深野池にあった三箇城

三箇城
戦国時代の大阪東部には深野池(ふけのいけ)という大きな池があり、現在の寝屋川市南部、門真市東部、大東市中央部、東大阪市北部、四條畷市西部に拡がっていました。もともとは神武東征の時代にあった河内湖の名残です。江戸時代に大和川の付替が行われ、深野池はだんだん縮小し、今ではふつうの池になっています。
■三箇城
深野池は淀川などとつながっていますので港がありました。上方落語「野崎参り」に屋形船のシーンが出てきますが、近年まで船運が使われていました。三好長慶の時代も港があり、飯盛山城の支城が深野池の島に造られます。それが三箇(さんか)城。池に3つの島があったことから三箇と名付けられ、最も大きかった大箇島に城は造られました。
岡山城や城と同様に河内キリシタンの拠点でした。朝廷から伴天連追放令が出た時に京都から逃れてきたビレラやフロイスが数か月滞在したのがこの三箇にあった教会です。フロイスはローマに「教会は水に囲まれた小さい島にある」と報告しています。城主は三箇頼照でキリスト教の洗礼を受けサンチョと名乗りますが、敬虔なキリシタンとして修道士の間でも有名でした。畿内一大きかったと言われる三箇の教会では盛大に復活祭(イースター)もやっていたそうです。劇も行われ見物客が3000人もいたと記録されています。
■明智光秀に味方
三箇頼照の息子になった時代、”河内国の半分をやる”といった条件にのって明智光秀に味方してしまいました。結局、秀吉に領地などを没収され三箇頼照と息子などは追放されることになり教会も破壊されてしまいました。
三箇城跡は残っておらず、現在の三箇菅原神社付近にあったようです。

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