枚岡神社初詣

hiraoka20130101.jpg今年は津へ帰省せず東大阪で年越し。紅白歌合戦が終わってから河内一ノ宮である枚岡神社へ出かけてきました。東大阪に住んで正月にお参りするのは初めてで
すね。境内は祭り並みにすごい人でした。いつもは閑散としている境内ですが屋台も出ていました。歩いていると除夜の鐘がいろいろなところから聞こえるのが
いいですね。

境内の端に列があったので並んでいるとこれがお神酒をもらうための列、並んでいると杯が配られ、お神酒をいただきました。杯は持ち帰りができるんですね。

枚岡神社の本殿には石段を上がるのですが、参拝者が多いので入場制限しながらのお参りでした。上のお守り売り場もすごい人でした。子供のお守りを買って初詣は終了。さて、今年はどんな年になるのでしょうか。

初詣準備中の伊勢神宮

ise20111221.jpg今日はずっと伊勢の企業さんへ行っておりました。

早めに伊勢に出かけて早朝の外宮へ。外宮参道には献燈や奉祝と書かれた提灯がかかっており、初詣準備が進んでいます。伊勢神宮入口の勾玉池に建設
中のせんぐう館は外観が出来上がっていて、初詣期間中は休憩所だけ先行開放されるそうです。せんぐう館が出来るので衛士見張所が火除橋の反対側に新築され
て移っていました。

御正殿への参拝出入りはいつもは一箇所ですが、初詣ではすごい参拝客になりますので1ウェイになるように出口を作っている最中。お参りして多賀宮(荒魂)をまわって外宮前のバス停に行くと、ここも内宮行きのシャトルバス乗場作りをしていました。

今年もいよいよ押し詰まってきましたね。

伊賀国庁跡

iga201112.jpgJR関西線に乗って佐那具駅へ。伊賀の企業さんを回ってきました。

佐那具駅の近くにあるのが古代伊賀国府の国庁跡。木津川の支流の一つである柘植川のすぐ近くの丘の上にあります。あるのは知っていたのですが、
JRを待つ時間にちょっと行ってきました。と言っても何もない田んぼで、近くに説明板が一つあるだけです。関西線のすぐそばで小高い丘になっていて眺めが
よいところです。

壬申の乱の時、大海人皇子が吉野を出て名張から今の伊賀神戸に入り、北上して伊賀国分寺、敢國神社を通って山にぶつかるところにあるのが伊賀国庁。ここから東に入り関経由で桑名へ向かいました。

地元でも知られていない河内寺(東大阪)

河内寺
大阪市内から東大阪に移り住んで20年。住んでいる一体は枚岡ですが、もう少しせばめると額田という土地です。渡来人の古代豪族、額田首が住んでいたあたりで額田王はこのあたりの出身ではと言われています。
少し北へ行くと日下(くさか)があり、昔はここまで河内湖になっていて楯津という港がありました。神武天皇が奈良へ攻めいって長髄彦(ながすねひこ)に敗退し、日に向かって攻撃したから負けたんだとと言って熊野へ回り込みます。
河内寺
南北朝の戦いでは四條畷の合戦がありましたが、楠木正行(正成の子供)の本陣がおかれていたあたりになります。大坂・夏の陣では家康の本陣がおかれていました。今は公園になっていて牌だけが建っています。
そんな歴史深い土地なんですが、こないだ郷土の歴史をいろいろと見ていたら、すぐ近くに河内寺という寺院があったそうです。飛鳥時代後半に創建さ
れた古代寺院で、古代の河内を支配した一族河内連(むらじ)の氏寺です。四天王寺形式で塔や金堂が建ち並び、回廊がめぐっていました。鎌倉時代まで残って
いましたが、どうも土石流で埋もれてしまったようです。水害があったんでしょうね。2008年に国史跡に指定されていますが、地元でもほとんど知られてい
ない幻の寺なんだそうです。
いやあ、20年間ほど住んでいますが、そんな寺があったとは全然知りませんでした。天智天皇のとき、河内直鯨(かわちのあたい・くじら)が、遣唐使として派遣されています。
お酒のストックがなくなったので地酒屋さんに行く途中に河内寺跡に寄ってきました。場所は瓢箪山駅を出た近鉄電車が生駒山(奈良)へ向かって坂を
登りながら左へカーブするところです。一体は埋め戻されてフェンスに囲まれた空き地になっていました。河内寺跡などの看板はどこにもなく、そら地元の人間
でも分かりませんは!なにもない空き地で写真を撮っていたら、絶対に不動屋さんの間違えられますなあ。

いしきりんの日

isikiri201111.jpg家の近くに石切さんがあります。

正式名称は石切劔箭神社(いしきりつるぎやじんじゃ)で、剣の文字が入っていることからデンボ(オデキ)の神様として有名です。平日でも境内でお百度を踏んでいる人が多く、今日は日曜ということもあり50人ほどがグルグルお百度を踏んでいました。

石切神社の祭神は饒速日尊(にぎはやひのみこと)。神武天皇よりも先にヤマトに降臨し、神武天皇を迎え入れた神様で日本書紀や古事記に登場しまISIKIRI2011111.jpgす。物部氏の先祖にあたります。東大阪、八尾の河内は古くから物部氏の拠点になっていて八尾には物部守屋の墓もあります。

石切さんから近鉄石切駅に向かって細い上り道の参道になっていて商店街になっています。たこ焼き屋やら八百屋などいろいろあるのですが、多いのが占いの館。陰陽道占いからタロット占いまで何でもあります。中には1ケ所に10ほどの占いコーナーが集まった一角もあります。

参道を歩いていると修験道の行者が法螺貝を吹いていました。なかなかディープなパワスポットです。この商店街のゆるキャラが「いしきりん」。金~日は「いしきりんの日」だということで参道を歩いていないかなと出かけてきました。

他のゆるキャラが応援に来ていて参道を歩いていたのが「えべっちゃん」〔兵庫県三田市)、「たいしくん」(大阪府太子町)、「キララちゃん」(京
都府京田辺市)、「やちにゃん」(滋賀県・彦根市)でお目当ての「いしきりん」はいませんでした。しょうがないので焼き鳥とビールを飲んで帰ってきまし
た。

織田信長が切り取った蘭奢待

syousou2011112.jpg正倉院展へ行ってきました。

土曜日の昼中はとんでもなく混雑していますので、閉館1時間半前から入れるオータムレイトチケット(割引チケット)を買って入館しました。

すっかり日が暮れた興福寺と春日神社の参道を通って奈良国立博物館前へ。少し切符売り場で並んでオータムレイトチケットを買い博物館入口へ。列は100メートルほどで、すんなり入れました。中はまだ混雑していましたが終了30分前になるとガラガラです。

入口近くにあった蘭奢待をじっくり見ておりました。蘭奢待とは香木で正倉院に伝わっています。蘭奢待の文字の中に”東・大・寺”が入っています。
この香木、天下を取った権力者が切り取ることで有名です。蘭奢待には3つの白い紙が貼られていて、足利義政、織田信長、明治天皇が切り取ったあとと書かれ
ていました。明治天皇まで切り取っていたんですね。しかも織田信長よりも大きく切り取っています。

以前、新聞に東大寺の大仏足元から明治時代に見つかった刀が1250年間行方不明だった宝剣「陽宝剣」「陰宝剣」とエックス線調査で分かったと報
道されましたが、光明皇后が献納したもので刀の名前が印された国家珍宝帳も出展されていました。いつもに比べると古文書の出展が少なかったですね、天平時
代の欠勤願いなど楽しみにしていたんですが。

写真は猿沢の池から見た夕焼けです。

四日市陣屋・伊勢暴動

四日市陣屋
今日の午後は四日市商工会議所で窓口相談
昼休みに近くにある四日市陣屋を見てきました。といっても小学校跡になっていて説明板があるだけで何も残っていません。四日市は徳川藩の天領で、天領を管理するために作られたのが陣屋です。
陣屋は東海道のすぐ近くにあります。初代代官は水谷光勝で、1600年に任じられていますので関ヶ原の合戦の年ですね。陣屋ができたのは3年後です。周囲には堀が掘られ土塁が築かれていました。
明治維新後は一時期、三重県庁がおかれていましたが明治9年の伊勢暴動で焼きうちにあい焼失してしまいました。伊勢暴動とは財政の安定を図るために明治政府が行った地租改正事業で、土地に対して3%増税になる施策です。
米価が下がって大変だった農民が何とかしてほしいと嘆願書を県の役人に出しましたが、無視。善後策をねろうと農民が集まり、結局これが暴動へ発展して三重県中にひろがり、軍隊が出動する事態になりました。この騒ぎの影響もあり税率は3%から2.5%へ下げられました。
四日市は楠町と合併して30万人都市になりましたので事業所税があらたに各事業所に発生します。三重県では初めての事態です。合併特例で5年間の猶予がありますが、これがいよいよ切れますので増税になります。
「なんで四日市は合併なんかしたんや!」という四日市の事業者の声をよく聞くようになりましたが、また伊勢暴動が起きなければよいのですが

津の古地図

津
冊子「古地図に見る津城下の変遷」を手に入れました。
書店には置いておらず津城横にあり藤堂高虎を祀った高山神社(こうざんじんじゃ)でのみ売っています。
古くからの津の古地図が収録されていて津の城下がどう変遷したかが分かる冊子です。一番古い地図は寛永中期(1630年)頃のものです。1600年の関ヶ原の戦い、1615年の大阪夏の陣が終わって、島原の乱が起きる前です。こないだ「こんなに変わった歴史教科書」を読んだら、今では島原の乱と教えておらず平成の教科書では「天草・島原の一揆」と言っているそうです。
古地図の津城を見ると本丸から西の丸(左側)と東の丸(右側)が出ているのですが、当時は東の丸から橋が出ていなかったんですね。藤堂高虎が築城していましたが大阪の陣が終わってしまったので東の丸は簡素なままになりました。
実家近くに伊予町と呼ばれる町があるのですが国替えとなった藤堂高虎に従って伊予から移ってきた人が住んだところです。ここには寺がいくつかあるのですが、この寺も伊予から移ってきたんですねえ。知らなかった!

長岡京ってめちゃくちゃ大きかったんですね

nagaoka201111.jpg午前中は京都の企業さんの経営相談へ、昼から時間があいたので長岡京へ行ってきました。

長岡京は陰陽師・安倍晴明でよく舞台になるところです。安倍晴明の相手役である早良親王が怨霊になった都で早良親王は謀反の疑いをかけられ配流さ
れる途中で自殺。その後、いろいろな変事が起きるようになり早良親王の祟りと大騒ぎになりました。上御霊神社などに祭られています。

長岡京は短命な都だったと歴史で勉強しましたが実に広大だったんですね。ずっと阪急長岡天神駅の周辺にあるものだと思っていたら大極殿は阪急西向日駅近くにありました。長岡って名前がついていませんがなあ!

大極殿跡の公園に都の様子が書かれた想像図がありましたが、羅生門の向こうはは石清水八幡宮。阪急で言えば、東向日駅、西向日駅、長岡天神駅、大
山崎駅と4駅にまたがる広大な都でした。大極殿跡には元日、7本ののぼり旗を建てた跡が残っていて復元されていました。少し離れたところには築地跡や朝堂
院跡、楼閣跡などもありました。なぜ10年という短い期間で平安京に遷都となったのか、いまだに分からないそうです。

長浜へ

201110nagahama.jpg長浜で行われている「びわ湖環境ビジネスメッセ」を見てきました。場所は米原から北陸本線に入って2駅目の田村駅。大阪から新快速で行きましたが遠かった!野洲までは本数が多いのですが、その先は本数が減り1時間に2本になります。

田村駅は何もないひなびた駅なんですが、今日は見本市が行われているのでビジネスマンが大量に降り、一つしかない改札は大混雑。田村駅からはヤマ
トタケルが毒にあてられた伊吹山がすぐそばに見えます。駅のすぐ近くにあるのが長浜ドームで、「びわ湖環境ビジネスメッセ」の会場です。ドーム内はけっこ
うな人出でした。

帰りに長浜ドームのすぐ近くにある長浜バイオ大学へ寄ってきました。日本でただ一つのバイオ系単科大学で「びわ湖環境ビジネスメッセ」のセミナー
会場にもなっています。この大学は以前に勤務していた関西文理学園が宝バイオさんと一緒に作った大学です。大学事務室に寄ると懐かしい面々がまだまだ残っ
ておりました。