東勝寺ハイキング

いざ鎌倉へ。

鎌倉

東勝寺へは小町大路を歩いて横道に入るしかありません。鶴岡八幡宮の参道道が混むためか、車の交通量が多く、しかも名前通りの大路ではありません。道の脇を歩くのも、なかなか大変で、どおりで観光客がいないはずです。東勝寺跡から、また小町大路に戻って歩くのも大変だなと思ったら、腹切やぐらから祇園山ハイキングコースというのがありました。

鎌倉の山なんで低いだろうと登り始めましたが、なかなかきつい。ずっと山道を歩いていくと時々、広くなって兵が駐屯できるような平地があります。鎌倉は山で囲まれ、入るには切通ししかなかったので山の上に兵を配置すれば、鉄壁の守りでした。山道をずっと進むと祇園山見晴台に到達。見晴台からは鎌倉市街を一望でき、由比ガ浜や稲村ケ崎もよく見えます。眺望がいいのですが、誰もいません(笑)。

北条氏の終焉場所「東勝寺」

いざ鎌倉へ。

腹切やぐら

少年ジャンプに連載されている「逃げ上手の若君」ですがテレビアニメ化されるんですね。けっこうマイナーな「中先代の乱」をテーマにしていて、主人公は北条時行です。中先代というのは北条氏が先代で、足利氏が後代、北条時行がその間、武士の都である鎌倉を支配したので中先代と呼ばれています。

物語は鎌倉幕府滅亡から始まります。新田義貞が鎌倉に攻め入り、もちこたえていましたが稲村ヶ崎を突破され鎌倉市内に乱入。執権・北条高時は菩提寺である東勝寺で一族郎党とともに自刃します。東勝寺跡は草むらになっていて、近くに腹切りやぐらがあります。さすがに、こんな所まで来る観光客は誰もいませんね。アニメファンもこないのかなあ。

■大河ドラマ「井伊直虎」の隠し里
漫画ではちょうど後醍醐天皇からの返書を待っているところで、この後は敵の敵は味方ということで北条時行と南朝が組むことになります。南朝が陸奥や遠江へ拠点をつくろうと伊勢の大湊から出港しましたが暴風雨にあい、北条時行は義良親王(後の後村上天皇)と共に遠江に流れ着き、井伊に辿り着きます。

大河ドラマ「井伊直虎」に検地のシーンが出てきて、井伊家が隠していた里が見つかり、問い詰める検地人に「南朝の御子様が隠れてお住まいになった場所です。なので、井伊の領地であって、井伊の領地ではない」と返答しますが、このことだったんですね。

大蔵幕府

いざ鎌倉へ

大蔵幕府

「鎌倉殿の十三人」で舞台となった幕府です。当時、幕府という言葉はなく、使われるようになったのは新井白石の頃からです。頼朝の邸宅に皆が集まって、やいのやいのやっていたのが鎌倉幕府になります。場所は現在の清泉小学校あたりで、角に石碑が建っています。授業の一環なのか小学生が調べた説明書きが塀などに書かれています。

頼朝が1180年に鎌倉入りすると、大倉郷に邸宅を建てます。頼朝が亡くなってかたも頼家、実朝と45年ほど、この地が幕府となりました。東・西・南・北に門がある一般的な貴族の寝殿造になっていました。邸宅には侍所もあり、侍所別当が和田義盛でした。御家人達も新しい屋敷の周辺に館を構え、今でいう官庁街ですね。

昔、習った「いい国作ろう」の1192年に鎌倉に政所ができます。三位以上となると役所を開き自分の財産などが管理できます。1190年に源頼朝は奥州藤原氏を滅ぼし都入りして二位の位階を授けられました。そこから2年を待ち、征夷大将軍に任じられてから政所を開きます。また頼朝は後白河法皇から「衛府の太刀」を授かりましたが鶴岡八幡宮に奉納してしまいました。朝廷を守る太刀ということで授けられましたが、その気はないということを示しています。

「書く仕事」のはじめ方・稼ぎ方・続け方

「書く仕事」のはじめ方・稼ぎ方・続け方

よく行っている紀伊国屋書店・本町店に平積みになっていたので買ってきました。藤木さんの新著です。「安定して頼まれるライターになる!「書く仕事」のはじめ方・稼ぎ方・続け方」(同文館出版)という長いタイトルの本です。

コロナ禍で副業が進んでこともあり、クラウドソーシングなどを活用してライターを目指す人が増えています。ただ対価をもらう仕事ですので、締め切りまでにメディアの世界観とレギュレーション(制作規定)を守りながら、ターゲット読書のことを考えた原稿ファイルを編集者に納品することが必要です。書く仕事をするには、どうしたらよいかノウハウが満載です。

本でも紹介されていますが、私はカレーと同じように「一晩寝かせる」派ですね。残念ながらお酒を飲んで原稿作成能力を高めようという話は出てきません(笑)。

鎌倉宮

いざ鎌倉へ

鎌倉宮

永福寺跡近くにあるのが鎌倉宮。ちょうど茅の輪が置かれていたので一足早く、夏越の祓をやってきました。鎌倉宮は大塔宮・護良親王を祭るために明治になってからできた神社です。

大塔宮・護良親王、日本史で習いましたね。後醍醐天皇の皇子で、後醍醐天皇が隠岐に流された後も鎌倉幕府を滅ぼすために吉野で挙兵します。吉野で幕府軍に敗れ高野山へ逃れます。幕府側は楠木正成、護良親王の二人を倒すために躍起になりますが、足利尊氏、新田義貞らによって鎌倉幕府は滅亡します。

建武の新政では足利尊氏の危険性を当初から見抜いていて対立。ところが後醍醐天皇が阿野廉子との間に生まれた義良親王(後村上天皇)を次の帝につかせたいと考えており、邪魔になった護良親王を鎌倉にいた尊氏の弟・足利直義の元に送ります。護良親王が幽閉されていたのが東光寺で、北条時行が中先代の乱を起こして鎌倉に攻め込んできた時に足利直義によって殺されます。まだ28歳でした。この東光寺跡に建てられたのが鎌倉宮です。

永福寺跡

いざ鎌倉へ。

永福寺跡

鶴岡八幡宮から、けっこう歩いた所に永福寺跡があります。こんな所まで来る酔狂な観光客はほぼおらず、広い境内を地元の人がジョギングしています。永福寺跡を見て、平泉にある毛越寺跡や無量光院跡みたいだなと思ったあなた!正解です。

頼朝が義経と義経をかくまった奥州藤原氏を滅ぼした後に建てた寺が永福寺です。合戦で亡くなった義経や藤原泰衡らを供養するための寺でした。火事で焼失した後、発掘調査で池の前に3つの堂が並び立つ壮大な寺院だったことが分かり、基壇などが再現されています。ほんまに平泉の毛越寺跡みたいですねえ。

中学生の時に図書館にあった「義経記」を読むと金売吉次が義経を平泉に誘うシーンが出てきます。現実は義経のお母さんである常磐御前が再婚したのが藤原長成で、義経はしばらく長成に養われた後、鞍馬寺に預けられました。陸奥守がこの長成の親戚で、この親戚の娘が藤原秀衡の妻になっていました。ですので秀衡と義経は遠い親戚だったんですね。

また奥州藤原氏の祖となったのが前九年の役で敗れて殺された藤原経清。平将門を破った藤原秀郷の後裔と言われています。西行が2度、平泉を訪れていますが西行はもともと北面の武士で、先祖は藤原秀郷。そんな縁があったんですね。

北条義時のお墓

いざ鎌倉シリーズ。

北条義時のお墓

と言いながらお墓の話題が続いています(笑)。今度は「鎌倉殿の十三人」の主人公、北条義時のお墓です。源頼朝墓のすぐ近くなんですが、観光客の数は、がたっと減ります。「鎌倉殿の十三人」では後妻の伊賀氏に毒殺された風になっていましたが、本当かどうかは分かりません。なんせ62歳で亡くなっていますので、当時としては長生きです。

吾妻鏡に「頼朝の法華堂の東の山をもって墳墓となす」と記載されていたことから、2005年に北条義時の法華堂跡の発掘調査が行われ墳墓堂(法華堂)の遺構が見つかります。遺構は埋戻しされたために調査で見つかった柱跡などが地表に示されています。

■承久の乱
北条義時といえば承久の乱ですね。目をかけていた実朝暗殺などに怒った後鳥羽上皇が義時追討の命を出します。城南寺(鳥羽)で流鏑馬を行うという名目で武士を集めると西国武士が1700ほどが集まりましたが、朝廷の権威をあまりにも過大評価していました。朝敵扱いになっても東国武士は立ち上がり京都を攻め、後鳥羽上皇に味方した西国の武士や貴族の荘園に東国武士が入り鎌倉幕府は地方政権から全国政権になります。敗北した後鳥羽上皇は戦争放棄、軍備の放棄を宣言、古代から「武」で権力を維持してきた天皇が軍事に口を出さないと宣言し、武士の時代がはじまることになります。

ただ西国に領地をもらった御家人は貨幣経済に巻き込まれてしまいます。陶器や茶道具などを買うにはお金がいるため土地を担保に金を借ります。これが徳政令につながり、ますます御家人を苦しめることになり、幕府滅亡の遠因へとなっていきます。

大江広元の墓

いざ鎌倉シリーズ

大江広元の墓

三浦氏のやぐら近くにあるのが大江広元の墓。「鎌倉殿の十三人」では栗原英雄氏が演じていました。源頼朝は力で勝っても文章能力がない武士では政権運営はできないと考えており、京都から落ちぶれてはいるが能力のある官僚を招きます。それが大江広元で、頼朝亡き後の承久の乱では鎌倉武士の鎌倉での迎撃論を抑え込んで、出撃するように説得します、これがなければ歴史が変わっていたかもしれません。ここで武家政権が盤石となります。

大江広元の本当の墓は伝として伝わっていますが、ここは島津が江戸時代に建てたもの。大江広元の息子の一人が相模国毛利荘(厚木市)をもらって毛利季光と名乗っていました。武士になると宣言し、毛利家の祖先となります。文官より武官のほうが格上だったようです。島津忠久は島津氏の祖で、一説では源頼朝の子ではないかと言われています。そこで大江広元の墓を中心に両側に毛利季光、島津忠久の墓が並んでいます。島津による、「うちはすごいんだ~あ」というアピールでしょう。

三浦氏のやぐら

いざ鎌倉シリーズ。

三浦氏のやぐら

「鎌倉殿の十三人」では山本耕史さんが三浦義村を佐藤B作さんが三浦義村のお父さんの三浦義澄を演じていました。三浦義村はクセのある人物として描かれていましたが、梶原景時の変、畠山重忠の乱、牧氏の変、和田合戦、実朝暗殺、伊賀氏事件など鎌倉で起きたあらゆる事件にからんでいます。北条義時が病死し、後を北条泰時が継いでからは宿老として幕府を支えています。最後は病死でした。

三浦氏は北条氏と並ぶような存在となったため、宝治元年(1247年)の宝治合戦で北条氏と安達景盛らに滅ぼされます。ただ吾妻鏡にしか出てこず、三浦氏は北条と安達に騙し討ちされたではないかという説もあります。この三浦氏を弔った「やぐら」(横穴墳墓)があります。さすがに、こんなところまで来る観光客は数人ですね。

船場総研・総会

宴会

中小企業診断士の勉強会「船場勉強会」のOB組織が船場総会で、Nifty-Serve時代から続いています。毎年、総会を開催していますが、今年はなかなか場所が決まらず、結局、予約できたのがラミ本町エマという場所。本町駅に近い商業ビルの上にあるのですが、これが分かりにくい。ひたすら地図を握りしめて入口を探して、たどりつきました。

同じように地図を握りしめた面々が集まり、まずは近況報告。話たがりや途中でチャチャ入れが多いので、近況報告が全然進まず、結局、総会の3/4が近況報告。メンバーも高齢化しているので病気や介護の話が多かったですね。ようやく今後の計画を決めて閉会。終わってからは心斎橋商店街を巡ってから船場センタービル地下で宴会です!