岩田川の戦い

kitabatake201212.jpg

ウチの実家があるのが津市の岩田という土地。私が子供の時は弓屋敷と呼んでいたので江戸時代、藤堂藩の弓屋敷が並んでいたようです。伊勢は昔から南朝の牙城です。津市には垂れ梅で有名な結城神社があり、北畠親房と一緒に戦った結城宗広をまつっています。
津市の中心街を流れるのが岩田川。いたってふつうの川で海が近いため大潮には川の水位がかなり上がります。このへんてつもない川の名前をつけた「岩田川の戦い」というのがありました。戦いがあったのは室町時代。
長い間、南北朝に分かれて争っていましたが和解し、双方から順番に天皇になるという約束ができました。ところが足利幕府が約束を反故にしてしまいます。そこで伊勢国司北畠家の第3代当主だった北畠 満雅(きたばたけ みつまさ)が挙兵し、幕府軍とぶつかります。北畠満雅は津市の南にある雲出川において幕府軍を大敗させますが、その後、「岩田川での戦い」で敗れ、北畠満雅は戦死してしまいます。
当時、幕府は鎌倉公方足利持氏と争っていたこともあり北畠と和解。北畠の居城のあった美杉村は多気御所と呼ばれ栄華を誇りました。多気という名前がついていますがシャープの多気工場よりもはるかに山奥。当時は伊勢国と大和国を結ぶ初瀬街道沿いにある交通の要所でした。
繁栄した北畠家に隣の尾張から攻め込んできたのが織田信長。北畠は結局、信長に滅ぼされてしまいます。あまり知られていませんが北畠家の城主の妻が松永久秀の娘です。また大和の兵も多数派遣されていて信長の北畠家攻撃で全員玉砕してしまいます。翌年、松永久秀が織田信長を裏切り、信貴山城で名器・平蜘蛛茶釜と一緒に爆死しますが、こんなところに伏線があったんですね。
この岩田川周辺ではもう一度、大きな戦いがありました。関ヶ原の戦いの前哨戦となった安濃津城の戦いです。東軍についた富田氏を攻めるために西軍の毛利秀元・吉川広家・長束正家・安国寺恵瓊・長宗我部盛親・鍋島勝茂が3万の兵を率いて包囲。富田氏は西軍の猛攻を持ちこたえ結局、和睦に。西軍はこの後、関ヶ原に向かいます。

名古屋にある桑名、長島、伊勢

nagasima201212.jpg名古屋は城下町ですので中心街は碁盤の目になっています。その中に桑名町、長島町、伊勢町というお隣の三重の地名がついた町名があります。 

先日、鶴舞の古本屋で「花の名古屋の碁盤割」という本を買ってきたので、調べてみると、これらの町はもともと清州にありました。織田信長の息子である信雄は本能寺の変の後、伊勢を領有していましたが、その後、清州城主になったので引っ越し。この時、家臣の移転に商人もついてきたようです。 

藤堂高虎が伊予から伊勢の津へ国替えした時に伊予の商人が移り住んだ伊予町や松阪には日野から移った蒲生氏郷についてきた商人の町、日野町があります。城下町の多くには同様の事例があります。 

やがて家康が水害が多かった清州から名古屋へ住民ごと引っ越す、清州越しを行います。この時に住民と一緒に町の名前も移ってきました。同様にクリスマスイルミネーションが美しい名古屋の大津町は大津から移ってきた住民の町で、清州越しで移ってきました。伏見町は清州越しではなく、名古屋城ができてから伏見から移ってできた町です。 

名古屋のテレビ塔近くに武平町がありますが江戸時代に古墳が発見されました。壬申の乱で大海人皇子の元へ2万人の兵をひきつれた少子部連錯鉤。壬申の乱が終わった後に自殺した謎の人物です。古墳は江戸時代に埋め戻したそうで、名古屋の街中の地下に今も残っています。

飯田街道

iinan_kaido201111.jpg

名古屋は城下町なので基本的に碁盤の目になっているはずなんですが、ちょっと町中をはずれると微妙に曲がっている道ばかり、例えば道を間違えた時、左に4回まわっても同じ場所にはたどりつきません。(笑)
町中でも碁盤の目になっていないところがあり、中心部にある久屋大通から碁盤の目に斜めに走る道があります。これが飯田街道、徳川家康が作った尾張名古屋と信州飯田を結ぶ街道です。
飯田街道の起点は堀川にかかる伝馬橋。国際センターと丸の内の間で、ここから名古屋駅のツインタワーが見れます。伝馬橋から栄の繁華街までまっすぐ進むのですが、久屋大通から斜め45度に道が曲がります。この斜めの道が吹上を超えて八事の方まで続きます。碁盤の目の道に斜めの道が通るので、必然的に交差点では6つの道が交差。空港線や錦通など広い道路と交差すると信号が複雑怪奇なことになります。
飯田街道を歩いていて青になったので空港線の交差点を渡ろうとすると道路の真ん中に待避所があり、そこまでが青で、その先は赤、つまり待避所で待てということです。名古屋名物の100m道路でもない普通の道なのに、向こう側まで一発で渡れません。歩行者でこの騒ぎですから、車はもっと複雑怪奇な流れになります。6つの道の信号をコントルールしなければなりません。名古屋の道がわかりにくいのは、こういったことが原因するんですね。

若宮八幡社

wakamiya201211.jpg名古屋名物と言えば道路幅が100m以上もある100m道路。若宮大通と久屋大通の2本あります。 

名古屋市新事業支援センターが入っている吹上ホールの前を走っているのが若宮大通。一度の信号では対岸に渡れません。時々、ダッシュして渡る人を見かけます。この若宮大通の名前の由来になったのが若宮八幡社。 

めちゃくちゃ古い神社で、武内宿禰などを祭っています。もともとは那古野城(名古屋城)の近くにあったのですが家康が現在地に移して、名古屋総鎮守としました。つまり名古屋の守り神さんです。名古屋で仕事や住むなら熱田神宮と若宮八幡社ははずせませんね。 

昔、境内には200歳を超える狐夫婦が住んでいたそうです。この狐の家用に洞穴を用意して祠を建てたのが連理稲荷。2本の木の枝が連なる連理木があるそうで、縁結びのパワースポットになっています。

とりもも1本46円

tokyo201211.jpg明日、東京に用事があるので1日前から東京へ。 

まずは飯田橋の雑誌社へ寄って打ち合わせ。近くに神楽坂があったので喫茶店へ寄ってから飯田橋駅へ出て山手線へ。15時過ぎに代々木から恵比寿まで乗ったのですがラッシュ並みに混んでいました。なんでこんな昼中に混むんでしょうね。 

恵比寿で降りてAll Aboutへ。先日、担当編集者が変わったので仕事の打ち合わせなどをしておりました。 

恵比寿駅で待ち合わせてパソコン通信時代からの知り合いと宴会。Fchiken(知的生産の技術)フォーラムがNifty-Serveの中にあり、スタッフをしていましたので、その時からのおつきあいです。 

雨がけっこう降っていたので恵比寿駅すぐ近くにあった博多満月というお店へ「とりもも&ねぎま1本46円」は安いですねえ。東京へ来たので、ビールの後はホッピー。一杯目がなくなると「なか」と言って、焼酎を注文し、新しいホッピーを注ぎます。あとデンキブランがあったら頼むのですが博多満月には残念ながらありませんでした。

末広橋梁

yokkaiti201211.jpgJR四日市駅から少し歩くと末広橋梁があります。 

運河にかかる跳開式可動橋で、現役では日本最古の鉄道可動橋。作られたのは昭和6年ですので犬養毅内閣が成立した年になります。もちろん戦前です。運河を渡る鉄道で、列車が通行する時のみ降ろされます。 

可動橋は四日市港の太平洋セメントへセメントや土砂を運ぶ貨物列車が通り、1日に5回ほど貨物列車が行き来します。貨物列車が通るところを見られるとラッキーですね。中部国際空港建設時は土砂輸送で、けっこう頻繁に使われたようです。80年も前に作られた可動橋が今も現役で使われており重要文化財、近代化産業遺産に認定されています。 

セメントや土砂は三岐鉄道の東藤原からJR関西本線の富田経由で運ばれています。三岐鉄道と言えば、もともとはセメントを運ぶのが目的で作られた列車で、今も貨物輸送を行っています。 

旅客列車は昔、富田駅に到着し、近鉄に乗り換えるには近鉄富田駅まで歩かないといけませんでしたが、今は近鉄富田駅に結ぶ線が作られ、ホームでそのまま乗り換えられるようになっています。貨物列車は昔、同様に富田駅に着き、そこからJRの路線に入って運んでいます。 

斎宮

saiku201211.jpg午後、明和町の企業さんへ行く予定でしたので、近くの斎宮へ寄ってきました。 

伊勢神宮へお参りする人は多いのですが、途中にある斎宮へ足を延ばす人はほとんどおりません。隠れスポットで、あまり知られていませんが平城京跡なみのすごい史跡です。 

斎宮とは古代から南北朝時代まで続いた伊勢神宮に奉仕する斎王の御所。ここで520人ほどが働いていましたが、中心となるのが斎王。美内すずえさんの漫画「アマテラス」は倭姫をモチーフにしていますが、この倭姫が2代目斎王です。 

天皇が変わるたびに未婚の内親王または女王の中から斎王を選びます。まずは嵯峨野にある野宮(現在の野宮神社と言われています)で斎戒生活を送ってから伊勢へ向かいます。 

歴史にもたびたび斎王が登場しますが有名なのは斎王になった姉・大伯皇女に会いにきた大津皇子。大伯皇女が大津皇子を見送った歌が万葉集に残っています。「わが背子を 大和へ遣ると さ夜深けて 暁露に 吾が立ち濡れし」。この後、大津皇子は24歳の若さで処刑されてしまいます。 

斎宮の中央を農道(遊歩道)が走っているのですが、発掘の結果、この道が奈良時代から現代まで続く道であることが判明。奈良古道と呼ばれています。最近、各区画を分けている道の一部が復元されましたが、広いですねえ。この道のすぐわきで国内最古となる「いろは歌」の墨書土器が出土し話題となりました。 

残念なことに月曜ですので斎宮歴史博物館は閉まっていました。

世界の山ちゃん

yama201211.jpg津で建設業なんでも相談会を行ってから名古屋へ移動。 

名古屋名物「世界の山ちゃん」へ。名古屋はよく来ていますが、入ったのは初めてです。まずは生ビールを頼もうとしたら、メニューに銀河高原ビールがあるじゃないですかあ! 

地ビールブームの頃はいろんな店に置かれていたんですが、鮮度が短いので。最近、扱っている酒屋がほんとんどない中、なんと生ビールがありました。迷わず、大ジョッキーを注文。久しぶりの銀河高原ビールでした。おいしかった! 

ビールのあてには定番の幻の手羽先を頼みましたが、これはメニューにある通り辛いですねえ。個人的にはもうちょっとコショウ抑え目でもよさそうです。味噌カツやらなんやら頼んで純米酒まで飲んでいたので、けっこう会計は高め。名古屋への出張族などが狙えるので、この値付けのいいんでしょうね。

天平時代にもあったパワハラ

syousouin201211.jpg午後に仕事が終わったので正倉院展へ出かけてきました。奈良へ着いたのは夕方。 

正倉院展では閉館90分前からオータムレイトチケットという割引(1000円→700円)があります。この時間帯になると並ばずに会場へ入れ、会場内も人が少ないのでゆっくり見られます。もっとも目玉である瑠璃坏(コバルトブルーのグラス)には長い行列ができていました。 

今回はガラス玉とスゴロクなどの遊び道具の展示が多かったですね。白と黒の碁石も展示されていました。いつも楽しみにしている古文書が少なかったのが残念。 

古文書の中に天平時代のパワハラ文章がありました。主人公は角勝麻呂という人部。写経生でしたが仕事でミスをしたようで、上司や同僚から「宴を必ず設くべし」と迫られ、親族と思われる角恵麻呂が連帯保証しています。この念書が古文書として残りました。 

上司や同僚がミスを表沙汰にしない代わりに宴会を強要したようで、まさにパワハラ。本当に宴会を開いたかどうかは分かりませんが、後の古文書にも角勝麻呂が登場しますので、無事に切り抜けたようです。 

先日、「平城京に暮らす」(馬場 基著・吉川弘文館)を読んでいたら、この話が出ていて現物を見られたのはラッキーでした。 

「平城京に暮らす」によると、当時は役所でも酒が支給されたそうで、酒がほしいという木簡が残っています。それも「二升ばかり」や「一ニ升」とあり、二升ほしいと直接的に書かないところがいじましいですね。 

また腹痛など休暇願の木簡が残っていますが、中には図太いのもいて無断欠勤がけっこうあったようです。役所が無断欠勤者のリストを作って呼び出したりしています。呼び出しがあると別の理由をつけて、また休む厚かましいヤツもいて、いつの時代も変わりませんね。

船場総研 伊賀上野散策

igaueno201211.jpg船場勉強会という大阪を中心とした中小企業診断士の勉強会があります。もともとはNifty-ServeのFlic(資格フォーラム)にあったオフライン勉強会。ここのOB組織が船場総研です。試験合格後も勉強会へ出入りして、受験生の邪魔だということで邪魔しないように組織されたようです。(笑) 

船場総研では年に何回かビジネススクールのような勉強会を開催したり、商店街視察をしたりしているのですが、最近は蔵巡りなど遊びモードが中心になっています。 

一度は三重でやろうということで昨日は伊賀上野散策を行いました。伊賀上野は仕事でよく行っているので新鮮味はないですね。(笑) 

お昼は伊賀上野名物の田楽を食べに、田楽座わかやへ。炭焼きの田楽で有名なお店で、平日は少し待てば入れますが、さすがに祝日は超満員。20分ほど待って、おいしくいただきました。昼食の後は、鍵屋の辻(ここは知られていないのか観光客は一人だけ)~崇廣堂(藩校)~伊賀上野城~忍者屋敷を巡ってきました。伊賀上野城や忍者屋敷は観光客が多かったですね。 

夕方になったので上野市駅から少し歩いたところにある養老の滝へ。伊賀上野で居酒屋ってあまり見たことなかったので事前に調べ、伊賀の人に聞いたのですが上野市駅周辺に居酒屋は皆無。少し離れたところにポツン、ポツンとあるぐらい。地元の人は居酒屋はロードサイト店に送迎付きで行くそうです。帰り際にちょっと一杯行こか、はいいけど、行く店がないのは困るなあ。