前から行きたかった采女城へ行ってきました。
近鉄四日市駅から軽便鉄道に乗り、内部駅から20分ほど歩くと城の入口につきます。采女城は3つの尾根上に9つの郭を配置した平山城。采女城保存会が整備しており、ヤブもかってあり、非常に歩きやすく、また見やすくなっています。スーツ姿で登れました。(笑)
南側の入口から入り10分ほど登ると主郭(一の郭)につきます。ここに深井戸がありますが、落城する時に城主の姫が身を投げたところと伝わっています。
城を造ったには藤原氏を祖先とする後藤家で三重郡采女郷の地頭職となった時に築城しました。鎌倉時代の話になります。それ以来、15代にわたり続きましたが、織田信長の伊勢進攻で落城します。攻めたのは滝川一益で、城の四方から6000の兵で攻めました。守っていたのは500ほどだったようです。
1~5郭と8郭は簡単に行くことができますが、6、7郭は道がなかったので堀に降りて崖を登るしか方法がなかったですね。さすがにこっちまでは整備されていなくってヤブだらけでした。離れたところにある9郭は断念しました。
創業カフェでセミナー
創業カフェでセミナーをしてきました。
四日市志創業応援隊という創業支援ネットワークがあり、構成メンバーは四日市商工会議所、四日市市、三重北勢地域地場産業振興センター、日本政策金融公庫四日市支店、三重県信用保証協会四日市支店。1ケ月に1回、第一金曜日に、創業を考えている人や、創業してまもない人を対象に創業カフェというセミナーを開催しています。
今日は「SNSを経営に活用する方法」という内容でセミナーをしてきました。あいかわらずスピーカーを使った鳴り物入りスタイル。これなら絶対に寝ません。(笑)セミナーが終わってから、四日市商工会議所3階の休憩コーナーを使って交流会を開催。交流会といってもお酒は出ず、ジュースとお菓子だけの健全な交流会。(笑)創業者通しのネットワーク構築のための仕掛けの一つです。
セミナーは夕方スタートでしたので、早目に四日市へ出て、采女城へ登ってきました。本丸跡で落城に想いをはせていたら仕事の電話がかかってきて、すっかり現実に。文明の利器もよしあしですね。
三宮の地名の由来となった三宮神社
神戸の中心と言えば三宮ですが、三宮という地名は三宮神社からとられました。航海の安全と商工業の繁栄を守る神さんです。
三宮センター街のすぐ近く、古い建物が多い旧l居留地にあり、目の前はトアロード神戸です。旧居留地にあった三宮神社の前で起きたのが神戸事件。慶応4年ですので明治に改元される年です。西宮の警護に大砲をひいて向かう備前藩の行列の前をフランス人水兵2人が横切ったことから、フランス兵に軽傷をおわせてしまいます。生麦事件と同じ構図です。
交渉となり列強ともめにもめましたが、備前藩関係者の切腹で決着しました。朝廷は徳川幕府から明治政府への政権移譲を宣言していなかったので、あわてて明治新政府への政権移譲を表明。神戸事件は明治新政府となり初めての外交事件となりました。
三宮神社の境内には当時のものと同型の大砲が置かれています。
幻想的な楽園そこはザナドゥ
J-Mottoの経営コラム作成が終了。今回のテーマはオリヴィア・ニュートン=ジョンが歌うザナドゥです。みずほフィナンシャルグループのテレビCMに井上真央さんが出演していますが、バックで流れている歌がザナドゥ。すこし前はソフトバンクモバイル「ホワイトプラン」のCMソングにも使われていました。1980年に公開された映画「ザナドゥ(Xanadu)」で、オリヴィア・ニュートン=ジョンがザナドゥを歌っています。
→ みずほCM
ザナドゥのアルバムは大ヒットしましたが映画は酷評され商業的には失敗。大学生の頃、いまはなき祇園会館で見た記憶があるんですが、なかなか楽しめる映画でした。ザナドゥの起源はモンゴル帝国のクビライ・ハンが、モンゴル高原南部にもうけた夏の都からきています。英国の詩人コールリッジが幻想詩「クーブラカーン」で都「ザナドゥ」を登場させて以来、ザナドゥはシャングリラと同じように幻想的な楽園の代名詞として広く使われるようになりました。
コンピュータの世界でいうとテッド・ネルソンという人物がザナドゥ計画というのを考えていました。文書や画像のリンクをクリックすると次々と情報をたどれる仕組みが World Wide Web (ウェブ)ですがザナドゥ計画は片方向でなく、双方向でした。
子孫が寄贈した大和高山城(生駒)
ようやく足の痛みが治ったので山城登りを再開。ただこの時期から山城はヤブ蚊がすごくなりますので、なるべくヤブの少ない山城を探したところ生駒にありました。
近鉄けいはんな線・学研北生駒駅から奈良交通バスに乗り西庄田で降りて、山を目指します。近畿自然歩道が通っているため、高山城への案内板もあり、また遊歩道も整備されています。高山は南都、山城、河内の三国の境界にあり、中世には鷹山庄という荘園がありました。この高山をおさめていたのが鷹山氏。
鷹山氏は高山氏とも書き、大和の国人の一人で戦国時代、江戸時代を生き抜き、鷹山氏の末裔が城跡を所有していました。平成18年に城跡を再整備するのにあわせ地元に寄贈。それで遊歩道ができたんですね。
遊歩道を登ると九頭龍王社が祀られている2郭に着きますが、主郭はどうも2郭ではなく尾根沿いに進んだ別の郭のようで、そちらに進出。さすがに遊歩道も何も整備されていないので、ヤブに分け入って土塁などを見てきました。井戸跡も残る郭で見応えがあり、おかげで堪能できました。
大阪中小企業診断士会 総会
JR福島駅の目の前にあるホテル阪神で大阪中小企業診断士会の総会&懇親会。
各都道府県にある中小企業診断協会は単独の場合が多いのですが、大阪は機能分割していてコンサルティングファームやシンクタンクの役割を大阪中小企業診断士会で行っています。事業中心ですので会員は独立診断士になります。
総会は16:30に始まり終了予定は18:30。その後に懇親会です。会員数は150名で参加者は40名ほどでした。総会は議案説明、審議、採決と順調に進み、18時前には終わりそうでした。
懇親会まで空き時間ができるので、周りに「異議ありと発言して紛糾させてよ」と依頼しましたが、皆さん無視。私はにらまれたらいやなので、もちろんそんな発言はしません。(笑)
もっとも17:50に総会が終わったら、ホテル阪神さんが尽力いただいて18:10に懇親会開始となりました。紛糾しなくってよかった。(笑)最後は毎度、恒例の大阪締めで終わりました。
めちゃくちゃ難しいインターネット講座 第2週
mooc(無料オンライン大学講座)の日本版gaccoの「インターネット」第2週。
村井先生の講座自体は分かりやすい説明で、ウィンドウズ95が発売されて爆発的にインターネットが世間に普及した話やマイクロソフトが「インターネット」と書いたアイコンをダブルクリックするとインターネットエクスプローラが起動したことから、インターネットとはホームページのことだと誤解した人が続出した話など、懐かしいですね。
毎回、小テストがあって、そっちはなんなくクリアしたんですが、今回は中間課題というのがあり、これが難しい。pingコマンドやtracerouteコマンドというネットワークの状態を調べるコマンドを動かした結果から言えることは何ぞやというような問題で、ウーン回答したんですが、正解率は半分ぐらいでした。
講座の掲示板を見ても、「こりゃ難しい」なんて感想で一杯です(笑)
市場城(朝倉城)
企業訪問が終わって三岐鉄道の北勢中央公園口へ行くと、電車は出たばっかりで、次の電車が来るまで約1時間。(笑)時刻表を見ると通常は1時間に2本なんですが12時台だけは1本になっていました。
近くのスーパーで弁当を買ってきて駅で食べたのですが、まだ30分あります。駅の地図に城跡の表記があったので城跡へ出かけてきました。(笑)
市場城というお城で駅から歩いて10分ぐらいの竹藪の中にあります。もともとは少し離れたところに朝倉城という城がありました。朝倉というと信長に滅ぼされた朝倉義景の越前朝倉氏が有名ですが、伊勢の朝倉氏は早期の分家のようで同じ朝倉氏一族でした。
この朝倉城を移築したのが市場城。城は地元で守られているようで珍しく城の碑が建っていました。朝倉城を移築したので、碑は朝倉城になっていました。さっそく城跡の竹藪に入ってみましたが、やぶ蚊がすごく、早々に退散。ただ堀跡とかなり高い土塁を見ることができました。ネットで調べると土橋もあり、かなり見応えがありそうなので冬にリベンジですね。
三岐鉄道 硬券の切符
三岐鉄道に揺られて企業さんへ。近鉄富田駅と西藤原駅を結ぶのが三岐鉄道。3両編成で黄色とオレンジの車体をワンマン運転で走ります。もちろん単線。
もともとはセメント輸送が目的の路線で、今も貨物列車が走っています。JR富田駅と結んでいたのですが、やがて旅客が増え、JR富田駅に着くと乗客がドヤドヤと少し離れた近鉄富田駅へ移動し、近鉄に乗り換えていました。単線であるJRの本数と比べ、近鉄の本数が多いので当然でしょうね。
乗客から嘆願でもあったのか昭和45年に近鉄富田駅と結ぶ連絡線ができ、近鉄の隣のホームに着くようになります。ただ近鉄とは別経営ですのでダイヤをあわすようなことはしていません。「スルット関西」にも入っていませんので、いったんホームを出て切符を買いなおさないといけません。この切符が今時珍しい硬券です!硬券の切符なんて何年ぶりだろう。
名古屋城がそこにあるワケ
名古屋のテレビ塔がある久屋大通公園から少し歩くと下り坂になっていて台地の上に建っていることがよく分かります。熱田台地と呼ばれている台地で、北の端にあるのが名古屋城。南の端にあるのが熱田神宮です。関ヶ原の合戦のあと、清洲を治めた徳川家康は一大プロジェクト「清洲越し」を決断します。清洲は湿地帯で地震による液状化の跡も残っていて、地震対策のために高台移転を決定したようです。
この時、参考にしたのが大坂城。大坂城の前は石山本願寺があり要衝の地で、信長も攻めあぐねました。石山本願寺は上町台地の北に位置し、北、東、西の守りが比較的にやりやすく、攻めるとすれば台地続きの南側。
大坂城では、ここに惣構を築きました。大坂冬の陣では真田幸村が惣構のさらに外側に真田丸を築き、結局、家康側は惣構の中に攻め込むことができませんでした。国土地理院の標高地形図を見ると一目瞭然ですね。
名古屋城の北側は崖になっていて、しかも湿地帯、江戸時代は矢田川が流れていました。西側には堀川、東側には精進川が流れ、天然の堀になっていました。大坂城と同様に南側に二の丸、三の丸をつくり惣構にしました。