三輪成願稲荷社

大神神社へ向かう途中にあるのが三輪成願稲荷社。商売繁盛・心願成就の霊験あらたかということで熱心に拝んできました。なんてたって成願ですよ(笑)。商売繁盛、頼んまっせえ!絶対他力でっせえ!

三輪成願稲荷社
三輪成願稲荷社

三輪成願稲荷社に祀られているのはお稲荷さんで、ウカノミタマという女神です。稲に宿る神秘な穀物の神さんです。ウカノミタマはスサノオの娘で兄が大年神(おおとしのかみ)。毎年正月に各家にやってくる来訪神で、年神を迎えるために門松を門前に立て、鏡餅を供え物とする風習は今も残っています。

稲荷社は全国にありますが、ダントツ1位は戦いの神さんである八幡さん。昔、法人番号公開サイトを使って調べたことがあります。
1.八幡神社 5,841件
2.稲荷神社 3,349件
3.熊野神社 2,187件
4.八幡宮  2,058件
5.諏訪神社 2,004件

八幡神社と八幡宮は同じ系統なのでは、やはりダントツですねえ。

相撲神社

山辺の道から離れて丘を登っていくと穴師坐兵主神社があり、ここの摂社が相撲神社です。

穴師坐兵神社
穴師坐兵神社

垂仁天皇の時代、力自慢の当麻蹴速(當麻在住)がいて俺より強いやつはいないと豪語していました。そこで出雲から野見宿禰を呼び出し試合をさせたのが日本最初の展覧相撲となりました。出雲は出雲国と言われていますが一説には長谷寺の手前にある出雲ではないかと言われています。最初の相撲が行わわれた場所が穴師ということで相撲神社が作られました。

勝ったのが野見宿禰で当麻蹴速は殺されてしまいます。ローマ帝国の剣闘士みたいですなあ。野見宿禰は垂仁天皇に仕え埴輪を作る土師氏の子孫となります。土師氏はやがて菅原氏となり一族からは菅原道真も出ます。

太陽の道(檜原神社)

「太陽の道」ってご存知ですか?

檜原神社
檜原神社

もともとは小川光三さんという仏像写真家が「大和の原像―知られざる古代太陽の道」で発表されたものです。これが1980年にNHK特集「知られざる古代~謎の北緯34度32分をゆく」で取り上げられて一大古代ブームを巻き起こします。奈良国立博物館の北向いに今も飛鳥園があり、小川光三さんはこの飛鳥園(写真撮影会社)の代表でした。

■太陽の道とは
倭姫命(ヤマトヒメ)が諸国を巡り、最終的に伊勢神宮に天照大神を祀りますが宮中から最初に移されて祀ったのが笠縫邑(かさぬいのむら)。山辺の道沿いにある現在の檜原(ひばら)神社といわれています。美内すずえの「アマテラス」の世界ですねえ。

この檜原神社を中心に箸墓古墳、大坂山(穴虫峠)、長谷寺、室生寺などなどが北緯34度32分の線上にほぼ一直線に並びます。一番東は伊勢斎宮跡、西は堺の大鳥大社で、さらに淡路島の伊勢の森へと続きます。これが古代のレイライン(太陽の道)です。

若い頃、大鳥大社からひたすらまっすぐ東を目指して歩き、住宅街などで迷いながら富田林で挫折して喜志駅から帰った思い出があります。

■檜原神社
神社の鳥居からまっすぐ西を見ると大坂山(穴虫峠)があります。二上山の北側で古代、大和と河内を一直線で結ぶ大津道(現在の長尾街道、近鉄南大阪線)が通る峠です。

春分又は秋分の日に檜原神社の鳥居から見ると、穴虫峠へまっすぐに日が落ちていきます。ですのでこの場所に神社を作ったのでしょう。伊勢神宮の最初の地ですので檜原神社は元伊勢と呼ばれています。

阪堺線

大阪府よろず支援拠点の出張相談で堺へ。行きは南海で行きましたが、帰りは久しぶりに阪堺線に乗りました。

阪堺線
阪堺線

阪堺線は大阪(天王寺or恵美須町)と浜寺駅前を結ぶチンチン電車で、専用軌道も走りますが一般道路を車と一緒に走ります。大阪のチンチン電車は今は阪堺線だけになりました。

堺の市街地を抜け、大和川を渡り天下茶屋からミナミを目指します。住吉神社近くの住吉駅で天王寺へ向かう上町線と恵美須町に向かう堺線に分岐します。昔は交差になっていて住吉大社駅があったのですが、なくなってしまいました。

そうそう阪堺線を舞台にした「阪堺電車177号の追憶」(ハヤカワ文庫)という小説が出ていました。「阪急電車 片道15分の奇跡」のように映画化されないかなあ。

椿井大塚山古墳城

JR奈良線の上狛駅を北上するとJRで分断された全長約175メートルの椿井大塚山古墳があります。前方後円墳で40面近い銅鏡が見つかったことで有名な古墳で、箸墓古墳や黒塚古墳とともに古い時代の古墳です。木津川の大動脈をおさえる場所ですので被葬者は地域の有力者だったのでしょう。

椿井大塚山古墳城
椿井大塚山古墳城

椿井大塚山古墳は高台の上にあり眼下を奈良街道が通っているため戦国時代以前から城郭が造られていました。古墳の堀はそのまま水堀として使っていたようです。発掘調査で城の遺構が発見され、竪堀などがそのまま残っていました。後円部を郭にしていたようです。この日も発掘調査をしていました。

巣ごもりには「バグは本当に虫だった」をぜひどうぞ!

バグは本当に虫だった
バグは本当に虫だった

巣ごもりでビデオやゲームばかりせず、せっかくなので読書をしましょう。

とってもよい本があります(笑)。

それが「バグは本当に虫だった」(ペンコム/インプレス)です(宣伝です)。

世界最初のプログラマは女性でしたが、そんなコンピュータ黎明期からAIの現代までネットやパソコン100年の進化が、楽しい91のエピソードで分かります。

・データ保存はカセットテープがあたりまえだった
・富士通のパソコンCMといえばタモリだった
・ビル・ゲイツはハンバーガーがお好き
・デルの創業者は外科医になる予定だった
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真田丸のオープニング 備中松山城

備中松山城
備中松山城

大河ドラマ「真田丸」のオープニングで使われたのが備中松山城の大手門から見た姿。真田の岩櫃城は巨大な岩の上に造られた山城で、備中松山城が雰囲気によくあっており採用されたようです。

■現存天主
備中松山城で有名なのが城主の猫と現存天主です。明治の廃城令で天主も民間に売られたんですが、あまりにも不便な山上にあるので解体されずに放置され次第に荒廃していきます。やがて高梁町によって修復となりますが、小学生や中学校、女学生などが約2万枚の瓦を人力で頂上まで上げました。

■大石内蔵助が城番
備中松山城は城主が目まぐるしく変わった城としても有名で、城主の水谷家が断絶した時は赤穂藩主・浅野長矩が城の受取りにあたり、家老だった大石内蔵助が備中松山城を受け取り、城番を1年以上勤めていました。山道の途中に大石内蔵助が腰かけた岩が残っています。やがて赤穂城を受け渡す側となりますが、この時の経験がいきたようです。

ふだんの生活は麓の館で有事の際は山頂の城を詰城する根古屋式というのがあります。戦国時代に多い形態ですが江戸時代まで残っていたのは非常に珍しいですね。

城主さんじゅーろー

岡山まで来たので足をのばして備中高梁へ。

さんじゅーろー
さんじゅーろー

麓からせっせと山道を登って備中松山城へ。登っているのはハイカーと山城好きだけです。天主にいたのが城主の「さんじゅーろー」。なんでも豪雨の後、備中松山城三の丸で保護されたオス猫だそうです。

備中松山藩の藩士から新撰組の隊長になった谷三十郎にちなみ「さんじゅーろー」と名付けられました。城の管理事務所に常駐しているそうで、眠そうにしていました。

高田城

高田城
高田城

JR高田駅から桜井線(万葉まほろば線)と和歌山線に分かれる所に高田城がありました。遺構は残っていませんが城の歴史については築城から破城まで分かっている、なかなか貴重な城です。

■築城
永享4年(1432)、足利義教(嘉吉の乱で赤松満祐に討たれた将軍)の命により、当麻兵庫守為貞が高田城を築城します。城主は嫡子で9歳だった為秀がつきました。当麻氏(高田氏)は一乗院方の国民です。

■戦乱
文正元年(1466)高田氏は応仁の乱では畠山政長方でした。対立する畠山義就&越智家栄によって高田城・布施城が攻められ落城します。敗れた高田氏は、筒井氏らと箸尾城に入ったようです。高田城には越智方が入りました。あとは目まぐるしく敵とくっついたり、いろいろと起きます。ベストセラーとなった呉座勇一の『応仁の乱―戦国時代を生んだ大乱』(中公新書)の通りですね。

永禄11年(1568)に織田信長が足利義昭を擁して上洛します。この時に松永久秀が信長によって大和守護に任じられます。髙田氏は松永久秀についたようで、今度は敵対する側となった筒井氏らに攻められ、松永久秀の救援により解放されます。その後、辰市合戦で松永久秀が筒井に敗れるなど紆余曲折がありました。筒井順慶が大和守護になり、松永久秀は信長に刃向かい信貴山で最後を遂げます

■破城
天正8年(1580)織田信長が筒井順慶に命じ大和郡山城を残し、他の大和にあった諸城を破却することになり高田城もこの時に破城となりました。

備中浅尾陣屋

備中浅尾陣屋
備中浅尾陣屋

総社駅の北にあるのが浅尾陣屋跡。浅野藩の本殿ですが、一般の陣屋と違って丘陵の上にあり、土塁などもあって山城のような造りになっています。戦国の気風が残っている時に造ったのでしょう。

浅尾藩の藩主は蒔田氏で本貫はどうも伊勢の雲出のようです。蒔田広定は関ヶ原の戦いでは、西軍に属して、西軍が占領した伊勢安濃津城に駐屯していました。ところが西軍が負け、高野山に蟄居します。岳父が小説「九十三歳の関ヶ原 弓大将大島光義」でも有名な弓の名手・大島光義であり、いろいろと取りなしてくれたことから備中浅尾1万石の領します。

幕末、蛤御門の変の時には京都見回り組を担当し、長州を撃退します。このことが遠因なのか慶応2(1866)年に長州藩第二奇兵隊を抜けた浪士達により、倉敷代官所と一緒に陣屋が焼き討ちされてしまいます。いつも負け組に組するんですね。陣屋は十分に再建されないまま明治維新を迎えることになります。