神様のお引越はもうすぐ

ise201309.jpg午後、伊勢商工会議所で窓口相談でしたので、昼休みに外宮へ行ってきました。外宮は伊勢商工会議所から歩いて5分ぐらいのところにあります。 

今朝の中日新聞トップに伊勢神宮の参拝客が年間で900万人を突破し、過去最高になったと報道がありました。このままの勢いだと1300万人になりそうです。確かにすごい人ですね、平日、昼の外宮なんて、閑散としているはずなんですが今日は人だらけ、しかも団体客が3組ほどお参りしていました。 

さて外宮の正宮へ行くと、いつもはない新しい宮への渡り廊下のようなものが作られていました。外宮には10月5日に遷御の儀、つまり神様のお引っ越しが行われます。内宮は10月3日です。午後8時に行われますが、関係者でないと見られません。外宮にある「せんぐう館」で遷御の儀の模型や様子が見られますがまさしく幽玄の世界。 

知らない人も多いのですが、遷御の儀が行われる日の午後1時からは引越準備で参拝はできません。伊勢神宮の参拝を考えている人はご注意を。10月6日(日)午前5時から新しいお宮で参拝できますので、この日は参拝客でごったがえすでしょうね。 

正宮に参ってから階段を上がって多賀宮をお参りしてきました。こちらも新宮が出来上がっていました。多賀宮は豊受大御神の荒魂(あらみたま)を祭っていて少々個人的お願いは多賀宮でお願いします。正宮は和魂(にぎみたま)を祭っていて、国家全体を祈願します。 

大乗院庭園(奈良)

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    三連休の間に書かないといけなかった原稿が無事、日曜日に仕上がったので、今日は奥さんと奈良へ出かけてきました。 

    近鉄奈良駅で降りて、ならまち~元興寺~大乗院庭園~新薬師寺~興福寺・国宝館と巡ってきました。新薬師寺の萩はまだはやかったですね。興福寺・国宝館には東京で展示中の山田寺仏頭はなく、代わりに薬師如来が展示されていました。阿修羅像のあたりはあいかわらずの人だかり。 

    元興寺からちょっと行った、大乗院庭園は将軍足利義政の同朋衆で、作庭の第一人者であった善阿弥が作った庭。明治時代に売却されたので敷地の一部が奈良ホテルのテニスコートや道路などになってしまいましたが、発掘され当時の姿に整備されています。 

    興福寺から春日大社へ向かうルートからは少しはずれていますので観光客はほぼいません。飛火野よりものんびりできる庭ですので、おすすめです。ただし鹿はいません。

ヱヴァンゲリヲンと日本刀展

eva201908.jpg今日は朝から原稿書き。 

ようやく一段落したんですが、もうちょっとやっといた方がよいのでお酒は我慢してコーヒー飲んでます。 

昨日、中之島図書館の帰りによってきたのが大阪歴史博物館。ここの常設展は見応えがあって、最初のオープニングが何回見てもいいですね。難波京で橘諸兄が諸官の前で宣言するシーンがあるのですが、次に難波京を俯瞰するシーンになって、時代の流れとともにだんだんと現代の姿になります。そしたら窓が開いて、現在の難波京が同じように見えます。なかなか考えています。 

常設展はそうでもなかったのですが、混んでいたのが「ヱヴァンゲリヲンと日本刀展」。ヱヴァンゲリヲンで使われている刃物などを日本刀の刀匠が再現したものです。ロンギヌスの槍は圧巻でした。作品はほとんど撮影OKなんだものですからカメラやスマホ片手の若者で混雑していました。 

日本刀という異色のものとコラボレーションしたところがマーケティング的にうまいですね。海外で展示したら話題になるでしょう。

沢村栄治のお墓

sawamura201309.jpg沢村栄治といえば伝説の速球投手。プロ野球の最優秀投手には毎年、「沢村栄治賞」(沢村賞)が贈られます。 

巨人軍で活躍した投手ですが戦争で右肩を痛め、日本に戻ってからは肩を痛めたのでサイドスローに転向。3度目のノーヒットノーランを達成しています。すごいですね。 

また徴兵されて日本に戻ってきましたが体はボロボロ。巨人に復帰しましたが成績はふるわず巨人からは解雇されてしまいます。そして3度目の徴兵で戦死。 

沢村栄治は伊勢市生まれで生家跡は近鉄・宇治山田駅の目の前にある明倫商店街を抜けたところにあります。商店街入口に「沢村栄治誕生の街」と看板があるし、商店街の中にも案内があるので、よく分かります。 

実はお墓も伊勢にあります。実に分かりくいところで案内も何もありません。伊勢の企業へ行くついでに知り合いに連れていってもらいました。沢村栄治のお墓はボールの形で、前面に巨人の「G」、後面に沢村の背番号「14」が刻まれていました。27歳という若さで亡くなったんですね。 

古墳が大学の中に!

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    名古屋市新事業支援センターがある吹上ホールから少し歩くと名古屋工業大学があります。 

    大学の校舎が立ち並んでいる真ん中に通常ですと中庭があるんですが、名古屋工業大学には古墳があります。直径36メートル、高さ8メートルの円墳ですが、もともとは前方後円墳だったのが方墳が失われてしまったようです。 

    大学内には時計台などの目印になるランドマークがあるんですが、古墳がランドマークの大学は名古屋工業大学ぐらいでしょうね。古墳を残しながら、うまく校舎配置したものです。 

    一本松古墳と名付けられていますが大学のあるのは御器所台地という高地になり、古代は眺めがよかったでしょうね。近くの鶴舞公園横には東海地方最大の円墳・八幡山古墳があり、吹上ホールのあったあたりにも2つの古墳がありましたが、前身の名古屋刑務所を作る時に壊してしまったようです。古墳の霊を追悼する吹上観音しか残っていません。 

    大学には古墳に登ると留年する(単位を落とす)という伝説があるそうです。

秀吉のお母さんの家

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    豊臣秀吉は名古屋駅から少しいった中村で生まれました。現在は中村公園になっていて秀吉清正記念館があります。 

    秀吉のお母さんは仲(なか)という名前ですが、秀吉が出世しちゃいましたので大政所と呼ばれています。織田家の雑兵だった言われる木下弥右衛門のもとに嫁ぎ、秀吉が生まれます。夫が死んだあとは竹阿弥と再婚し、堺屋太一が「ある補佐役の生涯」として描いた豊臣秀長が生まれます。 

    竹阿弥とソリがあわなかった秀吉は15歳の時に家出。秀吉が生まれた尾張の織田家といえば、まだまだ中小企業で、武士を目指すのなら、大企業であった今川家への仕官が王道。浜松では、今川家の幕下であった松下加兵衛に運良く仕えることができました。 

    紆余曲折があって織田信長に仕えることになりますが、秀吉は桶狭間の合戦以来、零落していたかつての主君、松下加兵衛を遠江久能城1万6千石の大名にしています。最初の武家奉公を教えてくれた、その恩義に報いています。 

    さて秀吉のお母さんの大政所ですが、出身地は御器所だと言われています。住宅地の真ん中に小さな公園があり御所屋敷跡とありますが、まあ伝説にちかいでしょうね。

21歳でなくなった北畠家の貴公子

kitabatake201309.jpg東天下茶屋の安倍晴明神社から少し行ったところにあるのが北畠公園という小さな公園。 

北畠公園の中に北畠顕家(きたばたけあきいえ)のお墓があります。北畠顕家は「神皇正統記」で有名な北畠親房の長男。16歳で陸奥守に任ぜられ、鎮守府将軍として奥州にいたのですが足利尊氏が後醍醐天皇と敵対すると上洛して新田義貞・楠木正成とともに九州へ追い落としました。この後、また奥州に赴任しています。 

ところが勢いをも盛り返した足利尊氏が九州から攻め上ってきました。そこで奥州より再度上洛。各地で転戦し、岐阜の大垣では足利方を大いに破りましたが、高師直軍との阿倍野での合戦後、堺の石津で戦死し東天下茶屋に葬られたそうです。 

北畠親房の三男である北畠顕能が伊勢国司となったことから、伊勢の北畠氏が始まります。長い間、南北朝に分かれて争っていましたが和解し、双方から順番に天皇になるという約束ができました。 

ところが足利幕府が約束を反故にしてしまいます。そこで伊勢国司北畠家の第3代当主だった北畠 満雅(きたばたけ みつまさ)が挙兵し、幕府軍とぶつかります。北畠満雅は津市の南にある雲出川において幕府軍を大敗させますが、その後、津の中心街にある「岩田川での戦い」で敗れ、北畠満雅は戦死してしまいます。こちらは津の阿漕駅の近くに碑だけ建っていてお墓はありません。 

あべのにある安倍晴明神社

abeno201309.jpg午前中は専門家派遣で大阪の企業さんへ。天王寺駅から阪堺電車(チンチン電車) に乗って3駅目の東天下茶屋駅へ。 企業さんへ寄った後に神社へ行ってきました。

駅のすぐ近くを熊野街道が通っています。熊野街道というのは大阪から熊野本宮へお参りする参道道で途中にマイルストーンとなる王子社があります。この熊野街道から近鉄百貨店あべのハルカスが見えますが、このあたりも「あべの」と呼ばれています。 

「あべの」の知名の由来は諸説あるんですが、有名なのが古代にこの地を領有していた豪族・阿倍氏の姓からとする説です。 

安倍晴明神社と言うと京都が有名なのですが、大阪は生まれた所に神社があります。安倍晴明は葛の葉という狐の子として有名。安倍晴明のお父さんが狩人に追われていた白狐を助けますが、この白狐が葛の葉で、やがて恋仲となり生まれたのが安倍晴明。ただ正体がばれると「恋しくば尋ね来て見よ 和泉なる信太の森のうらみ葛の葉」という一首を残して信太の森へと帰っていきます。 

やがて成長した清明は陰陽師となります。神社には狐の像もありますし、やっぱりシンボルマークは五芒星ですね。

南朝の祟りでできた湊川神社

三宮のサンパルにある、ひょうご産業活性化センターへ。今日も暑かったですね。 

サンパル近くにあるのがJR三ノ宮駅で、次の駅が元町、その次が神戸駅です。この神戸駅知覚にあるのが湊川神社。足利尊氏と戦い、敗れた楠正成を祭っています。「兵庫県謎解き散歩」という本を読んでいたら、この湊川神社について面白いことを書いていました。 

南北朝の騒乱の後、室町幕府から戦国時代となり、やがて江戸時代になります。天皇は国をおさめているわけではなく、武家が実政権を握っていました。形式上は政権を天皇から預かるという形です。

幕末に起きたのが王政復古の大号令。将軍、徳川慶喜は政権を朝廷に返してしまいます。天皇が統治するという鎌倉幕府以前に戻ってしまいました。ここで問題になったのが北朝方の天皇が連綿と続いている事実。南北朝統一の時に南朝をだましたこともあり、怖れたのが南朝の祟り。そこで楠正成の塚があったところを神社にして鎮めることになり誕生したのが湊川神社だったそうです。 

弥な屋さん

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午後は四日市商工会議所でIT窓口相談。お盆の真っ最中ですが、相談はあるんですねえ。
商工会議所へ行く前に商店街にあるお祭り道具専門店「弥な屋」さんへ顔を出してきました。入口に法被の暖簾がかかっていますが、法被ではなく、特注で作ってもらった法被型暖簾なんだそうです。
「弥な屋」さんと言えば、三重県人にとっては中日新聞の広告でよく見ております。あの広告は娘さんがモデルなんですが、もうだいぶ大きくなられたそうです。