河内寺廃寺跡

河内寺廃寺跡
自転車のパンクを直しに、瓢箪山商店街へ。結局、タイヤ交換になってしまったので交換時間の合間に河内寺廃寺跡を見てきました。
近鉄奈良線で瓢箪山駅を過ぎると生駒山の山麓を登りながら生駒へ向かいます。ちょど線路が生駒山にぶつかって大きくカーブする高台に河内寺廃寺跡があります。
先日、市政だよりを読んでいたら平成29年4月をめどに史跡公園として整備すると書いてありましたが、まだ礎石を掘り起こしたぐらいしか工事は進んでいませんでした。以前は単なる空地でしたが、さすがに「国史蹟 河内寺廃寺跡」という小さな看板がついていましたので、少しは知名度があがったでしょう。
■河内寺廃寺跡
7世紀中頃に創建された古代寺院跡。発掘調査の結果、塔、金堂が南北に並ぶ四天王寺式伽藍配置の寺だったことが判明。河内寺廃寺は有力な渡来系氏族「河内直」により氏寺として建立され、のちに律令制度の発達とともに河内郡衙に付随した郡寺として発展していったと考えられています。

摂河泉(せっかせん)

摂河泉
大阪市営地下鉄?に乗っていると住之江ボートレースの吊広告があって摂河泉レースと書かれていました。
摂河泉!!
また古式ゆかしい名前をレースにつけましたなあ。でもそんな古い名前を知りながら舟券を買っている人がいるのかなあ。
現在の大阪府は、昔、3つの国から構成されていました。摂津、河内、和泉で摂河泉とはこの3つの国をまとめたもの。
摂津は大阪の住吉あたりから能勢あたりの北部まで、兵庫県の神戸、有馬、三田も摂津の国です。信長時代に摂津の国をおさめたのが荒木村重。
河内は大阪府東部で枚方から寝屋川、東大阪、河内長野や千早赤阪村などが含まれています。戦国時代は信長よりはやく天下をとった三好長慶が河内を支配していました。
和泉は大阪府の海側で堺から関空のある泉佐野市などを含み和歌山との県境までです。和泉は「いずみ」と呼び、もともとは泉でしたが、国名を二字にする法令ができた時に「和」をつけて「和泉(いずみ)」にしました。和は発音しません。
摂津・河内・和泉三国の国境は、堺市の三国山にあり、方違神社があります。三国ヶ丘の三国というのは摂河泉をさします。

津商業高校 甲子園出場

津商業高校
津のアチコチに貼ってあるのが「祝 津商業高校 甲子園出場」の文字。
津商業高校の三重大会での優勝は初めてではなく、1961(昭和36)年に優勝した経験があり、2回目です。ところが当時は三重県と岐阜県の2県で1校しか甲子園に行くことができず、三重大会のあとの三岐大会で県岐商に破れてしまいました。ですので甲子園出場は今回が初めて。
第一試合で強豪・智弁和歌山に勝ち、2回戦は14日(金)に鳥羽(京都)とあたることになりました。在校生は競技大会などに出ていない限り応援。50台以上のバスをしたてて甲子園を向かうそうです。バス1台のチャーター代が15万円ほどなので50台だと750万円!
在校生はもちろん無料ですが、父兄なども同乗でき確か9,000円ほど。これで往復バス代、弁当代、応援グッズなどがついてくるので、かなりお得です。ただし応援席は試合が終わったら5分で片付けて出ないといけないそうで大変です。違う競技で全国大会に出た部活の先生が、「こっちの応援はバス1台しか出なかったのに、えらい差や!」と言ったとか、言わないとか、地元だといろいろな話が入ってきます。(笑)
高校野球なんで応援席ではダメでしょうが、内野席でビールが飲めるのか議論になったんですが、ネットで調べるとビールもチュウハイも売りにくるそうです。炎天下の甲子園ですので、飲まなきゃやってられないでしょうね。

八尾飛行場の予備滑走路

八尾飛行場
日本一短い商店街・肥後橋商店街の近くにあるのが靭(うつぼ)公園。ここが終戦後にアメリカ軍が作った靱飛行場跡というのは有名な話です。
八尾飛行場は現在もありますが戦時中は大正飛行場と呼ばれていました。アメリカ軍による飛行場への攻撃が多くなったため近くに予備滑走路が作られたそうです。現在の府道八尾枚方線の一部がそうで、戦後は府道に転用されました。確かにまっすぐな道路が続いています。
戦後70周年特集を関西のテレビ局でやっていて紹介していました。予備滑走路が八尾にあったんですねえ。一時、八尾の高安に住んでいましたが、知りませんでした。
この滑走路跡の近くには大坂夏の陣・八尾・若江の戦いで、藤堂高虎、井伊直孝の両軍と戦い敗れた木村重成の墓があります。徳川家康が木村重成の首実験をした時に、兜をとった髪から香の香りが漂ったことから戦いに挑む姿勢に感心し、ほめたたえます。

家康の本陣跡

徳川家康本陣跡
今年は大坂の陣から400年。今日の日経新聞の文化欄にも大坂の陣の話題が載っていました。
家から少し歩いた豊浦という所に児童公園があるのですが、東高野街道から少し登った、高台になっていて眺めがよい所です。今は無理ですが、400年前なら大坂城がよく見えていたでしょう。この公園にあったのが中村屋敷。中村家は佐々木源氏の一派で、もともとは近江にある鯰江(なまずえ)城にいました。鯰江城は「河岸段丘」を利用して築城された城でした。室町時代に豊浦村に移ったようです。
中村屋敷は冬の陣では家康が、夏の陣が秀忠が最初の本陣にしました。ここから大坂の陣がスタートしたんですね。
そういえば今日は八月一日、八朔の日です。
新しい穀物を収めて祝う行事が各地で行われ、祇園では挨拶まわりが行われます。徳川家康が江戸に正式入府したのが八朔の日です。江戸時代は神君・家康公が江戸入府した日として幕府の重要な式典の日になりました。

全国の渡辺さんの故郷

渡辺津
天神祭を見に行った時、天満橋近くの大川に渡辺津の碑が建っていました。おお!こんな碑が出来たんですね。ここが全国の渡辺さんや渡部さんの故郷です。
渡辺津とは大川にあった古代の港で、熊野古道もこの渡辺津が起点でした。時代がくだると渡辺津近くの台地の上に石山本願寺が築かれ、信長との10年戦争に突入します。
平安時代後期には源綱がこの地に住んで渡辺を名字とし、渡辺氏を起こします。渡辺綱の子孫は渡辺党と呼ばれる武士団となり、港を背景に水軍として日本全国に散らばります。これが全国に拡がる渡辺さんのルーツとなります。北九州にわたった一族は松浦党となります。
この渡辺津にあったのが坐摩(いかすり)神社。秀吉が大坂城を築城する時に坐摩神社および渡辺党に退去を命じたので坐摩神社は本町駅の南にある久太郎町に移転しました。この坐摩(いかすり)ですが、宮中に「座摩の巫」が祀られていて、都下(つげ)造氏の童女が祭祀をしたそうですので、ツゲですので古代朝鮮に関係していたようです。実際、渡辺津のあたりは旧新羅江とも呼ばれており、坐摩神社が移転した久太郎町は百済の当て字でしたので、渡辺党のほとんどはもともと渡来人のツゲ氏だったようです。

大阪締め(天神祭)

天神祭
大阪よろず支援拠点で窓口相談。
大阪よろず支援拠点はマイドーム大阪7階にありますので、ちょっと歩くと中之島。中之島から少し行けば大阪天満宮です。窓口相談が終わってから天神祭を見に出かけてきました。天神祭の日に大阪にいることは珍しく久しぶりです。天満宮へ行くとちょうど宮入の最中で、大阪締め(おおさかじめ)が行われていました。
大阪締めとは大阪を中心に行われている手締めで、物事が無事に終わったことを祝い関係者が掛け声とともに打つ手拍子。
【大阪締め】
「打ちましょ」でチョンチョンと2回手を打ちます
「もひとつせ~」でチョンチョン、
最後に「祝うて三度」でチョチョンがチョンと打って締めます
大阪では天神祭以外でも証券取引所などでもこの大阪締めが行われます。大阪中小企業診断士会の交流会でも締めは必ず大阪締めです。なかなか風情があっていいですよ。

大阪活版所

大阪活版所
マイドーム大阪のすぐ近くにあるのが大阪活版所跡の碑。
活版印刷というのは活字を組み合わせて版を作り、印刷するやり方です。銀河鉄道の夜の冒頭で主人公ジョバンニが小さな箱に活字を拾って版を作るアルバイトをしているシーンがでてきますが、あれが活版です。
コンピュータで印刷するDTP時代となり活版印刷は、すっかり見なくなりました。活版の歴史は古く、764年に藤原仲麻呂の乱を平定した称徳天皇によって印刷された百万塔陀羅尼があります。時たま古書業界に出回っており、700万円ほどで買うことができます。ほぼ正倉院の時代のものですので安いものでしょう。(笑)
その後は木を削った木版印刷が主となりました。ところが天正遣欧少年使節の時にヨーロッパから活字と印刷機を持ってきて作られたキリシタン版などが登場します。イエズス会が発行した書物ですが、これは部数も少なく、天理図書館や上智大学などにあります。徳川家康も活版印刷をしており、これが駿河版。美術本として有名な本阿弥光悦の嵯峨本などはありましたが江戸時代は木版印刷が主流となります。
やがて明治となり活版印刷が復活します。まず長崎に新町活版所が作られますが、その後にできたのが大阪活版所。明治3年に五代友厚の懇望をうけ本木昌造が作りました。マイドーム大阪のすぐ近くにある地から大阪の近代印刷がスタートします。

神戸サンパルと「なでしこジャパン」との関係

サンパル
サンパル6階にある「ひょうご産業活性化センター」で窓口相談。
朝、エレベータに乗ろうとサンパル1階に入ると、フロアーにずらっとイスが並べられ、テレビのインタビューを受けている人がいました。「なんだ、なんだ、この騒動は!」と思ったら、イングランド戦を戦う「なでしこジャパン」の試合観戦のようです。サンパルと「なでしこジャパン」がどう関係するのかなと思ったら、サンパル近くがINAC神戸レオネッサ発祥の地なんだそうです。
INAC神戸レオネッサから「なでしこジャパン」には7名の代表選手が出ています。このINAC神戸の応援会長を務めるのがサンパルにある文具店店主。文具店というと1階の富士商会・店主ですかねえ。なんでもINAC神戸・創世記の事務所が、サンパル近くにあり、選手もよくサンパルに買物に来ていたそうです。その当時から応援していた歴史があるので長いですね。
港町神戸には明治初期、いち早く欧米からサッカーが伝わったこともあり、日本最初の女子チームが誕生したのが神戸。1981年、女子サッカーで国内初の国際試合(今回と同じ日本対イングランド戦)が開催されていたのも神戸なんだそうです。へ~え、サンパルは日本女子サッカーと深い縁があったんですねえ。

伊勢鳥羽志摩サミット

伊勢商工会議所
午後は伊勢商工会議所でIT窓口相談。
近鉄・宇治山田駅を降りると伊勢志摩サミット決定という看板がありましたが、伊勢商工会議所前にもありました。サミット会場となる賢島があるのは志摩市。
伊勢志摩サミットとなっていますが、伊勢市と志摩市の間には鳥羽市がありますので、本当は伊勢鳥羽志摩サミット(笑)。このままだと鳥羽市が埋没すると、東京で海女を描いたバスを走らせるなど鳥羽市では知名度アップに今からいろいろと仕掛けをしていくようです。
JR参宮線は鳥羽駅が終点。賢島へ行くには近鉄しかありませんが、鳥羽駅から先は基本的に単線。しかも普通と特急しかなく急行はありません。近鉄・特急は特急券がいるので普通に乗っていくと、なかなか鄙びいていて風情があります。
もともとは志摩電気鉄道というローカル線がスタートで、そこらへんに急勾配や急カーブがあり、特急もあんまりスピードが出ない路線になっています。特に鳥羽駅近くはなかなかすごいですね。そうそう九鬼水軍の居城だった鳥羽城のすぐ横を通っていきます。