「チョー、ヤバい」婆娑羅大名である佐々木道誉の城が勝楽寺城です。佐々木道誉が家臣である高筑豊前守に命じて応安元年(1368年)に築城しました。戦国時代になると六角氏が支配したり、浅井長政側になったりと城主が変わり、最終的には永禄11年(1568年)に織田信長が攻めて落城しました。

勝楽寺横からひたすら山道を登っていくと勝楽寺城へ着きます。山上に広い削平地の郭がいくつも連なり、近江を一望できます。また畝状竪堀群がありました。眺めがよく荒神山越しに琵琶湖や竹生島、彦根城もよく見れます。
「チョー、ヤバい」婆娑羅大名である佐々木道誉の城が勝楽寺城です。佐々木道誉が家臣である高筑豊前守に命じて応安元年(1368年)に築城しました。戦国時代になると六角氏が支配したり、浅井長政側になったりと城主が変わり、最終的には永禄11年(1568年)に織田信長が攻めて落城しました。
勝楽寺横からひたすら山道を登っていくと勝楽寺城へ着きます。山上に広い削平地の郭がいくつも連なり、近江を一望できます。また畝状竪堀群がありました。眺めがよく荒神山越しに琵琶湖や竹生島、彦根城もよく見れます。
9月も後半というのに、毎日暑いですねえ。あと15度ぐらい気温が下がらないかなあ。
オンライン講義や打ち合わせもオンラインという比重が高く、家から一歩も出ていない日々もあり完全な運動不足。シーズンに向けてのトレーニングということで歩いて15分ほどにある枚岡公園をよく散歩しています。この枚岡公園から生駒山のハイキングコースがいくつか出ているのですが、標高280mまで登ったところに額田山展望台があり、大阪平野が一望できます。
最近は散歩がてら額田山展望台まで登って、ほとんどハイカーがいない額田駅に降りるコースが多いですね。まだまだ暑いので汗だくになりますが、サンダル履きで十分に登れます。
江戸の城下町造りのために掘られた小名木川、江戸時代に付け替えられた大和川など人の手にかかって整備された川は直線的になります。平城京造営にあわせて掘られたのが西堀川で現在の秋篠川になります。
物資を運ぶには船が最適でしたので平城京や薬師寺などの造営や西市に物資を運ぶ水路として使われました。西市船着場から物資を荷揚げして西市に運んでいました。薬師寺の塔や三笠山も見え風光明媚です。
豊臣秀吉の家臣だった増田長盛(五奉行の一人)が大和郡山城を整備することになり、秋篠川の流路やため池などを外堀に使うため秋篠川の流れを奈良口で東に90度曲げて佐保川につなげました。奈良口は九条公園の所で地図で見ると見事に曲がっています。
古代の西堀川(秋篠川)沿いには京奈和自転車道が走っており、2021年4月に京都嵐山~奈良~和歌山港まで180kmがつながりました。
今年も上半期が終わりました。というわけで夏越の祓へ。
顧客管理がしっかりしている枚岡神社では毎年、夏越の祓の案内を送ってきます。案内に入っている人形(ひとがた)に名前を書いて事前に神社に納めておくと6月30日にお祓いをしてもらえます。そちらは参加できなかったので日曜に枚岡神社へ行って茅の輪巡りをしてきました。
■水無月
夏越しの祓といえば「水無月」という和菓子を食べるのが定番ですが、京都菓子工業組合が商標登録してしまったので京都以外の和菓子屋さんでは、あまり見かけません。以前、和菓子屋さんが”何で伝統菓子を商標登録したんだ”と憤慨しておりました。
先日、久しぶりに桑名商工会議所へ行くと最寄駅の桑名駅が大変身。
すぐに駅の階段を上がろうと先頭車両に乗っていたのに、階段の位置が真ん中あたりに変わっていました。駅はとってもお洒落になっていて東西に自由に渡れる通路が作られ、JRと近鉄はそれぞれ分離されました。
三重県には珍しい近鉄とJRの共用駅があり、これが津駅、松阪駅、伊勢市駅になります。JRと近鉄で改札を共用している独特のシステムで他にはあまりありません。桑名駅もずっと共用駅だったのですが、これでなくなりました。
駅前の桑栄メイトが閉鎖となり桑名商工会議所へ行くには一度、下に降りて階段を登り直さないといけなくなり、不便になりました。
山城登りと酒ばかり飲んでいると誤解している人が多いのですが本職はITの専門家です。エヘン。
AIセミナーをやんなくちゃいけないのでScikit-Learn(サイキットラーン:Pythonの機械学習ライブラリ)を動かそうとラズベリーパイを起動すると、うんともすんとも言わない。おかしいな~あ、とパソコンでマイクロSDカードにインストールし直して起動すると無事に立ち上がりました。
もっともWindowsでPythonを動かせることが判明。結局、Windowsでサイキットラーンを使っていて苦労して立ち上げたラズパイは使わず(笑)。調べたら統計関数Rでもサイキットラーンが使えるんですね。
八木西口駅から少し南に行ったところに今井町があります。堀に囲まれた環濠集落で、称念寺を中心に作られた寺内町です。
戦国時代は町中で武装し、石山本願寺とともに織田信長と敵対していましたが、石山本願寺が信長と和議を結んだことから明智光秀と懇意だった堺の津田宗及の取り成しで信長と和議を結びます。信長も堺と同様に栄えていた今井を発展させた方が経済的においしいと考え武装解除を条件に和議が認めらます。信長自身が今井環濠に来たようで本陣跡が残っています。今井は堺と同様に自治権が認められ江戸時代を通じて発展していきます。
環濠集落を構成していた堀はだいぶ失われてしまいましたが、町の通りなどが微妙に曲がっていて堀跡が分かります。また堀跡や土塁の一部が南西角に残っています。観光客のお目当ては町屋巡りで、堀跡をひたすら歩いている酔狂な人間はおりませんなあ。
大和奉膳(ぶんぜ)城
近鉄・JR吉野口駅あたりは奉膳と呼ばれ、古くから紀州街道が通り、また吉野に至る下街道の起点として栄えていました。現在も交通の要衝になっています。ここにあるのが大和奉膳城。
藪が多いので迂回して登ると、大きな堀切があり、ここから主郭に入れます。けっこう変わった主郭で二重に堀切が取り巻いているような感じで斜めになっています。五津城によく似ています。堀切を超えて尾根沿いを歩くと削平地が段になっていて、反対側にも堀切がありました。
丹波国・国人だった波多野氏が本拠としたのが八上城。
波多野氏は三好氏に攻められて一時期、没落していましたが、三好氏の勢力が落ちると八上城を奪い返します。足利義昭を奉じて信長が上洛してきた時、信長方になり、明智光秀の丹波攻めにも参加していましたが黒井城を攻める時に反信長方となり、明智光秀は命からがら逃げることになります。
光秀による第二次丹波攻めがあり、八上城の周りにたくさんの陣城を築いて封鎖し兵糧攻めにします。降伏した波多野氏は信長に処刑されます。光秀が天下をとっていたら「八上の干殺し」などと呼ばれたのでしょうね。
八上城は国史跡となっており麓の春日神社から登ることができます。ハイキングコースになっているので山城では珍しくハイカーと出会うことができます。結局、10名ほどと出会いました。頂上の主郭から丹波篠山の街や山陰街道が一望できます。さらに主郭から南に行くと別の郭や大堀切、井戸がありました。さすがにこんな所まできているハイカーはいませんね。
中山道・番場宿から尾根道を1時間ちかくエッチラオッチラ登ると鎌刃城へ着きます。
尾根の一つが岩だらけの細尾根になっていて、ここに7つほどの堀切があり、遠くから見ると刃こぼれした鎌の刃のようで、ここから鎌刃城という名前になったようです。なかなか、見ごたえのある堀切でした。
「今井軍記」によると、今井氏が堀氏が立て籠もる鎌刃城を攻めており、鎌刃城の城主は堀氏だったようです。浅井氏に仕えていましたが調略によって織田軍に内応したところ浅井氏に攻められたようです。
主郭の虎口は石垣造りになっていて、観音寺城によく似ていますね。国の史跡になっていますが、よく整備されていて石垣、堀切、郭などが見事に残っています。西山腹には大石垣があり、北尾根は大堀切が残っています。