鉄砲の里 国友

昨日、NHKを見ていたら「山城トレッキング」の再放送をやっていて春風亭昇太が小谷城を登っていました。こんな山城を登るだけの番組があるんだあ。これからのバズワードはDXじゃなくって山城ですね(笑)

国友
国友

小谷城の近くにあるのが国友。戦国時代から江戸時代へ続く鉄砲の里です。

■鉄砲工房「国友」
国友は刀鍛冶の村でしたが1544年、将軍・足利義晴より見本の銃を示され作ったのが鉄砲製造の始まりと言われています。信長が10歳の時で、翌年に浅井長政が生まれます。大河ドラマ「麒麟がくる」でも将軍が鉄砲作りを命じた設定になっていましたが、1544年は種子島へ鉄砲が伝来した翌年ですから時期的に早く、最近の説では、地元を治めていた浅井長政が国友で鉄砲を作らせたようです。

国友は小谷城から近く、可能性が高いですね。そうそう「麒麟がくる」では齋藤道三の命をうけた明智光秀が伊平次という腕利きの鉄砲鍛冶を国友で探しておりました。

1549年には織田信長が500挺もの鉄砲を発注したという記録がありますが、これもどうですかねえ。ちょっと不思議なのが浅井長政が鉄砲を戦略物資として他の大名に流れるのを止めなかったことです。信長なんか堺をおさえ当時、輸入に頼っていた鉛(鉄砲の玉)と火薬を作る硝石を武田勝頼側に流れないように経済封鎖していました。武田も鉄砲を持っていましたが、玉と火薬不足でうまく運用できませんでした。

和邇駅

近江の渡来人といえば和邇氏がいます。強風でよく止まる湖西線に和邇(わに)駅があります。大津市の北側です。

和邇駅
和邇駅

古代、和邇氏の拠点でした。和邇氏は渡来人といわれ奈良の東北部を基盤にしていました。現在も天理市に和爾町という地名が残っています。和邇氏は6世紀頃に春日氏、小野氏、粟田氏、柿本氏、大宅氏、櫟井氏に分かれます。和邇氏は琵琶湖の物流をおさえていたため湖西線には和邇駅の隣に小野駅が残っています。小野といえば遣隋使で有名な小野妹子は小野駅周辺を地盤とした豪族でした。

春日神社の地は本来、春日氏の氏神だった榎本神社があったのですが藤原氏に乗っ取られてしまい春日神社の摂社になってしまいました。

穴太野添古墳群

穴太野添古墳群
穴太野添古墳群

壺笠山城へ行くには穴太野添古墳群の横を通っていきます。穴太野添古墳群は琵琶湖を見下ろす高台にあり眺めは抜群。このあたりに180基以上あります。古墳からはドーム状の天井をもつ形態の石室やミニチュア炊飯具(カマド・カマ・コシキ・ナベ)の副葬品などが見つかっており渡来人の墓といわれています。

■日本への亡命者が多かった
渡来人の来訪で多かったのが白村江の戦いの後。百済から多くの渡来人が亡命してきました。日本書紀に「鬼室集斯ら男女7百余人を近江国蒲生郡に遷居」とあり、蒲生に渡来人の一団がいました。鬼室集斯は白村江の戦いで活躍した百済の将軍、鬼室福信の子で,近江朝廷では学識頭になっています。東京の狛江市なども高麗からの渡来人が集団移転したのがきっかけです。南宋が滅んだ時も亡命者がたくさんいました

■渡辺党
天満近くの大川近辺に住んでいたのが新羅系渡来人のツゲ氏で、このツゲ氏が平安時代後期に「渡辺」と名前を変え、摂津の武士団である「渡辺党」となります。茨木童子で有名な渡辺綱も渡辺党です。豊臣秀吉が大坂築城に当たり替地を命ぜられ大川から移転。この時に氏神だった坐摩(いかすり)神社も移転しました。

米原湊

JR米原駅は琵琶湖からかなり離れた位置にありますが、駅にあるのが米原湊の碑。”なんでこんな内陸部に港が”と思いますが昭和初期まで米原駅西側には入江内湖が拡がっていました。昭和19年から昭和25年にかけて干拓が行われ今のような田園地域になりました。

米原湊
米原湊

古代から戦国時代にかけては朝妻湊が使われていました。入江内湖の北側にあり琵琶湖に面しています。船運が現在の高速道路のようなものでしたから北陸方面からの物資は塩津、海津、今津から坂本、大津へと運ばれ尾張や美濃からの荷物は米原にある朝妻湊が使われました。木曽義仲の出陣でも秀吉が京の大仏殿建立のための木材運搬に使われています。

しかし江戸時代に入り彦根藩主となった井伊氏が米原湊を御用港として保護し、湖上交通が制限され朝妻湊は衰退していきます。

石田三成の生誕地

大谷吉継の盟友といえば石田三成です。大河ドラマ「真田丸」では山本耕史が演じていました。

石田三成の生誕地
石田三成の生誕地

生まれたのは近江国坂田郡石田村。横山城の麓にあり三成が小坊主だった時、秀吉に温度が違うお茶を三回出した寺も近くにあります。勝者が徳川家康になったため、悪役として歴史に描かれていますが実像はどんな人物だったんでしょうかねえ。秀吉の汚れ役を引き受けていたため武断派からは嫌われていましたが清廉潔白で経理もやっていたので、けっこう細かい性格だったのでしょう。友人にするのはちょっと、という人物だったかもしれません。関ケ原の戦いの後、三成の佐和山城を接収した時にあまりに質素だったことに東軍側が驚きました。

徳川家康は関ケ原の戦いの後、実質的に武家の棟梁と認められますので転換点となりました。石田三成は徳川家の敵ですが主君のために戦った点は評価されており、子孫は生き延びて、なかには大名になっているものもいます。

長法寺跡

打下城から尾根道を下ると琵琶湖を一望できる別の丘陵があり、ここにあったのが山岳寺院・長法寺跡。昭和31年に地元の高島高校・歴史研究部によって再発見されました。寺の最古の記録が1205年(元久2年)に出てきますので鎌倉時代ですね。

長法寺跡
長法寺跡

鎌倉、室町と続き織田信長の焼き討ちで長法寺は廃絶したと伝わっていますが焼き討ちされた跡などは見つかっていません。ただ戦国時代頃には寺は廃絶し、その後は再発見されるまで山の中に眠っていたようです。

長法寺跡は整備されており広大な敷地にたくさんの坊跡が残っています。また石垣は自然石を積み上げた野面積の石垣が多様されています。こういった寺院の石垣技術が戦国時代の城郭に取り入れられていきます。それにしても山の上にこんな広大な寺をよく作ったものです。

穴太衆

壺笠山城の入口にあるのが坂本・穴太。

穴太
穴太

この地域のテクノクラートが穴太衆です。今でいえばAI技術者やデータサイエンティストといったところでしょうか。野面積とも穴太積とも呼ばれる自然石を使った石垣を造る技術があり、寺院などで用いられていました。

戦国時代になって城造りにこの技術が生かされることになります。六角氏の観音寺城や三好長慶の飯盛山城などには今でも見事な石垣が残っています。織田信長は小牧山城で石垣の城を実現しています。

織田信長や豊臣秀吉らの城郭構築に携わることで、江戸時代初頭までに多くの城の石垣が穴太衆の指揮のもとで造られました。秀吉や家康は各地域から大名を集めて天下普請などを行い、これで石垣造りを含めた技術移転が行われたようです。

飛び出し坊や

近江の山城に登ろうと街中を歩くと必ず目にするのが「飛び出し坊や」。ドライバーに飛び出しを注意喚起するためのもので元々は八日市市(現在の東近江市)で生まれました。八日市といえば天秤棒一本で全国を巡った近江商人の故郷です。

飛び出し坊や
飛び出し坊や

これが全国に拡がりましたが、設置数ナンバーワンといえば滋賀県でしょう。県内のいたることろで見ますが、いろいろとバリエーションがあり安土にあったのが信長バージョンでした。ストラップやクリアファイルなどのいろいろなグッズも売られています。版権はどこが持っているんだろう。

建部大社

近江国の一宮といえば瀬田にある建部神社です。境内に茅の輪があったので、くぐりぬけてきました。

建部大社
建部大社

祭神は日本武尊(ヤマトタケル)で境内にはイケメンのヤマトタケルがパネルで展示されていました。日本武尊は亀山の能褒野で亡くなりましが、妃が住んでいた場所に日本武尊を「建部大神」として祀り、建部という地名がつけられました。もっとも、なんで建部大神なんて名前をつけたんですかねえ。ひょっとすると地名の方が先だったかもしれません。

祀られた場所は神崎郡建部で、現在の八日市駅から愛知川の間あたりにありました。白鳳4年(675)に瀬田の地に移ります。神社のあるあたりは神領という地名になっています。

源頼朝が伊豆に流される途中、建部神社に立ち寄り祈願しました。30年が経過し平家を滅ぼして源氏の再興がなります。上洛する途中に大願成就のお礼に建部神社を訪れています。ですので建部神社は出世開運の神様になっています。

都から東に向かう東山道の街道筋で、少し東に行った「鏡の宿」には源義経の元服した場所や平宗盛、清宗父子が切られた平家終焉の地もあります。

瀬田の唐橋

琵琶湖から唯一流れ出るのが瀬田川で、この瀬田川にかかるのが瀬田の唐橋です。京都人と言い争いになった滋賀人の決め台詞が「琵琶湖の水、止めたろか」という一言。以前に瀬田川を止めたシミュレーションが行われ、結果、大津などが水没してしまいました(笑)。

瀬田の唐橋
瀬田の唐橋

瀬田川を超えると京都まで一気に攻め込めますので、古代からこの瀬田川が攻防戦の舞台となりました。壬申の乱では、大友皇子と大海人皇子の最後の決戦場となり、瀬田川を突破された大友皇子は自刃することになります。

藤原仲麻呂の乱では朝廷軍が先回りし、瀬田の唐橋を焼いてしまったため藤原仲麻呂(恵美押勝)は湖西を北上することになり三尾城で破れてしまいます。

本能寺の変の後、安土城に向かう明智光秀を足止めするために山岡景隆が瀬田の唐橋と川のほとりにあった瀬田城を焼いてしまったため明智光秀が仮橋を架けるのに3日を要しました。