年末にスマートファクトリーの対談をしてきたのですが記事となってNTT西日本のサイトにアップされていました。内容は製造業におけるDXで、しゃべった内容がうまくまとめられていました。脱線した話などは当然、カットです(笑)修正しようがないので変な顔で映っています。

採用がなかなかできないので、いかに工場の生産性を上げるかがカギで、IoTなどを駆使してスマート化が進んでいます。三重県の製造業の中には作業指示などはタブレットやモニターで一切の紙をなくした会社もあります。
年末にスマートファクトリーの対談をしてきたのですが記事となってNTT西日本のサイトにアップされていました。内容は製造業におけるDXで、しゃべった内容がうまくまとめられていました。脱線した話などは当然、カットです(笑)修正しようがないので変な顔で映っています。

採用がなかなかできないので、いかに工場の生産性を上げるかがカギで、IoTなどを駆使してスマート化が進んでいます。三重県の製造業の中には作業指示などはタブレットやモニターで一切の紙をなくした会社もあります。
彦根城やキャッスルロードへ行く観光客は多いのですが、もうちょい足を延ばすと足軽組屋敷があります。彦根城を整備する時、外堀と芹川との間に足軽を住まわせ700戸という大規模になりました。今も当時の町割りが残っています。

町の大辻通りと中辻通りが交差する辻には辻番所を設置して、辻の監視を行っていました。当時の屋敷がそのまま残っていて、辻に若干張り出た、監視窓から交代で監視できます。時代がすすむと足軽屋敷がどんどん普通の住居へ変わっていきましたが、市民によるトラスト運動が起きて保存が決定し、彦根辻番所の会が結成されボランティアで維持・管理をしています。土日などは公開されて説明をしています。

ファイティング・コンサルタンツ研究会という中小企業診断士が集まった研究会があるのですが、研究とは名ばかりで昨今は単なる酒飲み会集団になっています。というわけでディアモールにあるニユートーキョー第一生命ビル店に13時に集合して新年会を開催。高齢化しているので昼飲みです(笑)。
ニュートーキョー懐かしいですねえ。知的生産の技術研究会・関西を中ノ島にあった大阪府立文化情報センターでやっていた時代、といっても30年以上も前の話です。セミナーが終わると近鉄堂島ビル地下にあったニユートーキョー庄屋へ移動して宴会するのが定番でした。大阪駅前ビルを会場にしていた頃は新阪急ビル地下にあったニユートーキョー庄屋をよく使っていました。
大阪府よろず支援拠点のお仕事で大阪城前にある國民会館へ。日本フルハップさんで「中小企業における”ホームページ”の活用術~自社の魅力をWEBで発信~」というタイトルでセミナーをしてきました。

内容は顧客、取引先、さらに求職者は、まずはパソコンやスマホで情報を検索します。ホームページはネット上の看板です。業種を問わず、魅力あるホームページを作ることで、売上向上のみならず、人材確保に繋げることができます。ホームページを作る方法、見直す方法をなどの解説です。会場は見晴らしがよいところで、大阪城・天守閣がバッチリ見えます。
彦根駅からガチャコン(近江鉄道)に乗って高宮駅へ。ここから多賀大社駅まで支線が出ています。といっても途中駅にはスクリーン前駅しかない短い路線です。新幹線からこの高宮駅の扇型ホームを見ることができます。四日市から出ている四日市あすなろう鉄道の日永駅が内部線と八王子線の分岐になっていて高宮駅と同様に扇形ホームになっています。

滋賀県は公共交通を維持する財源として交通税として利用者以外の県民からもお金を集める計画をしています。今は自家用車に乗っていても高齢化して免許返納となった時、公共交通機関がなくなって困るのは自分自身ですからね。Maasの動きもありますがオンデマンドで全国的に利用できるようになるには、まだまだ時間がかかるでしょう。
泉南市商工会でインボイスセミナーを開催。受講者は30名と盛況でした。アンケートをとってみたら既にインボイスを申請済みの事業者が半分ぐらいをしめ、申請をしたのはよいけど、よく分かっていないというのが現状のようです。

セミナー後は個別相談にも対応。副業の方や一般顧客がお客で特にインボイスの必要性がない事業者など、いろいろな相談でした。
彦根に高宮という場所があります。古代には犬上郡十郷の1つ高宮郷があり、東山道が走っていました。中世から江戸時代にかけては、ほぼ同じルートで中山道となり高宮宿として栄えました。この交通の要所を抑えていたのが高宮城です。

1416年の上杉禅秀の乱に幕府方として戦った六角信高が将軍足利義持から勲功として高宮など6万貫を与えられて、高宮信高となります。もともと六角氏頼の三男でしたので六角氏側でしたが、京極氏側に寝返ったようで永禄2年(1559)、高宮城が六角氏に攻められて落城します。京極氏側でしたので浅井長政の配下にもなっていました。
■織田信長と浅井長政が会見した城
足利義昭を奉じて上洛する前、永禄10年 (1567)に織田信長は高宮城で浅井長政と会見しています。その後もたびたび信長は宿舎として使っていたようです。信長と浅井が手切れとなると高宮氏は浅井側として戦い小谷城で戦死しました。落ち延びた一族は高宮城に戻って、城に火を放ち歴史からは消えてしまいました。
その後はずっと空地だったようで、やがて高宮小学校や高宮幼稚園の校舎が建てられ、今は碑だけが残っています。発掘調査で高宮城時代の井戸などが見つかっています。

多賀大社から少し行ったところに敏満寺城があります。彦根へ行った目的地はこちらで、多賀大社はついでに参拝してきました。

敏満寺という名前がついているので、もともとは寺ですが戦国時代の寺は、ほぼ城塞です。信長が10年もの間、石山本願寺を攻めましたが、それでも落とせなかったのは石山本願寺が強固な城塞だったからです。敏満寺城は天台宗寺院が城塞化したもので僧兵を揃え、室町時代には守護佐々木氏や京極氏と度々対立していました。
1562年(永禄5年)、浅井長政が六角氏側に寝返った久徳氏を攻めた時に久徳氏に味方していた敏満寺城を攻撃し、かなりの坊舎が焼失しました。1572年(元亀3年)頃には信長包囲網に加わっていたために、残りの坊舎も焼かれ寺領も取り上げられてしまいます。この後は衰微したようです。彦根城を造る時に礎石などは運びさられました。
やがて名神が通り、多賀サービスエリアが造られることになって発掘調査の結果、土塁、空堀などの山城跡が出てきました。一部が保存されていて郭跡などが見晴らしスペースになっています。ドッグランがあるところも郭跡で周りを土塁と櫓台が取り囲んでいました。多賀サービスエリアは徒歩なら外からも入れるようになって城跡が見学できます。もっとも犬を遊ばせている人はいましたが土塁に登っているような人は皆無でした。
城巡りのついでに多賀大社へ。拝殿前にはずらっと参拝客が並んでいたので、ショートカットして脇から参拝してきました。

多賀大社の祭神は伊邪那岐命と伊邪那美命で、日本創成の神様です。天照大神の親にあたりますから「お伊勢参らばお多賀へ参れ。お伊勢お多賀の子でござる」と歌われました。近江国の一宮は建部大社で、二宮・日吉神社と続き、多賀大社は三宮になります。
このあたりは犬上御田鍬(いぬかみのみたすき)で有名な犬上氏の土地です。犬上御田鍬は推古天皇の時代、最後の遣隋使で最初の遣唐使になった人物として日本史で習いましたね。もともと多賀大社はこの犬上氏の氏神を祭っていたという説もあります。