「チョー、ヤバい」婆娑羅大名である佐々木道誉の城が勝楽寺城です。佐々木道誉が家臣である高筑豊前守に命じて応安元年(1368年)に築城しました。戦国時代になると六角氏が支配したり、浅井長政側になったりと城主が変わり、最終的には永禄11年(1568年)に織田信長が攻めて落城しました。

勝楽寺横からひたすら山道を登っていくと勝楽寺城へ着きます。山上に広い削平地の郭がいくつも連なり、近江を一望できます。また畝状竪堀群がありました。眺めがよく荒神山越しに琵琶湖や竹生島、彦根城もよく見れます。
「チョー、ヤバい」婆娑羅大名である佐々木道誉の城が勝楽寺城です。佐々木道誉が家臣である高筑豊前守に命じて応安元年(1368年)に築城しました。戦国時代になると六角氏が支配したり、浅井長政側になったりと城主が変わり、最終的には永禄11年(1568年)に織田信長が攻めて落城しました。

勝楽寺横からひたすら山道を登っていくと勝楽寺城へ着きます。山上に広い削平地の郭がいくつも連なり、近江を一望できます。また畝状竪堀群がありました。眺めがよく荒神山越しに琵琶湖や竹生島、彦根城もよく見れます。

結成から20年を迎えたファイティング・コンサルタンツという団体があります。結成当時はコンサルティング・ファームを目指していたはずなんですが、今は単なる酒飲み会ですねえ(笑)。

コロナ禍のため2年ほど実施できなかった、お花見をしてきました。場所はいつもの天満橋で、買い出しして、いつもの定位置に移動中です。
屋台は例年の1/3ぐらいしか出ていませんでした。11時ぐらいから飲み始め16時過ぎに解散したので5時間ほどと例年通りでした。
2022年4月1日
合同会社エムアイティエス
山城ドローンタクシー事業の開始
合同会社エムアイティエスでは皆様の山城ライフをサポートするために様々な事業展開を行っていますが、遂にドローンタクシーの運行を始めることになりました。

■事業のきっかけ
コロナ禍の影響でキャンプやグランディングが脚光をあびていますが、意外に伸びないのが山城登りです。竹田城や高取城などメジャーな山城は人気がありますが、道路が整備され、登りやすいという側面があります。山城の多くは山道があることも珍しく、藪を突っ切っていく、崖になっている切岸を登らないといけないなど苦労が伴います。そもそも山城を見に行くのが目的で、できれば山を登らなくてすめば、それにこしたことはありません。
■ドローンタクシーで山城へ
合同会社エムアイティエスでは山城ドローンタクシー事業をスタートします。
・ウェブで予約していただき山城の麓の指定場所までドローンを運びます。
・ドローンは自動運転ですので郭の位置を入力してください
・郭の周辺に木々がなければ郭の上空1mでホバリングしますので、その間に郭に降りてください。
・重量センサーで降りたことが確認されるとドローンは元の位置にまで戻ります。
・帰りは自力で山城から下山してください。
注意:郭に木々が生えている場合、郭の5m上空でホバリングしますのでドローン設置のロープで降りてください。
合同会社エムアイティエスでは、今後も皆さんの山城ライフを応援していきます。
越塚御門古墳(こしつかごもんこふん)

牽牛子塚古墳に隣接し2010年に発見された古墳です。整備のために牽牛子塚古墳周辺の発掘をしている時に見つかりました。牽牛子塚古墳が八角形の墳丘で、しかも石室が2つあった合葬墓から斉明天皇と娘の間人皇女が被葬者と考えられていますが、日本書紀に「皇孫太田皇女を、斉明陵の前の墓に葬す」と記載されているので、牽牛子塚古墳の目の前にある越塚御門古墳の被葬者は太田皇女でしょう。
■太田皇女とは
太田皇女とは斉明天皇の孫娘となり、天智天皇の娘で、後の持統天皇の姉にあたります。大津皇子のお母さんですね。持統天皇は息子である草壁皇子を天皇とすべく、競争者だった姉の子である大津皇子を謀反の疑いで殺してしまいます。太田皇女は大津皇子が4歳頃に亡くなっていて後ろ盾になりませんでした。ドロドロとした「天上の虹」の世界です。大津皇子の墓は二上山上にあるとされていますが、謀反人を山上に葬るとは考えにくく、麓の鳥谷口古墳ではないかという説があります。
牽牛子塚古墳(けんごしづかこふん)

以前に行った時は竹林の中にある土の山の古墳でしたが、きれいに公園として整備されました。牽牛子はアサガオの別称で八角墳の形がアサガオに見えるところから名づけられました。最初は円墳と思われていましたが、天皇しか使えない八角墳ということがわかり、しかも石室が2つあるところから日本書紀に記載されている斉明天皇・間人皇女の合葬陵と考えられています。
斉明天皇といえば中大兄皇子のお母さんです。乙巳の変では襲われた蘇我入鹿が天皇の前にすすみますが、とどめをさされました。白村江の戦など朝鮮情勢などに振り回された時代です。斉明天皇は九州へ出兵した時に那の津(福岡)にて急死しています。
斉明天皇は多武峰に両槻宮を作り、また運河を掘るなど土木工事が相次いだため、掘った溝は後世に「狂心の渠」と揶揄されました。明日香に残る亀形石造物や酒船石は斉明天皇の時代に造られています。そうそう大阪の四天王寺にあり、今も現役で使われている亀形の石造物がこの酒船石と同時代のものです。
大阪府よろず支援拠点のお仕事で東大阪商工会議所へ行ってきました。まずは第1部として 「ローカルメディアとは~その効果と活用法~」でセミナーを行い、第2部は 「パネルディスカッション~ローカルメディアそれぞれの特長と活用法~」です。

パネリストは週刊ひがしおおさか、 東大阪経済新聞編集部、関西ぱど 東大阪支局 、ジェイコムウエスト 東大阪局で一応、用意しておいた質問は3問だったのですが時間が余ったので、いろいろと質問させていただきました。会場には河内新聞社さんも来られていました。
軽便鉄道だった吉野鉄道が走り始めたのが1912年(大正元年)。国鉄吉野口駅から吉野駅(今の近鉄六田駅)間で開業します。

吉野の木材輸送と観光客を運ぶための鉄道でした。吉野口駅からは山岳鉄道のようにひたすら坂を上っていきますが薬水駅を出発してすぐのところに薬水拱橋があります。開業した大正元年にできた煉瓦積みの2連アーチ橋で、現在も現役です。鉄道橋で現在は近鉄吉野線が走っています。
道路と水路で併用されている珍しい構造で、土木遺産になっています。鉄道橋なのに扁額がかかっていて、この地区の入口を表すように「薬水門」と書かれています。

【下市御坊峯城】
吉野に願行寺という一向宗の寺院があり下市御坊と呼ばれていました。東側にある本善寺(飯貝御坊)とともに一向宗の拠点でした。

天正6年(1578年)、播磨の別所長治が信長を裏切り、三木合戦が始まります。また摂津の荒木村重も信長から離反。荒木村重は足利義昭、毛利、石山本願寺と手を結んで信長に対抗します。信長は各個撃破するしかなく、その一環で筒井順慶に命じて吉野の一向宗の拠点だった願行寺、本善寺ともども焼き討ちにします。
願行寺(下市御坊)の裏山にそびえる峯に造られたのが下市御坊峯城ですが陣城ではなく吉野を安定させるために筒井順慶が後で造った城のようです。今、郭の一部は畑になってしまいましたが、広い郭がいくつもあり、かなりの人数を格納することができる城でした。