鉄道マニアの聖地 桑名駅近くの踏切

kuwana20130722.jpg桑名駅のすぐそばに三岐鉄道北勢線の西桑名駅があります。この西桑名駅を過ぎて、ステーションホテル桑名のちょっと先に行ったところに人と自転車が通れる小さな踏切があります。 

この何のへんてつもない踏切が鉄道マニアの聖地です。踏切の一番、東側を走っているのが三岐鉄道北勢線。ナローゲージ(762mm)という昔の軽便鉄道の線路の規格でとっても狭い幅の線路があります。今やナローゲージで現役の電車が走っているのは、この北勢線と四日市から出ている近鉄内部・八王子線しかありません。 

真ん中を走っているのがJRで、JRの軌道は狭軌(1067mm)。一番西側を走っているのが近鉄で、近鉄の軌道は広軌(1435mm)で新幹線と同じです。 

この桑名駅近くの踏切ではナローゲージ、狭軌、広軌の3つをいっぺんに渡れるという日本でただ一つの踏切。北勢線はこの踏切を過ぎると大きくカーブ―してJRと近鉄を橋脚でまたいでいきますので線路が3つ揃うのは、この踏切しかありません。 

地元・桑名の人もなかなか知らない聖地です。 

桑名商工会議所でセミナー

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    桑名商工会議所でセミナーを開催。タイトルは「タブレット型コンピュータを 使って会社のレベルを上げよう」で、先日、奈良で行ったセミナーとよく似た内容になりました。 

    桑名は最初からタブレットやスマホの話という依頼で、奈良は複数候補のなかから選んでもらいましたが、結局、同じような内容になりました。重なる時には重なるものですね。 

    タブレットの使い方などの技術的な話ではなく、主眼は世の中がスマホやタブレットありきで変わっていく中、自社のビジネスモデルを見直さないと大変になるという内容です。 

    ようやくセミナーが終わり、近鉄特急で大阪へ向かっています。 
    セミナーは20時に終わったのですが特急が20:47発までなかったので、近くの焼き鳥屋さんへ行って、時間まで飲んでました(笑)

浜松城(出世城)

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    浜松駅からえっちらおっちら歩いたところに浜松城があります。けっこう駅から遠いですね。 

    徳川家康が武田信玄に備えるために築いた城で、29歳~45歳までの17年間を浜松城で過ごしました。31歳の三方ヶ原の合戦にはこの浜松城から出陣し、武田信玄にたたきのめされ命からがら城まで逃げ戻ります。この時、敗戦して憔悴しきっている自分の姿を絵師に書かせ、生涯慢心を戒めるために持ち歩いたと伝わっています。 

    姉川の戦い、長篠の戦い、秀吉と争った小牧・長久手の戦いなど家康の命運を握った戦いも本拠地はこの浜松城でした。家康が駿府城に移ったあとの浜松城は、徳川家とゆかりが深い譜代大名を配置。幕府の要職につくものが多く、浜松城は出世城ともよばれました。 

    二の丸などは学校などになっていますが、本丸は残っていました。天守閣は再建で、中は博物館になっています。天守閣の下の石垣が野面積みという古い石垣の積み方で、これは家康築城の時代のものです。野面積みは、なかなか残っておらず貴重ですね。 

掛川城

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    新幹線で掛川駅を通過する時、窓から見えるのが掛川城。駅のすぐそばの丘の上にあります。いつも新幹線で見かけるたびに、いつか行きたいなと思っておりました。 

    掛川城の城主は今川時代から変わっていきますが、一番有名なのが司馬遼太郎「功名が辻」の山内一豊。関東へ移した徳川家康を牽制するために秀吉が掛川城に配置します。秀吉亡き後の関ヶ原の戦いでは家康側で戦い、その功によって土佐の大名となりました。 

    掛川駅から商店街を少し歩くと掛川城の入口。太鼓櫓がみえ、脇を通ると天守への登り道があります。天守の上は眺めがよく、晴れた日には富士山も見えるようですが、あいにくの曇り。ただ風がよく通り、涼しいですね。 

    二ノ丸御殿が現存しており、こちらは江戸時代に再建されてもので重要文化財になっています。中を見学でき、御殿の裏側には当時の土塁が残っていました。

駿府城

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    東京駅から「こだま」で静岡駅へ。自由席なんですが、3連休初日と朝早いせいか座席は満席。 

    静岡駅から少し歩くと駿府城があります。戦国時代はは今川館があり今川家の本拠地でした。若い家康が人質生活をおくったところでもあります。 

    徳川家康が秀忠に将軍職を譲り、大御所となって駿府に隠居して駿府城を建てました。天守閣など当時の建物は残っていませんが、堀はよく残っていますね。本丸の周りの内堀は一部だけ残っていますが、外堀はほぼ江戸期のまま残っています。外堀がこんなに明瞭に残っている城も珍しいですね。東御門櫓門が復元されていて、見学してきました。坤櫓も復元中です。 

    駿府城と言えば有名なのが駿河版。駿府に隠退した家康が作った古活字版で、活字を作って印刷して本を作っていました。これが駿河版です。活字の一部は今も残っていて重要文化財になっていますが駿河版の古典籍がでてきたら一体いくらぐらい、するもんなんでしょうかねえ。

木木会 中小企業診断士の交流会

sinndan201307.jpg大阪府中小企業診断協会の木木会に参加

木木会とは大阪府中小企業診断協会に3つある診断士交流会の一つで毎月第2木曜日に開催しています。場所はマイドーム大阪7階にある大阪府中小企業診断協会のセミナールーム。今回から冷房が入っていて快適でした!

毎回2名の診断士が持ち回りで発表するんですが、トップバッターは幹事役の影山さん。FP1級&税理士&診断士というすごい方なんですが、高所恐怖症でありながらパラグライダー・パイロットの資格もお持ちです。

クレーム対応などのお話しをしていただきました。コールセンターでは、かかってくる電話に対してきっちり対応しないといけなく、瞬時に丁寧語や謙譲語が出てこなければなりません。

というわけで皆さんにあてて答えるわけですが、けっこう難しいですね。
「言う」の丁寧語はもちろん「おっしゃる」。大阪弁の「言わはる」ではダメです。

紳士は互いの信書は読まないものである

アメリカの国家安全保障局(NSA)が同盟国であるヨーロッパや日本の大使館を盗聴対象にしていたと問題に。CIAの元職員のスノーデン氏の暴露ではじまった事件ですが亡命先をめぐって情報が錯そうしているようです。
国際政治の舞台では情報をにぎった方が勝ちですので、同盟国の大使館といえども盗聴するのは当たり前で、相手もやっていますのでお互い様の面もあります。
かってアメリカでは「紳士は互いの信書は読まないものである」といってスパイ活動をやめさせた人物がいました。この時に今回と同じような暴露事件が発生しました。
■紳士は互いの信書は読まないものであると暗号局を閉鎖
第一次世界大戦時に陸軍省所轄のMI-8暗号局(通称:ブラックチェンバー)を設立し、暗号解読で活躍していたハーバート・O・ヤードレーという人物がいます。このブラックチェンバー(闇の会議所)ですが、国務省から予算を打ち切られてしまいます。 
当時はフーバー大統領の時代で、国務長官のヘンリー・L・スティムソンが外交文章を盗み見るような行為は駄目とブラックチェンバーを閉鎖してしまいました。理由は「紳士は互いの信書は読まないものである」と政治の世界ではとうてい考えられないような能天気な理由です。
第一次世界大戦中、暗号解読によりアメリカに多大な貢献をしたことを評価せず、ブラックチェンバーを閉鎖したことにハーバートは憤慨。「他の国は暗号解読をやっているのにアメリカだけ止めるとは何事だ!」と執筆したのが『ブラックチェンバー 米国はいかにして外交暗号を盗んだか』という本です。
本の中にはブラックチェンバーの内幕や、ドイツの隠しインクを使った暗号、美貌のスパイなど暗号の裏話が満載で、いわゆる暴露本です。具体的な暗号の解読方法も書いてありました。アメリカでは発表と同時にベストセラーになり、日本でも緊急翻訳されました。
アメリカ国民はこの本で、暗号解読秘密組織ブラックチェンバーの存在を初めて知ることになります。さすがに、こんな牧歌的な時代はすぐ終わり、第二次世界大戦が近づく中、暗号局は復活しました。今ではNSA(アメリカ国家安全保障局)などがアメリカ国家の安全を守るためという理由で世界中の通信を傍受しています。
■フィル・ジマーマンが作ったPGP
その後、国家が暗号を握ってコントロールするようになったのですが、それに反対したアメリカ人がいました。フィル・ジマーマンという人物です。彼はもともとプログラマでしたが、同時に反核反戦活動にもたずさわっていました。
ある時、反核グループがFBIの捜査を受けてパソコンが押収されてしまい、内部データがFBIの手に渡ったことから個人のプライバシーは個人で守るしかないとPGPというソフトを開発しました。
PGPはPretty Good Privacyの略で、日本語で言えば【プライバシーを守る、いかしているソフト】のようなニュアンスです。ふつうのパソコンユーザーが最先端の暗号アルゴリズムを使って暗号化できる初めてのソフトでした。ファイルを暗号化しておけばパソコンが押収されても秘密を守ることができます。また電子メールの暗号化ができますので、秘密のやり取りをする時に重宝します。まさにプライバシーを守る、いかしたソフトでした。
■世界にひろがったPGP
ジマーマンがPGPを開発したのですがアメリカでは暗号は兵器扱いとなっており、PGPももちろん輸出規制品項目です。アメリカ以外にソフトを持ち出せば重大な犯罪行為になりました。
ところがアメリカというのは面白い国で、出版の輸出入は憲法上保証されています。そこでジマーマンらはPGPのソースコードを印刷して本にしてしまい輸出してしまいました。これなら法律批判にはなりません。輸入した国では本の内容をOCRから取り込むことでコンピュータに入れることができ、PGPが世界中に拡がっていきました。
その後、アメリカ政府も輸出規制を緩和し国外でもそのまま使えるようになりました。

セミナー:スマホ、タブレットを使って

unebi201307.jpg土曜の夜は奈良県中小企業青年中央会でセミナーを担当してきました。

タイトルは「スマホ、タブレットを使って 会社のレベルをあげよう」。新しい情報機器であるスマホ、タブレットが登場し、今後の経営としてどういうことを考えないといけないかをテーマにした内容です。


会場は畝傍御陵前駅近くにある奈良県社会福祉総合センターです。

奈良県社会福祉総合センターの前にあったのが龍の噴水(?)。なんで龍なのかよく分かりませんが、龍神信仰でもあるのかなあ。

本薬師寺跡

honyakusiji201307.jpg土曜日に畝傍御陵前駅近くでセミナーでしたので、近くにある本薬師寺跡へ行ってきました。写真は塔跡から見た畝傍山です。 

大和三山に囲まれた地域で古代には藤原京がありました。西ノ京に薬師寺がありますが、平城京遷都の時に移転しましたので、、ここは「本薬師寺跡(もとやくしじあと)」と呼ばれています。 

本薬師寺跡は住宅街を抜けたところにあり、入口に案内がなければ通り過ぎるところでした。小さなお堂と金堂の礎石が残っています。周囲は湿地帯になっていて2つ盛り上がったところがあり、ここが塔跡で、こちらにも礎石が残っています。伽藍配置は西ノ京の薬師寺と同じだったんですね。 

680年、、天武天皇が鵜野讃良(うののさらら)皇后【後の持統天皇】の病気平癒を祈願して建立されました。従来は平城京への移転説が主流でしたが、発掘調査によるとしばらく併存していたようで、今は西ノ京の薬師寺は移転ではなく新築説が有力です。ただ本薬師寺と同じ古い瓦が出たこともあり、、西塔は藤原京からの移築だったとする説もあるようです。 

90度も曲がる近鉄・南大阪線

kintetu20130704.jpg鉄道に関する本に近鉄・南大阪線の不思議について書かれていました。 

日本一の超高層ビル「あべのハルカス」のある阿部野橋駅から近鉄・南大阪線に乗ると道明寺駅の手前で速度を落とし、ほぼ90度曲がって南に下ります。しばらく走ると古市駅でまたグニャーと曲がって奈良の橿原神宮前駅へ向かいます。 

■なんで90度も曲がっているの 
なんで90度も曲がっているかといえば応神陵など200メートル級の古墳が点在する古市古墳群があるので、古墳を縫うように走るためという説明を聞いたことがあります。 

確かにそうなんですが、もともとはJR柏原駅から出ている現在の道明寺線(上の青い部分)と道明寺駅から古市駅の間、古市から河内長野駅に向かう長野線(下の青い部分)が1本の路線で河陽鉄道という明治31年開業の鉄道会社が運営していました。ですので、もともとは1本のまっすぐな路線だけでした。 

■南海に負けたのでカーブが多い路線に 
大阪から高野山の参詣客を運ぼうと考え河内長野駅まで線路を伸ばしましたが、高野登山鉄道(南海電車)に高野山まで先にのばされ敗退。 

これじゃダメだと大正時代に道明寺駅からミナミの玄関口である阿部野橋駅まで路線を延ばすと、お客さんが増えて成功。次は古市駅から橿原神宮前へのばします。まっすぐな線に後からつけ加えたので、道明寺駅と古市駅でグニャーと曲がる近鉄南大阪線になりました。