下狭川城

上狭川城は福岡氏の城でしたが本家筋である狭川氏の城が下狭川城です。春日若宮御祭には長川・長谷川・平田・葛上・乾脇・散在の六党が参加しましたが、狭川氏は長川党で願主も勤めていました。願主とは主催者の意味です。御祭で大和の国人は流鏑馬を奉納していました。下狭川城は3つの郭から構成された山城で、かなり大きく土塁や堀跡、また土橋などがありました。ただ半分ほどは竹藪になっています。

下狭川城
下狭川城

下狭川城には中墓寺から入れると後で調べて分かりましたが、結局は麓から直登しました。見当をつけてピークまで登ったら隣の山でした(笑)。いったん谷に降りて登りなおすと下狭川城がありました。下狭川城の虎口から降りる山道があり、200mほど行ったところに馬場がありました。馬場が残っている山城は珍しいですね。この馬場から細いコンクリートの作業道が出ており、歩くと前川を渡ることができ道路とつながっていました。ここから登ればメチャクチャ楽に登れます。

上狭川城

JR笠置駅から笠置街道を1時間ほど歩くと上狭川城入口に着きます。

Googleマップで調べると上狭川城跡登城口があり、現地に行くと確かに山道があったので登り始めましたが、途中から山道が消え、ひたすら尾根道を探して、直登することになります。なんとか登りきると郭の搦手に出られました。この山道は郭に祠があり、この祠へ行くための行者道の名残だったようです。現在は反対側にきちんとした山道が整備されていて狭川東町公民館から登れるようになっています。帰りはこちらから降りました。ちなみに狭川東町公民館に館があったそうです。

上狭川城
上狭川城

■福岡氏
上狭川城は土豪・福岡氏の城です。福岡氏は清和源氏の流れをくみ狭川庄をおさめていました。戦国時代、山内一豊の家来になり関ケ原の戦いの後、山内一豊が土佐をおさめることになった時、随従して土佐へ。幕末に五箇条の御誓文を起草した福岡孝弟に続きます。

■上狭川城
この福岡氏の上狭川城は単郭ですが、歴史の変遷とともに虎口がえらいことになっていきます。最初は単純な虎口だったようですが、さらに技巧を加え連続した枡型になっています。堀底を進んで4回も方向転換しないと城にたどりつけないようになっていて、土塁から十字砲火をあびせられる鉄壁の守りになっています。

竜谷城

湖北の山城は雪に覆われているだろうと思い、大和朝倉へ。予想に反して、こっちの方が雪国状態になっていました。

竜谷城
竜谷城

この辺りは南朝側だった西阿が外鎌山城、赤尾城、外山城などを築いており登城済なのですが、調べると文献に登場しない山城が竜谷にありました。大和朝倉駅から朝倉台の住宅を抜けて登っていくと竜谷集落に着きます。ここの北東端の小道を登っていくと途中から山道になります。もちろん案内板も何もありません。ひたすら尾根を目指し、尾根沿いに山頂部分にまで登ると山城があります。

細長い単郭の城で堀や土塁跡が残っています。どうみても陣城ですね。永禄6(1563)年に多聞城を根城にした松永久秀が多武峰攻めを開始します。筒井氏、越智氏、根来衆などは多武峰と組んで反三好の姿勢をとっていました。飛鳥や多武峰に城がたくさん造られましたが、竜谷城もその一環だったのでしょう。文献に残っていないので、松永久秀側か多武峰川のどちらが造った城かは不明です。

鍵屋の辻

日本三大仇討ちといえば曾我兄弟の仇討ち、赤穂浪士の討ち入り、そして鍵屋の辻の決闘です。曾我兄弟の仇討ちは大河ドラマ「鎌倉殿の13人」でも登場しましたが、最近は北条時政による頼朝暗殺説が有効です。鍵屋の辻の決闘が行われたのは伊賀上野の西側で島ヶ原から伊賀上野の台地に上がる所で行われます。

鍵屋の辻
鍵屋の辻

LBGTじゃないですが、藩主を巻き込んだボーイズラブ(男色)が原因で、しかも横恋慕が招いた悲劇でした。紆余曲折があり渡辺数馬が仇討ちをせざるをえない立場に追い込まれてしまいます。剣術が未熟なため姉婿の剣豪・荒木又右衛門に助勢を頼みます。敵相手の河合又五郎も仇討ちは分かっていますが11人で移動しています。これを4人で待ち伏せして、見事に本懐をとげます。舞台となった場所は公園になっていて数馬茶屋が作られています。

忍者列車

伊賀へ行くなら伊賀鉄道です。昔、西岡たかしが上野市(うえのまち)というフォークを歌っていて、「私が訪ねた上野市(うえのまち)...桑町、茅町、広小路 も少しゆられて上野市」という歌詞がでてきます。1975年発売なんで50年ちかく前ですねえ。

伊賀鉄道
伊賀鉄道

2両編成ですが、時たま忍者列車が走っています。松本零士がデザインした列車で1997年に登場したので、もう25年になるんですねえ。

伊賀上野城

伊賀をおさめていた筒井定次は関ケ原の合戦で東軍側につくのですが、その後、家中で紛争が起こり、家康はこれを理由に筒井定次を改易します。筒井は豊臣恩顧大名で大坂にちかい伊賀を支配していたため、家康側近の藤堂高虎に替えて大坂方に備える意図がありました。

伊賀上野城
伊賀上野城

■藤堂高虎
近江の甲良町にある藤堂村の土豪出身で七回、主を変えたとして有名ですが江戸時代の封建的な考え方で戦国時代は当たり前でした。身長が190cmぐらいと大男で有名でした。慶長13年(1608)8月、徳川家康は、伊予の国をおさめていた藤堂高虎を、伊賀10万石・伊勢10万石、伊予2万石、合わせて22万石を与えて国替えさせました。

■伊賀上野城
家康は大坂包囲網を作るため、丹波篠山城、姫路城を大改造します。高虎も大坂を守る形の筒井古城を大坂に対峙するための城に大改造。西の大坂に向かって高石垣をめぐらしました。五層の天守閣を造る途中に暴風で倒壊してしまいましたが、大坂の陣が終わったため再建されませんでした。現在の天守閣は昭和10年に造られたものになります。藤堂高虎が亡くなったのは江戸の藤堂藩邸で伊賀上野に似ていたので上野という名前をつけ、これが東京の上野になりました。

筒井古城(伊賀上野)

伊賀上野城があった台地にはもともと平楽寺がありました。織田信雄が伊賀を拠点にするために丸山城の築城を始めた時、伊賀衆が平楽寺に集まり、完成前の丸山城攻撃を決定します。伊賀衆に攻められた丸山城は陥落。そこで織田信雄は信長に相談せず独断で伊賀に侵攻しましたが、伊賀衆に負けてしまいます。信長は親子の縁を切ると大激怒。

筒井古城(伊賀上野)
筒井古城(伊賀上野)

ただ伊賀をほっておくわけにもいかず、信長は大軍勢で伊賀攻めを行います。城になっていた平楽寺も落城し、伊賀はせん滅状態になります。翌年、本能寺の変が発生。天下を握った秀吉は大和の国を弟である羽柴秀長にまかせることにして、大和の筒井定次を伊賀に移すことにします。大和を支配した筒井順慶が有名で、「麒麟がくる」では松永久秀とのバトルをしていましたが、子供がいなかったため養子となった筒井定次が筒井家を継ぎます。

■筒井定次の伊賀上野城
天正13年(1585)に筒井定次が平楽寺のあった台地に伊賀上野城を築きます。これが筒井古城です。天守の東には城代屋敷跡があり、ここが筒井古城があった場所。藤堂時代の石垣を修理している時に奥から筒井時代の石垣が見つかっています。ここの北東に三層の天守閣がありました。江戸時代までは残っていましたが台風で倒壊したようです。この天守閣があった天守台に登れますが、案内も何もなく、少し藪をかき分けないといけないので、今まで登っている人を見ることはありません。

朝ドラ「舞い上がれ」ロケ地

朝ドラ「舞い上がれ」、舞台が東大阪ということもあり家の近所がよく出てきます。例えば主人公が浪速大学に入学するシーンで桜咲く川の横を通学で歩くシーンがありますが、これは花園ラグビー場近くの恩地川。隣には東花園駅に出る近鉄の車両基地があります。この道を歩いても近鉄電車で遮断されていて、「そんなとこ歩いても、どこへも行けまへんで」と朝ドラを見ながらつっこんでいます(笑)。

枚岡公園
枚岡公園

人力飛行機編では坂道を自転車で登る自主練習するシーンが出てきますが、これは枚岡公園への上り坂。私の散歩コースですがなあ。坂の近くに「森のおもちゃ箱」という滑り台などの遊具もあり週末は家族連れでにぎわっています。

ファイティング・コンサルタンツ忘年会

ファイティング・コンサルタンツ研究会の忘年会。場所はいつもの黒門市場にある寿恵廣で、昼間からいつものメンバーが集まり、これまた定番のブリシャブです。昨今の値上がりの影響をうけて価格は高めでした。

黒門市場
黒門市場

黒門市場、コロナ禍では誰も歩いていませんでしたが、今は7割ほど戻ってきています。すっかりインバウンドの街になり錦市場と同様に食べ歩きできる店が多いですね。ホタテやカニを店先で買って焼いて食べられます。

そうそう寿恵廣も、ずっと文字だけのお品書きでしたが料理の写真入りに変わっていました。ブリシャブを食べている時も隣は韓国人グループでした。以前からインバウンド客も入ってきていましたが、さすがに無視できなくなったんですかねえ。結局、4時間ぐらい食べたり飲んでいて、最後はお店の人に追い出されました(笑)

貝塚御坊の堀

本願寺は、けっこう引越しをしています。

貝塚御坊の堀
貝塚御坊の堀

本願寺はもともと京都の大谷にありましたが、戦国時代は宗教戦争の時代でもあったので延暦寺の衆徒によって破却されます。越前の吉崎に移り、やがて山科に本願寺を作ります。寺といいながら中身は城で、高い土塁や堀、郭から構成されていました。山科中央公園に今も当時の土塁跡が残っています。堅牢な城でしたが京都の日蓮宗徒と近江の六角定頼の連合軍によって攻められ焼かれます。

こうして移ったのが大坂の石山本願寺。ところが信長と敵対したことで10年にわたる戦いになります。信長は天王寺砦などを構築して攻めますが、なかなか決着しません。最終的には和睦となり本願寺は紀伊の鷺森に移ります。秀吉の時代になって貝塚に移り、これが貝塚御坊(願泉寺)になります。貝塚御坊も寺内町になっていて周りを堀で囲んだ環濠になっています。感田神社に堀跡の一部が残っています。

このあと貝塚から天満に移り、やがて京都へ戻ります。家康の時代になると勢力をそぐために西本願寺と東本願寺に分けられます。