”今福の戦い”で豊臣方と戦った佐竹義宣は佐竹氏19代、佐竹氏は常陸源氏の嫡流で名門でした。本貫は常陸国久慈郡佐竹郷(茨城県常陸太田市)で、鎌倉公方や足利将軍家との争いに巻き込まれながら常陸を中心に戦国大名へと育っていきます。
当主の佐竹義宣は石田三成に近かったですが、関ヶ原の戦いでは家中での意見がまとまらずに中立的な態度をとります。これが問題となったのか徳川家康から突然、出羽国秋田郡への国替えを命じられ、先祖伝来の常陸を離れることになりました。国替えの原因は諸説あります。
この後、大坂冬の陣で上杉景勝と共に最前線を任せられ鴫野・今福の戦いに臨みますが、この時の陣跡が現在、若宮八幡大神宮となっています。江戸時代は国替えもなく明治維新を迎えますが、幕末はいろいろと事件がありました。まず平賀源内が遠近法などの蘭画の手法を伝えたところから生まれたのが秋田蘭画でなんと藩主までが蘭画を描いています。戊辰戦争では平田篤胤が秋田出身ということもあり尊王の意識が強く、最初は奥羽越列藩同盟に加わっていましたが離脱して新政府軍に参加、怒った仙台藩と秋田戦争を戦うことになります。