商売繁盛で笹もってこい

nukata201201.jpg本日は本エビス。

家から歩いてすぐの所にある額田戎神社へ行ってきました。いつもは閑散とした神社なんですが、この3日間だけは参拝客で賑やかです。地元の戎神社ですので、今宮さんほど混雑することもなく地元の商工業者がお参りしているだけです。

戎神社にはイザナギ、イザナミの子である蛭子命(ひるこのみこと)を祭る神社と大国主命(大黒さん)の子である事代主神(ことし
ろぬしかみ)を祭る神社があり、西宮は蛭子命を、今宮戎神社は事代主神を祭っているそうです。額田戎神社の由来を見ると、事代主命を祭っているそうで、夢
のお告げで西宮のえべっさんを勧請したということなんですが、なんで事代主命なんかなあ。江戸時代にも夷大明神と記録があるので、地元にずっとあった戎神
社のようです。

えべっさんは元々は漂流神で、海水で中耳炎になり耳が遠くなったそうです。ですので本殿でお参りした後、本殿の裏にまわって木戸をたたき再度、お願いをします。(今宮では木戸でなくドラになっています)

縁起物を買って帰ってきました。また1年間、がんばろう!

清盛楠

kiyomori201201.jpg清盛楠。何回も外宮へ行っていますが、こんなものがあるとは知りませんでした。場所は表参道の火除橋を渡った手水舎の反対側。

平清盛が勅使として伊勢神宮へ来た時、冠に当たった枝を切らせたという逸話があるそうです。ですが何の案内もないので、調べていかないと分かりませんね。

大河ドラマは「平清盛」なので、どこかで紹介されるかもしれませんね。平清盛のお父さんは平忠盛ですが生まれたのは津市で、津の産品に忠盛塚が
残っています。この地域には殿村という名前がありますので伊勢平氏の本拠だったのでしょうね。伊勢平氏の強みは伊勢の海運だったので神戸の湊や瀬戸内海航
路の開発につながったのでしょうね。

奈良の正月

nara20120103.jpg1月2日&3日と奥さんの実家の奈良へ。最近は興福寺近くの飛鳥荘に泊まり、親戚が集まるスタイルになっています。

まずは春日大社へ初詣。奈良駅からずっと人の列が続き、神社の境内にはずらっと屋台が並んでいます。去年は入口階段で入場制限していたのですが、今年は入場制限なく、そのまま入れました。やっぱり境内は人でごった返していました。

飛鳥荘にそうそうに戻り、16時から大浴場に入れるので、さすがにこの時間から入っているお客はいませんでした。(笑)広々としたお風呂でのびの
びと。夜は露天風呂へ。飛鳥荘の目の前が興福寺の五重塔なので、露天風呂からライトアップされている五重塔が目の前に見れます。なかなか幻想的。食事は正
月仕様になっていて、なかなか華やかなんですが量が多かったですね。

朝は夜明け前の興福寺に行ってきました。南円堂は7時前からお参りする人が多いんですね。お坊さんの般若心経の声が響いていました。高校ラグビー
チームが奈良のいろいろな宿舎で合宿していますが、南円堂に30名ほどがお参りしていました。今日にでも花園で試合があるのでしょう。

枚岡神社初詣

hiraoka20130101.jpg今年は津へ帰省せず東大阪で年越し。紅白歌合戦が終わってから河内一ノ宮である枚岡神社へ出かけてきました。東大阪に住んで正月にお参りするのは初めてで
すね。境内は祭り並みにすごい人でした。いつもは閑散としている境内ですが屋台も出ていました。歩いていると除夜の鐘がいろいろなところから聞こえるのが
いいですね。

境内の端に列があったので並んでいるとこれがお神酒をもらうための列、並んでいると杯が配られ、お神酒をいただきました。杯は持ち帰りができるんですね。

枚岡神社の本殿には石段を上がるのですが、参拝者が多いので入場制限しながらのお参りでした。上のお守り売り場もすごい人でした。子供のお守りを買って初詣は終了。さて、今年はどんな年になるのでしょうか。

初詣準備中の伊勢神宮

ise20111221.jpg今日はずっと伊勢の企業さんへ行っておりました。

早めに伊勢に出かけて早朝の外宮へ。外宮参道には献燈や奉祝と書かれた提灯がかかっており、初詣準備が進んでいます。伊勢神宮入口の勾玉池に建設
中のせんぐう館は外観が出来上がっていて、初詣期間中は休憩所だけ先行開放されるそうです。せんぐう館が出来るので衛士見張所が火除橋の反対側に新築され
て移っていました。

御正殿への参拝出入りはいつもは一箇所ですが、初詣ではすごい参拝客になりますので1ウェイになるように出口を作っている最中。お参りして多賀宮(荒魂)をまわって外宮前のバス停に行くと、ここも内宮行きのシャトルバス乗場作りをしていました。

今年もいよいよ押し詰まってきましたね。

伊賀国庁跡

iga201112.jpgJR関西線に乗って佐那具駅へ。伊賀の企業さんを回ってきました。

佐那具駅の近くにあるのが古代伊賀国府の国庁跡。木津川の支流の一つである柘植川のすぐ近くの丘の上にあります。あるのは知っていたのですが、
JRを待つ時間にちょっと行ってきました。と言っても何もない田んぼで、近くに説明板が一つあるだけです。関西線のすぐそばで小高い丘になっていて眺めが
よいところです。

壬申の乱の時、大海人皇子が吉野を出て名張から今の伊賀神戸に入り、北上して伊賀国分寺、敢國神社を通って山にぶつかるところにあるのが伊賀国庁。ここから東に入り関経由で桑名へ向かいました。

地元でも知られていない河内寺(東大阪)

河内寺
大阪市内から東大阪に移り住んで20年。住んでいる一体は枚岡ですが、もう少しせばめると額田という土地です。渡来人の古代豪族、額田首が住んでいたあたりで額田王はこのあたりの出身ではと言われています。
少し北へ行くと日下(くさか)があり、昔はここまで河内湖になっていて楯津という港がありました。神武天皇が奈良へ攻めいって長髄彦(ながすねひこ)に敗退し、日に向かって攻撃したから負けたんだとと言って熊野へ回り込みます。
河内寺
南北朝の戦いでは四條畷の合戦がありましたが、楠木正行(正成の子供)の本陣がおかれていたあたりになります。大坂・夏の陣では家康の本陣がおかれていました。今は公園になっていて牌だけが建っています。
そんな歴史深い土地なんですが、こないだ郷土の歴史をいろいろと見ていたら、すぐ近くに河内寺という寺院があったそうです。飛鳥時代後半に創建さ
れた古代寺院で、古代の河内を支配した一族河内連(むらじ)の氏寺です。四天王寺形式で塔や金堂が建ち並び、回廊がめぐっていました。鎌倉時代まで残って
いましたが、どうも土石流で埋もれてしまったようです。水害があったんでしょうね。2008年に国史跡に指定されていますが、地元でもほとんど知られてい
ない幻の寺なんだそうです。
いやあ、20年間ほど住んでいますが、そんな寺があったとは全然知りませんでした。天智天皇のとき、河内直鯨(かわちのあたい・くじら)が、遣唐使として派遣されています。
お酒のストックがなくなったので地酒屋さんに行く途中に河内寺跡に寄ってきました。場所は瓢箪山駅を出た近鉄電車が生駒山(奈良)へ向かって坂を
登りながら左へカーブするところです。一体は埋め戻されてフェンスに囲まれた空き地になっていました。河内寺跡などの看板はどこにもなく、そら地元の人間
でも分かりませんは!なにもない空き地で写真を撮っていたら、絶対に不動屋さんの間違えられますなあ。

いしきりんの日

isikiri201111.jpg家の近くに石切さんがあります。

正式名称は石切劔箭神社(いしきりつるぎやじんじゃ)で、剣の文字が入っていることからデンボ(オデキ)の神様として有名です。平日でも境内でお百度を踏んでいる人が多く、今日は日曜ということもあり50人ほどがグルグルお百度を踏んでいました。

石切神社の祭神は饒速日尊(にぎはやひのみこと)。神武天皇よりも先にヤマトに降臨し、神武天皇を迎え入れた神様で日本書紀や古事記に登場しまISIKIRI2011111.jpgす。物部氏の先祖にあたります。東大阪、八尾の河内は古くから物部氏の拠点になっていて八尾には物部守屋の墓もあります。

石切さんから近鉄石切駅に向かって細い上り道の参道になっていて商店街になっています。たこ焼き屋やら八百屋などいろいろあるのですが、多いのが占いの館。陰陽道占いからタロット占いまで何でもあります。中には1ケ所に10ほどの占いコーナーが集まった一角もあります。

参道を歩いていると修験道の行者が法螺貝を吹いていました。なかなかディープなパワスポットです。この商店街のゆるキャラが「いしきりん」。金~日は「いしきりんの日」だということで参道を歩いていないかなと出かけてきました。

他のゆるキャラが応援に来ていて参道を歩いていたのが「えべっちゃん」〔兵庫県三田市)、「たいしくん」(大阪府太子町)、「キララちゃん」(京
都府京田辺市)、「やちにゃん」(滋賀県・彦根市)でお目当ての「いしきりん」はいませんでした。しょうがないので焼き鳥とビールを飲んで帰ってきまし
た。

織田信長が切り取った蘭奢待

syousou2011112.jpg正倉院展へ行ってきました。

土曜日の昼中はとんでもなく混雑していますので、閉館1時間半前から入れるオータムレイトチケット(割引チケット)を買って入館しました。

すっかり日が暮れた興福寺と春日神社の参道を通って奈良国立博物館前へ。少し切符売り場で並んでオータムレイトチケットを買い博物館入口へ。列は100メートルほどで、すんなり入れました。中はまだ混雑していましたが終了30分前になるとガラガラです。

入口近くにあった蘭奢待をじっくり見ておりました。蘭奢待とは香木で正倉院に伝わっています。蘭奢待の文字の中に”東・大・寺”が入っています。
この香木、天下を取った権力者が切り取ることで有名です。蘭奢待には3つの白い紙が貼られていて、足利義政、織田信長、明治天皇が切り取ったあとと書かれ
ていました。明治天皇まで切り取っていたんですね。しかも織田信長よりも大きく切り取っています。

以前、新聞に東大寺の大仏足元から明治時代に見つかった刀が1250年間行方不明だった宝剣「陽宝剣」「陰宝剣」とエックス線調査で分かったと報
道されましたが、光明皇后が献納したもので刀の名前が印された国家珍宝帳も出展されていました。いつもに比べると古文書の出展が少なかったですね、天平時
代の欠勤願いなど楽しみにしていたんですが。

写真は猿沢の池から見た夕焼けです。

四日市陣屋・伊勢暴動

四日市陣屋
今日の午後は四日市商工会議所で窓口相談
昼休みに近くにある四日市陣屋を見てきました。といっても小学校跡になっていて説明板があるだけで何も残っていません。四日市は徳川藩の天領で、天領を管理するために作られたのが陣屋です。
陣屋は東海道のすぐ近くにあります。初代代官は水谷光勝で、1600年に任じられていますので関ヶ原の合戦の年ですね。陣屋ができたのは3年後です。周囲には堀が掘られ土塁が築かれていました。
明治維新後は一時期、三重県庁がおかれていましたが明治9年の伊勢暴動で焼きうちにあい焼失してしまいました。伊勢暴動とは財政の安定を図るために明治政府が行った地租改正事業で、土地に対して3%増税になる施策です。
米価が下がって大変だった農民が何とかしてほしいと嘆願書を県の役人に出しましたが、無視。善後策をねろうと農民が集まり、結局これが暴動へ発展して三重県中にひろがり、軍隊が出動する事態になりました。この騒ぎの影響もあり税率は3%から2.5%へ下げられました。
四日市は楠町と合併して30万人都市になりましたので事業所税があらたに各事業所に発生します。三重県では初めての事態です。合併特例で5年間の猶予がありますが、これがいよいよ切れますので増税になります。
「なんで四日市は合併なんかしたんや!」という四日市の事業者の声をよく聞くようになりましたが、また伊勢暴動が起きなければよいのですが