Zoom世代が社会へ

コロナ禍で、ほとんどの大学では前期がオンライン授業となりました。登校禁止となり新入生なのに1回もキャンパスに通学したことがない学生もいて、大学としては順次、密にならないよう通学させるフォローをしています。

大学ではコロナ禍が落ち着く後期から対面授業できると期待していましたが、クラスターとなる大学が複数、出たこともあり平常授業に戻すのは難しい状態です。後期は密となる教室での授業はオンライン、密にならない実験やゼミは対面とハイブリッド型で動いています。

来年度はこのオンラインが当たり前という環境を経験した大学生が社会に入ってきます。J-Mottがんばる企業応援コラムです。

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海石榴市

海石榴市と書いて「つばいち」と読みます。

海石榴市
海石榴市

大坂の港から付け替え前の大和川を遡っていくと三輪山の麓につき、ここに港がありました。近くには欽明天皇の宮もあり、飛鳥もすぐ近くです。港の近くなので物資が多く集まり、海石榴市という市がありました。

万葉集には市を題材にした歌も出てきます。「海石榴市の八十の街に立ち平し結びし紐を解かまく惜しも」で、意味は市のいくつにも道が分岐する辻で、互いを紐で結び合い、踊りに踊るが結び合った紐を、今解くのは惜しい、のような感じです。Shall we ダンスの世界ですね。

■歌ができないとモテない時代
合コンがあり、当時は歌垣と言って歌を交わして想いを伝えました。ということは歌ができることがモテるための必須条件でした。でも、絶対に代作を頼んで必死で覚えたやつがいるでしょうねえ。

万葉集には東歌、防人歌が出てきますので、歌は庶民の基礎教養だったのでしょう。

仏教公伝

「仏教 伝来 ご参拝」で覚えた538年。仏教公伝の年で、552年説もあります。百済の聖明王が倭の国に使者を使わし、仏像や経典などを欽明天皇に伝えました。難波津に着いた聖明王の使者が大和川を船で上り海柘榴市に上陸したということで三輪山の麓に仏教公伝の碑が建っています。

仏教公伝
仏教公伝

物部氏・中臣氏などの神道派は仏教の受容に否定的で、かたや蘇我氏は受け入れ派となり、崇仏・廃仏論争が起きます。これが発展していって蘇我馬子・聖徳太子連合軍が物部守屋を滅ぼします。というのが通説でしたが、どうもマユツバモノのようです。

物部守屋の本拠地は河内の渋川で、今の八尾市ですが氏寺である渋川廃寺が見つかっており、崇仏・廃仏論争よりも権力闘争&外交の進め方での対立だったようです。

尼崎

阪神尼崎駅すぐ近くにある商店街は日本一早いマジック点灯で有名です。もちろん阪神タイガースの優勝マジックで、商店街は阪神タイガースカラーになっています。

尼崎
尼崎

尼崎の略称はアマで、かっては、ひったくり件数・兵庫ナンバーワンと散々な街だったんですが、近年は関西住みやすい街、第1位になったりしています。ほんまかいな~あ。尼崎は大阪から淀川を渡ればすぐですし、市外局番は大阪と同じ「06」。三宮へ行くより梅田へ行く方が近く兵庫県という意識が希薄です。

尼崎は北から阪急、JR、阪神と並行して走っていて阪急沿線といえば塚口、武庫之荘と高級イメージですが、南になればなるほど庶民的ですね。阪急、阪神は経営統合しましたが、やっぱり阪神の雰囲気は阪急のマリンブルーとは全然ちゃいますなあ。

理論更新研修

中小企業診断士試験の更新要件に理論更新研修があります。

理論更新研修
理論更新研修

受付開始の翌日に申し込もうとしたら、既に満杯。コロナ禍の影響で会場が密にならないように収容人数が減ったことが影響しているようです。ということで次は受付開始日の9時前からパソコンの前に陣取って時計とにらめっこ。9時になってすぐにエンターキーを押したら受付1番目をゲットできました。

会場は大阪商工会議所でしたが、机一つに座席一つで、そらすぐ満杯になるはずです。大阪商工会議所では、いろいろな研修が行われますが開催は理論更新研修だけでした。

ITがテーマで吉田さんと山口さんが講師でなかなかな面白かったですが、いつものようにグループワークができず、講師も大変ですねえ。

三月書房 閉店

日経新聞・朝刊の「交遊抄」(私の履歴書の下)を読んでいてビックリ!三月書房が6/10に閉店していたんですね。それがオシャレな閉店で顛末が掲載されていました。

三月書房は寺町御池を上がったところにある小さな新刊書店です。見た目は古本屋さんなので、よく間違って入る人がいます。私もウン十年前に古本屋だと思って入りました(笑)。

小さな本屋なんですが、店主が特定ジャンルの本を集めていて、ジャンルにはまっている人が三月書房に入ると、たくさんの本を買わざるをえないアリ地獄のような本屋さんです。初めて入った時、10冊ぐらい買って店を出た途端に重さに気がつき、すごすごと下宿まで持って帰った思い出があります。

三月書房のすぐ近くにあった八百卯は梶井基次郎の小説「檸檬」に登場する名店でしたが、こちらもだいぶ前に閉店しました。寺町通りを歩く楽しみが減ってしまいました。

廣徳寺(尼崎)

城下町には大概、寺町があります。

廣徳寺
廣徳寺

京都の寺町通りは秀吉が京都の大改造をした時に80以上の寺院を集めた名残です。寺院は兵が駐屯できる土地と塀があるので寺をずらっと並べると防備するのに最適でした。伊賀上野の寺町通りなど各地にあります。大坂では江戸時代に上町台地に四天王寺にかけて寺町が作られました。

尼崎にも戸田氏鉄が尼崎城築城時に寺院ばかりを集めて作った寺町があり阪神・尼崎駅を電車が出ると南側にずらっと並んだ寺を見ることができます。この寺町にあるのが廣徳寺、もともとは大物にありましたが寺町を作る時に移されました。

廣徳寺が大物にあった時、大物崩れで負けた管領・細川高国は敵対した細川晴元と三好元長にこの寺で自害に追い込まれます。秀吉が中国大返しで山崎に行く途中に立ち寄って休息した寺とも言われています。

尼崎城

戦国時代、織田信長と戦った荒木村重が毛利の助けを求めるために伊丹にあった有岡城から逃げ込んだ先が大物城。大物城の近くに尼崎城が造られます。

尼崎城
尼崎城

元和3年(1617)に戸田氏鉄(徳川家康の近習)が入り、新しく尼崎城を築城しました。5万石でしたが3重の堀をもち、本丸には複合式の四重天守などが造られました。明石城、尼崎城、高槻城が防衛の要になる城で、また海運を抑えることから立派な天主が造られたようです。瀬戸内を航行する船のランドマークになっていました。

尼崎城の本丸は昭和時代になっても痕跡が残っていましたが、今は明城小学校の敷地となり堀も埋め立てられてしまいました。ミドリ電化の創業者が尼崎出身で天主を復元しましたが、場所は尼崎駅のすぐ近くで昔の西三之丸になります。5階建てで一番上は展望台。展望台からは昔の城下が眺めら、尼崎城の歴史が学べるようになっています。

船弁慶

大物を舞台にしたのが能の船弁慶。源義経、武蔵坊弁慶、静御前、平知盛が登場する能です。この能を題材にした上方落語もあります。今では埋め立てられて信じられませんが大物浦は西国への船の表玄関でした。

義経・弁慶
義経・弁慶

■船弁慶
頼朝と不和になり義経は都落ちを決意して弁慶以下十余人で摂津の大物浦に着きます。ここで静御前を都に返すことになり、静御前は同行をあきらめて離れます。さて大物浦から船出すると、外海は大荒れに。そこへ平知盛の幽霊があらわれますが弁慶が数珠で祈ることで鎮めます。

■実際は
実際のところは頼朝と敵対した義経は九州で再起しようと大物浦から船出しましたが、途中暴風のために摂津に押し戻されてしまいます。これで再起は無理となり、吉野に逃げ込みますが静御前が捕らえられ、最後は奥州・平泉を目指します。当時の大物浦は大物主神社のすぐ近くまでが海になっていて義経主従は神社横にあった宿屋に逗留していたと伝わっています。。

大物城

大物崩れで大敗した細川高国が逃げ込もうとしたのが大物城です。ところが相手の動きが早く、入れずに尼崎の藍染屋にあった瓶の中に隠れていたところを捕まって自害させられたと伝わっています。

大物主神社
大物主神社

大物城の場所は分かっていませんが江戸時代の絵図に尼崎城本丸北東方に古城跡と記載されており、現在の大物主神社一帯と推定されています。城といっても柵で囲んだ簡易的な平城だったようです。大物には大物浦という港があり、交通の要衝でした。

大物主神社は三輪山の神様である大物主神を祭っていますが太田田根子の後裔である「鴨部祝(かもべのはふり)」が祖神をここに祀ったのが始まりと言われています。