室町通りにある小さな社です。
福長神社ですが、もともとは宮中の神祇官西院に祀られていた神さまです。秀吉が聚楽第を作る時か壊す時に現在地に移ったとありますが、織田信長が上杉謙信に贈った「洛中洛外図屏風」には現在の場所に福長神社が確認されるとあります。ということで洛中洛外図屏風をずっと見てみたのですが、どこにあるか分かりません。
洛中洛外図屏風は、もともと剣豪将軍として有名な足利義輝が狩野永徳に発注したものです。足利義輝は三好一党に殺されてしまったので、信長が上杉に”よいしょ”するために送ったものです。つまり室町幕府時代には室町通りに福長神社があったことになります。今は小さな通りですが室町通りといえば幕府に面したメインストリートでした。昔は大きな社でしたが火事で焼失してしまい、今は小さな祠がある神社になっています。
月: 2021年10月
カンブリ
大学受験が華やかな頃、京都にあったのがカンブリ(関西文理学院)という地元の予備校です。本部の建物がまだ健在でした。
かって京都人文学園という民間教育運動がありました。スタートしたのは第二次世界大戦直後の1946年です。
■京都人文学園
一般教養を中心に自由な校風だったようです。「行動する思考人」の育成を目指していました。生徒が自治して、男女共学、無試験、無規則で革新的な教育を行っていたそうです。自由学園とも関係があり、旧制高校みたいな雰囲気ですかねえ。ただ学園を続けるのは大変だったようで1950年に閉校になりました。
■関西文理学院
ただ働いていた青年たちが教育理念を受け継いで夜間部を発足させ、これが社団法人京都勤労者学園となります。また赤字を解消するために1951年に予備校を創設。これが関西文理学院へと続きます。
京都人文学園の初代学園長は新村猛で、あの広辞苑を作った人物です。学園本部に当時の資料がいくつかあり、新村猛の自筆を見た時は感激しましたねえ。あの資料は長浜バイオ大学に引き継がれているのでしょう。
バイオカレッジ京都(立命館・広小路キャンパス)
関西文理情報会計専門学校から少し南にあったのがバイオカレッジ京都。現在は長浜バイオ大学・京都学舎になっています。
もともとは関西文理学院・広小路校という予備校があったのですが、浪人する学生が減ったこともあり鞍馬口校に集約し、宝バイオと提携して作ったのがバイオカレッジ京都です。今は長浜バイオ大学になっています。
■「二十歳の原点」の舞台
もっと遡ると立命館大学・広小路キャンパスがあった場所で、たぶん学生会館でした。広小路キャンパスには法学部、文学部、産業社会学部があり、学生運動、華やかりし頃で高野悦子「二十歳の原点」の舞台です。
と言っても古い本なので知らない人も多いでしょう。勤めていた学園の上司が高野悦子の同級生だったという話を聞いたことがあります。出町の「ほんやら洞」や荒神口の「しあんくれーる」も無くなってしまいましたね。
関西文理情報会計専門学校
独立する前に勤めていたのが関西文理情報会計専門学校。今はなくなってしまい跡地は帝国データバンクになっています。河原町今出川を少し下ったところで出町輸入食品の近くです。
コンピュータと簿記を教える専門学校で、当時は情報処理技術者試験・第2種と第1種合格を目指すコースでした。言語はCOBOLやC言語などで汎用機での実習もやっていましたね。途中で京都国際ビジネスカレッジという名前になり最後はビジネスカレッジ京都という校名でした。
昼からの授業に出てこない学生を近くのパチンコ屋に見に行くこともありましたね。「先生、フィーバーしちゃって、やめられません!」「お前な~あ。」
10年ほど勤め、後先考えずに独立してしまいました(笑)。
秀吉が最後に造った京都新城
■秀吉が最後に造った京都新城
去年、京都・仙洞御所内で発掘調査が行われ京都新城の石垣や堀跡などが見つかり大ニュースになりました。秀吉が最後に造った城で、秀頼を公家武士として生き残らせるために作った等、色々な説が出ています。
関ケ原の合戦の1年前、大坂城西の丸に徳川家康が入りますが、入れ替わりに西の丸に住んでいた高台院(秀吉の奥さん)が京都新城に移ります。関ケ原の合戦前に戦闘に使われるのを防ぐために京都新城の防御施設が破棄され、高台院は退去します。
石田三成が関ケ原を一望できる玉城に豊臣秀頼を総大将として迎える予定でしたが、大坂方で秀頼出陣を反対する層が壊したという説もあります。立花宗茂らが大津城を攻め、関ケ原の合戦に間に合いませんでしたが、京都新城を中継として使えないので大津城は落とすしかなかったですね。
■京都新城の解体
関ケ原の戦いの後は、京都新城に、また高台院が住みました。高台院が亡くなり、後水尾天皇が譲位で仙洞御所を作る時に解体されます。西本願寺にある飛雲閣は聚楽第からの移築と考えられていましたが、どうも京都新城の解体によって移築されたようです。これで京都新城は幻の城になってしまいます。
山辺の道・北コース
山の辺の道は日本最古の道として有名です。奈良盆地の東縁を巡る道で古代にあった奈良湖を避けるために標高が高い山裾を巡ったと言われています。もともと天理の布留遺跡と纏向遺跡を結ぶ道が卑弥呼の時代からあったようです。
山辺の道・南コース(海石榴市~布留遺跡)はたぶんこの古代の道らしいのですが、北コース(布留遺跡~春日)はどうですかねえ。天理の北、シャープ奈良工場の近くに櫟本(いちのもと)という場所があり、和爾下神社があります。ここか法隆寺付近までまっすぐに西に向かっていたのが北の横大路です。どうも山辺の道があったのは、このあたりまでで北の横大路と接続していました。
山辺の道・北コースは、あるとしたら上ツ道(現在の169号線)の東側にある高畑山線(バス通り)ぐらいですが、ハイキングコースということでかなり山を回り込む道になっています。
弘仁寺
「山の辺の道」をずっと歩いていくと山の中腹に弘仁寺があります。弘仁5(814)年に弘法大師が創建したと伝わっていますが本当のことは分かりません。平安初期にはできていたようです。戦国時代には、松永久秀の大和攻めで伽藍の大部分が焼失してしまい。現在の伽藍は江戸時代に再興されたものです。
鄙びたお寺で入山料としてセルフで200円を入れるシステムになっています。見どころは本堂と明星堂なんですが、山門を出て駐車場じゃなく階段を降りる道を歩いていくと暗い場所に奥の院があります。ここに閼伽井戸があり、弘法大師が三鈷杵で掘ったという話があります。眼病にきくんだそうです。
石上大塚古墳
天理から桜井を目指す山の辺の道・南コースは見どころも多く人気のコースですが、天理から奈良を目指すコースは地味なこともあり歩いている人はほとんどいません。
さて天理から山の辺の道を歩いていくと藪の中にあるのが石上大塚古墳。案内板から20mほど登ると石室がありました。天井石などは失われた状態です。
■石上大塚古墳の被葬者は誰?
石上大塚古墳は全長107mある前方後円墳で100mほど離れた反対側には少し大きいウワナリ塚古墳があります。石上大塚古墳が造られたのは6世紀後半で、ウワナリ塚古墳より若干遅れて造られたようです。少し離れたところに別所大塚古墳がありますが、石上大塚古墳、ウワナリ塚古墳、別所大塚古墳の3つは物部氏の首長墓だったようです。
6世紀後半となると蘇我馬子&連合軍が物部守屋を攻めた587年頃ですね。これで河内の物部守屋一党は滅びましたが、一族の石上氏が物部氏の本宗家になることになります。3つの古墳の被葬者は分かりませんが、物部贄子(物部尾輿の子供で物部守屋の弟)あたりですかねえ。石上贄古という名前もあり、娘が蘇我馬子の奥さんになっています。
排仏派、崇仏派の戦いと昔の日本史では習いましたが、そんな単純なものじゃなく半島情勢や権力闘争など複雑怪奇だったようです。