氏はこの加太駅周辺をおさめていました。すぐ近くを名阪国道が走っています。
織田信孝は信長が本能寺の変で倒れると、秀吉と組んで山崎の合戦を戦いいますが、清洲会議では甥の三法師に後継者が決定します。
織田信孝は岐阜城に入って、三法師の後見をすることになりますが、結局は秀吉とは敵対し、柴田勝家と組みすることになります。賤ヶ岳の戦いで柴田勝家が負けると、岐阜城を開城して秀吉に降伏。やがて秀吉によって自害させられ、首は関町の福蔵寺にもたらされ、ここで供養されました。
お墓は自害した知多の安養院にありますが、関に首塚があるとは知りませんでした。

館長 庵野秀明 特撮博物館

特撮博物館
水曜日、デザインセンターでのセミナー前に近くにある名古屋市科学館へ寄ってきました。目的は、「館長 庵野秀明 特撮博物館 ミニチュアで見る昭和平成の技」の特別展。大阪で開催する予定は決まっていないそうです。
平日なので、すいていました。科学館なので通常は家族連れが中心なんですが、特別展に来ているお客さんはオッサンが中心。人のことは言えませんが(笑)
「巨神兵東京に現わる」とメィキングの2本を上映していましたが、メイキングが面白かったですね。おっさん連中の技術者が集まり、楽しそうにワイワイとCGを使わずに、いかに特撮で見せるかをやっていましたが、ほんまに楽しそうです。
科学特捜隊のジェットビートルなどが展示されていましたが、懐かしかったのがマイティジャック。「海底大戦争 緯度0大作戦」のポスターなども懐かしいですね。
会場の最後には怪獣に壊された東京タワーなどがありましたが、中京テレビも主催者の一人なので「チュウキョ~くん」が家に隠れていた、りビルの上に番組表があったりして楽しめます。