在土八幡神社

藤堂高虎の出生地にあるのが八幡神社。藤堂家の先祖が石清水八幡宮から分祠して建立しました。この時に紫藤を植えて子孫繁栄を祈願し、これが樹齢250年と言われる紫藤樹になっています。この藤が藤堂村の由来になったんですかねえ。毎年、5月に藤切祭が行われ、切り取った藤房を東京の藤堂宗家に送っているそうです。もっとも紫藤樹も雪の中では枝を見るだけです。

在土八幡神社
在土八幡神社

現在の本殿は2代目津藩主である藤堂高次が再興しました。藤堂家では先祖の地として毎年、五十石を八幡神社に寄進していたそうです。

藤堂高虎 出生地

尼子城の近くに近江国犬上郡藤堂村があります。戦国武将である藤堂高虎が生まれた所で、銅像が建っています。

藤堂高虎
藤堂高虎

藤堂高虎には「武士たるもの七度主君を変えねば武士とは言えぬ」と言った逸話がありますが、当時は能力がなければ主君を見限ることが当たり前でした。江戸時代に朱子学が入ってきて「忠臣は二君に仕えず」となっていきます。

藤堂高虎は浅井長政に足軽で仕えるところからスタートし、阿閉貞征、磯野員昌、織田信澄と主君を変えながら巡り合ったのが羽柴秀長。馬が合っていたようで秀長が亡くなるまで仕え、養子の羽柴秀保が後を継ぐと若い秀保の代理として活躍しています。ところがこの秀保も早世してしまいます。出家して高野山に入りますが、惜しんだ秀吉が説得して大名に返り咲かします。秀吉が亡くなると元々親交があった家康に接近することになります。

藤堂高虎は190センチメートもの身長で満身創痍の傷だらけと伝わっています。

■藤堂高虎、出世の白餅
阿閉貞征から出奔し浪人生活を送っていた時空腹のあまり、三河の吉田屋という餅屋で無銭飲食します。店主の奥さんが近江出身ということもあり、「故郷に帰って親孝行するように」と諭され路銀まで与えられます。後年、大名となった高虎が参勤交代の折に立ち寄り、餅代を返したという話は講談でおなじみです。ちなみに高虎の旗指物は「三つ餅」です。

近江塩津

琵琶湖の一番北にあったのが近江塩津。大阪から米原・長浜経由の新快速に乗ると近江塩津駅で、けっこうな高台にある近江塩津駅からひたすら下っていくと近江塩津に着きます。琵琶湖水運の要でした。日本海で取れた海産物などの物資が敦賀で陸揚げされ、深坂峠を越えて塩津港へ運ばれます。ここから船積みして琵琶湖を大津や堅田まで運び、陸揚げして京都、大坂へと運びました。

近江塩津
近江塩津

琵琶湖には主要な48浦がありましたが大津、塩津は飛びぬけて物流が多く、琵琶湖水運の中心でした。古代から江戸時代まで繁栄が続きましたが伊勢出身の河村瑞賢が「東・西回り航路」を開拓します。「菱垣廻船」「樽廻船」といった海洋廻船が発達したため琵琶湖水運はだんだん縮小していくことになります。

敦賀運河

敦賀運河
敦賀運河

古代、交通の大動脈といえば琵琶湖でした。なんせ大量の物を運ぶには船が一番です。継体天皇は応神天皇5世の孫で、ほとんど血縁関係がなく、この時に王朝が変わったという_unga説があります。継体天皇が選ばれたのは日本海-琵琶湖-宇治川-淀川-瀬戸内海の水運を抑えていたからでした。織田信長も琵琶湖の水運を重視しており、秀吉の長浜城、信長の安土城、光秀の坂本城、織田信澄の大溝城で琵琶湖を取り囲むネットワークを築きます。

琵琶湖の水運でネックだったのが敦賀と近江塩津との間、急峻な山が続きJR北陸本線はループ線になっています。なんとか運河を作ろうと平重盛が計画しましたが断念。敦賀城主となった大谷吉継も挑戦しましたが断念。江戸時代になって幕府も挑戦しましたが、結局はダメで途中の敦賀から疋田までは何とか運河にし、ここから山越えになりました。その名残が疋田の町に残る疋田舟川です。計画は昭和にもあり、それが日本横断運河ですが、結局、断念しました。

鉄砲の里 国友

昨日、NHKを見ていたら「山城トレッキング」の再放送をやっていて春風亭昇太が小谷城を登っていました。こんな山城を登るだけの番組があるんだあ。これからのバズワードはDXじゃなくって山城ですね(笑)

国友
国友

小谷城の近くにあるのが国友。戦国時代から江戸時代へ続く鉄砲の里です。

■鉄砲工房「国友」
国友は刀鍛冶の村でしたが1544年、将軍・足利義晴より見本の銃を示され作ったのが鉄砲製造の始まりと言われています。信長が10歳の時で、翌年に浅井長政が生まれます。大河ドラマ「麒麟がくる」でも将軍が鉄砲作りを命じた設定になっていましたが、1544年は種子島へ鉄砲が伝来した翌年ですから時期的に早く、最近の説では、地元を治めていた浅井長政が国友で鉄砲を作らせたようです。

国友は小谷城から近く、可能性が高いですね。そうそう「麒麟がくる」では齋藤道三の命をうけた明智光秀が伊平次という腕利きの鉄砲鍛冶を国友で探しておりました。

1549年には織田信長が500挺もの鉄砲を発注したという記録がありますが、これもどうですかねえ。ちょっと不思議なのが浅井長政が鉄砲を戦略物資として他の大名に流れるのを止めなかったことです。信長なんか堺をおさえ当時、輸入に頼っていた鉛(鉄砲の玉)と火薬を作る硝石を武田勝頼側に流れないように経済封鎖していました。武田も鉄砲を持っていましたが、玉と火薬不足でうまく運用できませんでした。

和邇駅

近江の渡来人といえば和邇氏がいます。強風でよく止まる湖西線に和邇(わに)駅があります。大津市の北側です。

和邇駅
和邇駅

古代、和邇氏の拠点でした。和邇氏は渡来人といわれ奈良の東北部を基盤にしていました。現在も天理市に和爾町という地名が残っています。和邇氏は6世紀頃に春日氏、小野氏、粟田氏、柿本氏、大宅氏、櫟井氏に分かれます。和邇氏は琵琶湖の物流をおさえていたため湖西線には和邇駅の隣に小野駅が残っています。小野といえば遣隋使で有名な小野妹子は小野駅周辺を地盤とした豪族でした。

春日神社の地は本来、春日氏の氏神だった榎本神社があったのですが藤原氏に乗っ取られてしまい春日神社の摂社になってしまいました。

穴太野添古墳群

穴太野添古墳群
穴太野添古墳群

壺笠山城へ行くには穴太野添古墳群の横を通っていきます。穴太野添古墳群は琵琶湖を見下ろす高台にあり眺めは抜群。このあたりに180基以上あります。古墳からはドーム状の天井をもつ形態の石室やミニチュア炊飯具(カマド・カマ・コシキ・ナベ)の副葬品などが見つかっており渡来人の墓といわれています。

■日本への亡命者が多かった
渡来人の来訪で多かったのが白村江の戦いの後。百済から多くの渡来人が亡命してきました。日本書紀に「鬼室集斯ら男女7百余人を近江国蒲生郡に遷居」とあり、蒲生に渡来人の一団がいました。鬼室集斯は白村江の戦いで活躍した百済の将軍、鬼室福信の子で,近江朝廷では学識頭になっています。東京の狛江市なども高麗からの渡来人が集団移転したのがきっかけです。南宋が滅んだ時も亡命者がたくさんいました

■渡辺党
天満近くの大川近辺に住んでいたのが新羅系渡来人のツゲ氏で、このツゲ氏が平安時代後期に「渡辺」と名前を変え、摂津の武士団である「渡辺党」となります。茨木童子で有名な渡辺綱も渡辺党です。豊臣秀吉が大坂築城に当たり替地を命ぜられ大川から移転。この時に氏神だった坐摩(いかすり)神社も移転しました。

米原湊

JR米原駅は琵琶湖からかなり離れた位置にありますが、駅にあるのが米原湊の碑。”なんでこんな内陸部に港が”と思いますが昭和初期まで米原駅西側には入江内湖が拡がっていました。昭和19年から昭和25年にかけて干拓が行われ今のような田園地域になりました。

米原湊
米原湊

古代から戦国時代にかけては朝妻湊が使われていました。入江内湖の北側にあり琵琶湖に面しています。船運が現在の高速道路のようなものでしたから北陸方面からの物資は塩津、海津、今津から坂本、大津へと運ばれ尾張や美濃からの荷物は米原にある朝妻湊が使われました。木曽義仲の出陣でも秀吉が京の大仏殿建立のための木材運搬に使われています。

しかし江戸時代に入り彦根藩主となった井伊氏が米原湊を御用港として保護し、湖上交通が制限され朝妻湊は衰退していきます。

石田三成の生誕地

大谷吉継の盟友といえば石田三成です。大河ドラマ「真田丸」では山本耕史が演じていました。

石田三成の生誕地
石田三成の生誕地

生まれたのは近江国坂田郡石田村。横山城の麓にあり三成が小坊主だった時、秀吉に温度が違うお茶を三回出した寺も近くにあります。勝者が徳川家康になったため、悪役として歴史に描かれていますが実像はどんな人物だったんでしょうかねえ。秀吉の汚れ役を引き受けていたため武断派からは嫌われていましたが清廉潔白で経理もやっていたので、けっこう細かい性格だったのでしょう。友人にするのはちょっと、という人物だったかもしれません。関ケ原の戦いの後、三成の佐和山城を接収した時にあまりに質素だったことに東軍側が驚きました。

徳川家康は関ケ原の戦いの後、実質的に武家の棟梁と認められますので転換点となりました。石田三成は徳川家の敵ですが主君のために戦った点は評価されており、子孫は生き延びて、なかには大名になっているものもいます。

長法寺跡

打下城から尾根道を下ると琵琶湖を一望できる別の丘陵があり、ここにあったのが山岳寺院・長法寺跡。昭和31年に地元の高島高校・歴史研究部によって再発見されました。寺の最古の記録が1205年(元久2年)に出てきますので鎌倉時代ですね。

長法寺跡
長法寺跡

鎌倉、室町と続き織田信長の焼き討ちで長法寺は廃絶したと伝わっていますが焼き討ちされた跡などは見つかっていません。ただ戦国時代頃には寺は廃絶し、その後は再発見されるまで山の中に眠っていたようです。

長法寺跡は整備されており広大な敷地にたくさんの坊跡が残っています。また石垣は自然石を積み上げた野面積の石垣が多様されています。こういった寺院の石垣技術が戦国時代の城郭に取り入れられていきます。それにしても山の上にこんな広大な寺をよく作ったものです。