三重県中小企業診断協会で毎月開催している研究会がようやく復活しました。

本日は第一回経営相談事例研究会ということで三輪診断士のお話。新聞配達業、ランチ営業のお店の相談事例の紹介です。
朝刊配達は朝早いので人材不足が続いており、なかには副業でやっている人もいて、副業解禁の話へ発展。
久しぶりにメンバーと再会しました。
三重県中小企業診断協会で毎月開催している研究会がようやく復活しました。

本日は第一回経営相談事例研究会ということで三輪診断士のお話。新聞配達業、ランチ営業のお店の相談事例の紹介です。
朝刊配達は朝早いので人材不足が続いており、なかには副業でやっている人もいて、副業解禁の話へ発展。
久しぶりにメンバーと再会しました。
土曜日は中小企業診断士・1次試験が来週7/11(土)12(日)に行われるということでLEC梅田で総まとめ講座。LEC梅田5階にある知財総合支援窓口(INPIT)は大阪駅前第一ビル10階に移転するそうです。お昼は阪急三番街フードコートにあるニューヨークデリスタイルでスパイスカレーのあいがけ。

LEC梅田へ行く途中、ホワイティ梅田を通ると9時から開いているヨネヤの立ち飲みコーナーが人で一杯でした。なんでかいなと思ったら赤垣屋が10時開店に時間変更していて、朝から飲みたい層が一気に流れたんですね。
講義の帰りに通ったら赤垣屋もヨネヤも混んでたので、すいていた大御所酒坊へ(笑)。
椿井大塚山古墳城の近くに高台があり、ここの小字名が「城の内」で平地の城郭があったようです。応仁の乱の頃、椿井も争奪戦が行われており「教覚私要抄」には文明3年(1471)東軍の山城国人が立てこもった椿井城を西軍の大内勢が攻め込んで堕としたともあります。また西軍の畠山義就が椿井城にいたと「大乗院自社雑事記」に記されています。

ただ椿井文書という偽書があり江戸時代に椿井政隆が山城や河内、近江の村同士の争いがある場所に出没し、村人らの求めに応じて中世の古文書やその写本を大量に偽作していたことが分かってきています。その本拠地がこの椿井です。
私も椿井文書では津田城でまんまとだまされたので現地確認するしかないですね。「城の内」は奈良街道を見下ろす高台で北、西、南の三方向が崖になっています。山側に東側を守れば城郭としても十分。当時から続いているかどうかは分かりませんが道が食い違い虎口状になっていました。
天正10年(1582)6月13日(西暦7月2日)に行われたのが山崎の合戦。中国大返しをしてきた秀吉と明智光秀がぶつかった戦いです。

夜半に明智光秀は勝龍寺城を脱出して近江の坂本城を目指して落ち延びる途中、小栗栖の藪で落ち武者狩りによって絶命したと伝わります。つまり本日です。大河ドラマ「麒麟がくる」では、おそらくラストシーンになるでしょう。
山崎は淀川と山に囲まれた隘路で、名神高速の天王山トンネル、新幹線、阪急、JRが通っています。京都を西から抑えるには最適な地ですね。山崎の合戦後、清洲会議で長浜城を柴田勝家へ譲ったため、秀吉は山崎城を造って、ここを本拠地にしました。交通の大動脈をおさえたことになります。
JR奈良線の上狛駅を北上するとJRで分断された全長約175メートルの椿井大塚山古墳があります。前方後円墳で40面近い銅鏡が見つかったことで有名な古墳で、箸墓古墳や黒塚古墳とともに古い時代の古墳です。木津川の大動脈をおさえる場所ですので被葬者は地域の有力者だったのでしょう。

椿井大塚山古墳は高台の上にあり眼下を奈良街道が通っているため戦国時代以前から城郭が造られていました。古墳の堀はそのまま水堀として使っていたようです。発掘調査で城の遺構が発見され、竪堀などがそのまま残っていました。後円部を郭にしていたようです。この日も発掘調査をしていました。
大学の講義は前期が全てオンライン授業となり、ちょうど半分を過ぎました。

学生もオンライン授業に慣れたようで授業終了後の質問タイムでは、学生が画面を共有して疑問点を聞いてきます。学生の画面を確認しながら回答できるので、これはオンライン授業ならではの利点ですね。
さて京都橘大学で毎年、行っているWOC認定看護師講座ですがコロナの影響で7/1開講とずれこみました。また開講してから、しばらくはオンライン授業で行うことになると連絡がありました。こちらの受講生は現役の看護士さんばかりなので、ウーン、Zoomでの講義が大変そう。だいたい講義が終わってから京都の街に遊びに行けない(笑)。
オンライン授業で教える側も慣れましたが、職住近接どころか自宅そのものなんで、終わるとすぐパソコンやクロマキーを片付けて、冷蔵庫からビールを出して飲んでおります。こりゃずっとオンライン授業でもいいな~あ。
令和2年も前半がまもなく終了。

ということで枚岡神社へ夏越の祓に。例年は6/30の法要が終わってから茅の輪くぐりができるのですが、新型コロナの影響か、もう通れるようになっていました。
枚岡神社はしっかりマーケティングをしており、夏越の祓と大祓(年末)前には案内、人形(ひとがた)、振込用紙などの祓いセット、きっちり届きます。郵送もできるシステムになっていますが、いつも神社へ納めに行っています。
今年は新型コロナの影響もあるので、夏越の祓をする人が増えるかもしれません。
大和郡山城は信長時代に筒井順慶が筒井城から移って整備します。筒井順慶が死去すると、養子の筒井定次は秀吉の命令で伊賀上野城へ転封となります。その後に入ったのが秀吉の弟である豊臣秀長です。大和、和泉、紀伊をおさめる居城とします。現在の縄張りはこの秀長時代のものが基本になっているようです。

秀長が病没した後は増田長盛が入りました。増田長盛といえば秀吉に仕え太閤検地などで活躍しました。秀吉亡き後は五奉行として石田三成とともに家康に対抗しますが、この増田長盛が作ったのが外堀、いわゆる総構です。秀吉の命令だったのでしょうが増田長盛は小田原征伐にも参加していますので後北条氏が作った総構を参考にしたのでしょう。外堀の一部は整備されて公園になっています。
近鉄郡山駅から北へ向かうと線路が森を突っ切っていきます。丘のようになっているので、ずっと切通しだと思っていました。ある日、気になって電車が通る時によく窓の外を見ると森の横に水路が見えます。

まさか堀? 大和郡山城からかなり離れているので外堀?
Googleマップで調べると付近に微妙に池や水路が残っていて外堀で間違いなし。念のために大和郡山の古地図を見ると ピンポンでした。
というわけで出かけてきました。丘に見えたのは総構の土塁跡で木が生繁っていました。堀跡は水路に線路の西側には代官池があったそうですが、こちらも水路に。こんなところに城跡が残っているんですなあ。
土曜日は東京へ転勤したはずが早々と大阪へ舞い戻った御仁がおり黒門市場でファイティング・コンサルタンツの歓迎会。

■黒門市場
宴会前に黒門市場に寄ってみましたが人出は1/5ぐらい。インバウンド客向けに高級なお寿司や神戸肉を提供していたお店は閉まっていました。足をのばして電気街とオタクの街である日本橋に行くと、こっちの人出は戻っていました。
■寿恵廣
宴会場所はいつもの寿恵廣。13時から始まって17時まで飲んでおりました。隣では従業員の皆さんが交代で賄いを食べていて、そっちがおいしそうでした。