決戦はいつも岐阜

決戦はいつも岐阜

関ケ原に「決戦はいつも岐阜」という旗がありました。

関ケ原は関東と関西のはざまで東西の勢力がぶつかる点でもありました。有名なのが石田三成と徳川家康が激突した関ケ原の戦いですが、大海人皇子と大友皇子が戦った壬申の乱でも決戦の舞台となります。ちなみに壬申の乱の翌年に不破の関が設けられます。

承久の乱は後鳥羽上皇が北条義時の追討を命じますが、鎌倉軍と激突し摩免戸の戦い、杭瀬川の戦いで敗れます。大河ドラマ「鎌倉殿の13人」でも描かれていました。杭瀬川は関ケ原の戦いでも島左近が前哨戦として戦い、徳川軍に一泡吹かせました。

旗には青野原の戦いはのっていないんですね。少年ジャンプで「逃げ上手の若君」が連載していますが、ちょうど青野原(関ケ原)の戦いが描かれています。奥州から北畠顕家が率いる南朝方が土岐頼遠ら北朝方の軍勢と激突し、最終的には勝利しますが、最後は堺で行われた石津の戦いで戦死します。北畠顕家は20歳の若さでした。

脇坂安治陣跡

脇坂安治陣跡

松尾山城の麓にあるのが脇坂安治陣跡。

土塁に囲まれた郭跡があり、かなりの軍勢が駐屯できましたが、小早川秀秋が攻めてきたら、あっという間にやられますね。

脇坂安治は賤ヶ岳の七本槍の一人で、洲本藩主になった時に壮大な山城・洲本城と造ります。脇坂安治は家康側でしたが大坂にいた時に石田三成が挙兵したために、やむをえず西軍として参加します。小早川と一緒に西軍を攻め、家康も事情は分かっていたようで戦後処理でも所領は安堵になりました。脇坂家は龍野をおさめることになり明治まで続きますが、おかげで古文書が伝わり、最近、秀吉と脇坂安治がやりとりした文章が見つかります。

伊賀をおさめていた脇坂安治に京都御所造営の材木調達なんかより戦働きしたいとサボっていると、しっかり材木を出せと叱責している秀吉の手紙です、子飼いのきやすさが伝わる手紙になっています。

ファイティング・コンサルタンツ研究会 新年会

道頓堀ホテル

ファイティング・コンサルタンツ研究会の新年会。

会場はインバウンドで賑わう道頓堀にある道頓堀ホテルです。このホテルは入口の顔面柱が有名で、観光客がよく撮影をしています。宿泊客のほとんどはインバウンドですが、個室で宴会ができるプランがあるんですね。研究会も高齢化しているので、土曜日のお昼に新年会です。ファイティング・コンサルタンツの名付け親が中小企業診断士&ハンターという異色の人物で、鹿のジビエも持ち込んでいましたが、これがなかなかの美味でお酒によくあいます。

今年も研究会とは名ばかりで飲んで過ごす1年なんでしょうね。とりあえず花見の日程は決定しました。

人出不足

ねぎ坊主

大阪府よろず支援拠点の事例発表会が終わってから、打ち上げで「ねぎ坊主」へ。料理がおいしいお店なんですが、お店はてんてこ舞い状態。最初は店主一人でまわしていて途中からスタッフが1名増えましたが、2名で30人ちかくをさばくのは、なかなか大変。

最近、飲食店でバイトやパートが集まらないという話をよく聞いており、いずこも人手不足ですね。先日、行った日本橋の喜多方ラーメンでは、ほとんど外国人スタッフが働いていました。

松尾山城

松尾山城へ

松尾山城

小早川秀秋が本陣をおいていた城で、主郭からは関ケ原が一望できます。松尾山城は廃城になっていた城を修復して使ったもので、主郭の周辺には5つの郭があり、かなり技巧的で見ごたえあります。関ヶ原の戦いでは松尾山城には伊藤盛正が入っていましたが、小早川秀秋が追い出して入城します。

■不遇だった秀秋
小早川秀秋は秀吉の甥っ子で豊臣秀次につぐ後継者候補でした。ところが秀頼誕生によって運命が狂わされます。毛利一族の小早川家に養子に出され、秀吉に領地を減らされたり散々な目にあいます。そら豊臣家には恩よりも恨みの方が強いでしょうね。

決戦日前日に1万5千もの軍勢を松尾山城へいれます。関ケ原には大谷刑部しかおらず、大垣城を守っていた石田三成ら西軍の面々は小早川に対抗するため、関ケ原へ移動します。戦いが始まると小早川秀秋は日和見をして、家康に鉄砲を打ちこまれるシーンがドラマに出てきますが、実際はさっさと東軍についていたようで、ただし山を下るのに1時間ほどかかります。小早川勢に向けて陣を構えていた大谷刑部は攻撃を跳ね返しますが、結局は破られてしまいます。

関ケ原勝利の立役者になり岡山55万石となりますが、無類の酒好きで子供の頃から飲んでいたため22歳の若さで病死しています。無嗣断絶だったため小早川家は改易となりました。

カンボジア自転車プロジェクト2023

カンボジア自転車プロジェクト2023

知り合いの安田さんがクラウドファンディング(Ready For)を活用し、毎年カンボジアの子供たちに通学用自転車をプレゼントしています。2023年12月に現地に行かれた報告が写真とともに届きました。合同会社エムアイティエスでも修理クラブへのパーツ補給を毎年、支援しています。

■カンボジア自転車プロジェクト
カンボジアの農村エリアに住む子どもたちにとっては学びたくても学校が遠く、片道10キロ~15キロも離れています。自転車は裕福な家庭でないと手に入らず、およそ40%の子どもたちが、片道3時間の道のりを朝早く出かけ、夜の遅い時間に歩いて通学しています。自分の人生を変えたいと思っている子供たちに自転車&修理キットを送る取組で2016年に立ち上がりました。

中古自転車を日本からコンテナで送ると送料は大変なんで、現地のNGOが中古自転車市場で防犯登録が貼ってある自転車を探し出して購入しています。日本の中古自転車は丈夫なのです。円安で大変でしたが2023年度は自転車305台、新しい自転車修理用のクラブ3カ所、既設35カ所の修理クラブへのパーツ補給ができたそうです。

播磨白山城

播磨白山城

書写山円教寺の大講堂、食堂、常行堂で帰る観光客が多いのですが、ここから白山権現を目指して、もうひと登りします。頂上にあるのが十地坊跡という開けた場所で土塁や2つの郭跡などが残っています。ここが秀吉と黒田官兵衛が本陣をおいた白山城です。

天正6年(1578)3月、三木城の別所長治が織田信長から毛利方に寝返ります。4月、尼子氏再興のために山中鹿之助が上月城を守っているところを毛利氏が攻めます。秀吉は後詰をしようとしましたが、うまくいかず信長の命令で上月城の救援をあきらめ書写山に入ります。翌月に上月城は落城。山中鹿之助は毛利に連行される途中で殺されます。9月には荒木村重が信長を裏切り、説得するために伊丹城へ向かった黒田官兵衛が幽閉されることになります。大河ドラマ「軍師官兵衛」でやっていましたね。

東に別所氏、西に毛利氏に挟まれる状態で両方に対応できるよう書写山に陣を構えます。北側の眺めがよく、真正面の城山山頂に築かれいる置塩城を見ることができます。赤松氏の居城でしたが、秀吉に降伏しました。

確定申告2024

確定申告

朝から支払調書など、いろいろと書類を揃えてパソコンの前に座り、確定申告を開始します。財務諸表の数字があわないのに、まず悩み、次に所得税の計算。ようやく申告書ができあがってE-Taxで送信。

今年度はインボイスも始まっているので10月~12月の売上を確定して消費税の計算。とりあえずは2割特例での申告です。ペイジで支払って終了。ようやく終わりました。

書寫山圓教寺

書寫山圓教寺

姫路・書寫山にある古刹です。室町時代の大講堂、食堂、常行堂が残っていて重要文化財になっています。食堂の建立は1174年(承安四年)ですので保元・平治の乱(源平合戦)の前ですね。雰囲気抜群なので多くのドラマや映画のロケ地になっています。特に有名なのがトム・クルーズ、渡辺謙、真田広之、小雪らが出演した映画「ラストサムライ」です。

■ラストサムライのモデル
幕末に私人として幕府軍に協力していたフランス軍人がいました。30年ぐらい前に読んだ本の巻頭に写真が掲載されていて、函館戦争の前に洋服の軍服を来た日本人に交じってフランス人士官4名映っている写真です。本はこの写真を元にフランス人士官を捜索する物語です。歴史が掘り起こされて、詳細が分かるようになりましたが幕府軍の指導にきていたブリュネ砲兵中尉です。

戊辰戦争となりフランス公使らが帰国するなか、ナポレオン3世あてに辞表を提出し、榎本武揚など幕府軍とともに転戦し、五稜郭の戦いにも参加しています。幕府軍が陥落する前に箱館港に停泊中していたフランス軍艦で脱出、フランスに連れ戻されます。軍事裁判ものでしたが騎士道をつらぬいたブリュネへのフランス国民の後押しがあり最終的には軍に戻れます。

■南北戦争で日本人が参戦していた!
戦いにはいろいろな側面があるんですね。「南北戦争を戦った日本人」(筑摩書房)も面白かったですよ。吉田松陰がアメリカに密航しようとして捕まった事件が有名ですが、実際に密航したケースや遭難で海外にわたっているケースがありました。また咸臨丸からも3名が行方不明になっています。水夫クラスで西欧の進んだ姿をみたのが原因かもしれません。

■屋根瓦の落書き
天文24年(1555)瓦職人が落書きしたもので甚六なる男の成仏祈願をしたもので、どうも同性愛のようです。

三田城

三田城

三田城の城主は赤松氏、有馬氏、荒木氏と変わり戦国時代は信長に敵対した荒木村重の甥が城主でした。秀吉は三田城の周りにいくつもの附城を築いて三田城を包囲し攻め落とします。江戸時代となり城主となったのが九鬼氏です。そう志摩を本拠地として九鬼水軍を率いた九鬼氏です。九鬼嘉隆は水軍らしく海に大手門を開いた鳥羽城を造り、信長・秀吉の戦いに貢献しました。関ヶ原の戦いでは真田などと同様。生き残りをかけて九鬼嘉隆は西軍、息子が東軍につき家中が分かれます。

そうやって家を守りましたが九鬼嘉隆の孫の時代に兄弟間で跡目争いが起こります。九鬼氏は鳥羽を失い、丹波綾部と摂津三田にそれぞれ転封されます。どちらとも海のない土地ですので幕府としても戦争がない時代になったので水軍はもう不要だろうと考えたのかもしれません。

三田城の中心部分は三田小学校の敷地になり遺構はほとんどありませんが、街中に堀跡などが残っているのと、けっこう面白い高低差を楽しむことができます。そうそう白洲次郎の墓が三田にあって、もともと三田藩の儒学者の家柄だったんですねえ。