同志社大学キャンパスに残る新宗谷郭

新宗谷郭
新宗谷郭

同志社大学には今出川キャンパス以外に京田辺キャンパスがあります。山を切り開いて作ったキャンパスなので駅から延々と坂を登らないといけません。ここに普賢寺谷城館群とよばれる17もの城郭がありましたが多くは校舎の造成で消えてしまいました。ただ新宗谷(しそがたに)郭が敷地内に残っていることを知り、出かけてきました。

キャンパス内を探しましたが、案内がないのでよう分かりません。ようやく知真館3号館の脇に森に入る小道を見つけ、ここが城への入口でした。森に入ると一角にないといけません。ここに普賢寺谷城館群の説明版がありました。堀切を進むと虎口があり、ここから主郭へ入ると土塁が巡っていて、大きな主郭以外に2つの郭がありました。堀切もしっかり残っています。

普賢寺谷城館群は反信長だったようで、足利義昭が若江城へ落ち延びる時も普賢寺谷を通り、支援していました。松永久秀による普賢寺谷の焼き討ちも行われており発掘された遺物には火災の痕跡が残っています。

文献に残る山城 井手城

井手城
京都府の南にあるのが井手町で橘諸兄旧跡で有名です。この井手町にあるのが井手城。
井手城の位置が大体しか分からないので、ちょうどタケノコの収穫をしていた地元の人に尋ねてみました。
「井手城跡はどこらへんですか?」
「城跡?橘諸兄旧跡については聞かれたことあるけど、城なんて聞かれたのは初めて、そんな城なんてあるの?」
と別の人にも聞いてもらいましたが、誰も城があることを知りません(笑)。
■井手城
仕方ないので山道が途切れたところから頂上目指して登り、そこから尾根沿いに降りていくと大きな堀切がありました。山吹山から西へ派生した丘陵上にある城跡で主郭以外に4つほどの郭があるコンパクトな山城です。
山城には珍しく同時代史料に記録が残っています。「大乗院社寺雑事記」には1485年(文明17年)の条に井手別所寺ノ城という記載があります。山城国が共和国になった山城国一揆の時になります。また「厳助往年記」には1541年(天文14年)に上野源五郎が当城を落としたとあります。上野源五郎というのは細川高国(大物崩れで有名!)の有力被官ですので応仁の乱に巻き込まれていたのでしょう。
「細川両家記」には1568年(永禄11年)織田信長方に攻撃されたとあります。1568年といえば信長が足利義昭を奉じて上洛した時で、京都南部でも掃討戦があったのでしょう。

狛城(上狛環濠)

上狛環濠
上狛駅の西側に拡がるのが上狛環濠で村を取り囲むような環濠が見事に残っていて中心部にあったのが狛氏の居城だった狛城ですが、現在は遺構がなくなっています。城を中心に集落を取り込んで要塞化していました。集落は少し高台になっています。
狛氏は興福寺領の下司でした。ゲスの極みの下衆(ゲス)とは違います。下司とは荘園を現地で管理していた下級職員を指す言葉で、任命されていたのは現地の有力国人でした。狛氏は山城国一揆では三十六人衆に名を連ねる有力国人で、もともとは渡来系でした。
狛氏は、応仁・文明の乱では細川氏の被官として東軍に属していましたが、狛城は南山城に侵攻してきた西軍の畠山義就方に攻め落とされ、畠山方がこの狛城を本拠地にしたようです。ですので狛氏が詰城として鳶ケ城を備えたんでしょうね。

鳶ケ城(恭仁京跡を見下ろせる山城)

鳶ケ城
東山城(高之林城)に行ったついでに鳶ケ城へ。
ネットで調べるとJR上狛駅から行けるところに鳶ケ城があるような雰囲気だったので、信じてまずは神童寺へ。まずこの神童寺まで行くのが遠い。神童寺から天神社へ向かう手前に小さなお堂があり、ここから山道に入ることができます。尾根まで乗り上げると「鳶ケ城→」という手製の矢印があったので、その方向へひたすら山道を歩きます。これが遠い!
所々に「←神童寺 海住山寺→」の案内があり、案内に従っていくつもの尾根や山を越えていきます。いい加減、疲れた頃に鳶ケ城という案内が出てきます。主郭へ登ると眺めは抜群。それはよいのですが目の前に見えているのは、どう見てもJR加茂駅と木津川。というと足元に見えるのは恭仁京跡!!
けっこう歩いたなと思ったら加茂までたどりついていました。鳶ケ城は狛氏の詰城でしたが、木津から伊賀上野へ抜ける街道をおさえるのが目的だったのでしょう。帰りもひたすら歩いて戻ってきました。

東山城(高之林城)

東山城
先日、京都府の文化財保護課のサイトを見ていたら山城地域の中世城館が掲載されていました。縄張図も載っていて、木津の近くにあるのが東山城。木津の山城といえば鹿背山城という大きな山城があり、もちろん行ったことがありますが、鹿背山城に匹敵する大きな城で4つの尾根に拡がっています。
こんな大きな山城が木津に残っていたんだ~あ。と、さっそく調査を開始。問題は城までの道で、探すと2つのサイトに情報が掲載されていましたが、最初はたどりつけなくリベンジした等、けっこう分かりにくい所にありそうです。
東山城への道順はJR上狛駅を降りて、山城ぬくもりの里を目指します。この施設の裏側に東山城への案内板があり、そこからコンクリート舗装された小道に入り、基本的に道なりに進んでいきます。2ケ所ほど案内板がありました。
山道を進むと所々に分かれ道がありますが、メインらしき道を選んでいけば切り通しに出られますが、半分以上は勘にまかせるしかないですね。。切り通しを抜け尾根道を進むと右にカーブしています。ここに、すぐに左に入る小さな山道があります。ここを進むと東山城の主郭に到達します。
東山城は主郭から分かれた2つの尾根に郭が連なり、全部で13ほどの郭があります。主郭近くには井戸跡のような窪みもありました。この地を支配した狛氏が関わっているとみられ、文献に登場する高之林城ではと考えられています。山城国一揆に関連する城のようです。

如意岳城 大文字山の頂上にある城

如意岳城
そうだ、京都、行こう。
銀閣寺の背後にあるのが大文字で有名な如意岳で、中尾城から尾根沿いの山道を30分ほど歩くとたどりつけます。中尾城からの山道を歩いている酔狂な人間はいませんが途中で銀閣寺の裏手から登る山道と合流すると、こちらはハイキング客で一杯。
如意岳頂上からは京都市街や山科が見渡せ、ハイカーのみなさん弁当などを食べていますが、ここが如意岳城の主郭跡です。城域はかなり広く頂上からいくつもの郭が広がっていて堀切や土橋もたくさんあります。三重堀切もあって見事ですねえ。
文献資料によると、古くは平清盛や源義朝時代の保元の乱でも如意岳は合戦場所となっています。この頃は本格的な山城じゃなかったでしょう。永正6年(1509)に三好長慶父子が如意岳城に立て籠もる中、細川氏、畠山氏、大内氏が攻撃していることが実隆公記、後法成寺尚通公記、拾芥記などに記載されています。
これ以外にも如意岳城を舞台にいろいろな合戦が行われ、京都ということもあり文献に記録されています。ほとんどの山城は記録がありませんが、文献でも確認できる貴重な山城跡になっています。

中尾城 銀閣寺の裏手にある山城

中尾城
そうだ、京都、行こう。
土曜日といえばブラタモリ。近江アナウンサーから林田アナウンサーに代わり、第一弾は銀閣寺です。ブラタモリでは絶対に出てきませんが観光客で一杯の銀閣寺の裏手に山城があります。Googleマップでもバッチリ出てきます。
観光客と人力車でごった返している銀閣寺山門から左(北)に入ると八神社があります。この八神社を右(東)に曲がると大文字山に登れる登山道が続いていて、この登山道にも、まあまあ観光客がいます。この登山道に入る寸前に左(北)に入る道らしきものがあり、当然ながら誰も歩いている人はいません。ここが中尾城への入口です。20分ほど、尾根道を登っていくと頂上につき、ここにあるのが中尾城の出城。
■中尾城の戦い
出城といってもだいぶ破壊が進んでいて、よく分かりません。ここから尾根沿いの道をひたすら登っていくと中尾城の本城に着きます。頂上にいくつもの郭があり、けっこう大きな城で、郭の遺構もよく残っています。城を造ったのは室町幕府・第12代将軍である足利義晴。三好長慶と争っていた時代で、足利義晴が亡くなってからは第13代将軍足利義輝(自ら刀で戦い殺された将軍)と細川晴元とタッグを組んでいました。
三好長慶は中尾城麓の聖護院・北白川・鹿ヶ谷・田中などを放火し、また近江にも進出したため、後方が脅かされると足利義輝は中尾城から撤退して近江・堅田へ逃げます。中尾城には三好軍が入り城は破却されます。この一連の騒動が日本史に出てくる”中尾城の戦い”で、舞台になった城です。

神足城 復元された勝竜寺城の外郭

神足城
JR東海道線に長岡京駅という駅があります。少し前までは神足(こうたり)駅という名前でした。地名の由来は「神様が来てくれた」という意味の「神至り(かむいたり)」と言われています。
駅から少し行ったところに神足神社があります。神足神社には西岡36人衆の一人神足氏の神足城がありました、城は単郭だったようです。ところが勝竜寺城の築城に際して曲輪の一部として取り込まれてしまいました。
以前、神足神社に行った時は境内入口近くの右手に細長い藪があって、うっそうとした藪の中に入り込むと土塁や土橋を楽しむことができました。
先日、久しぶりに行ったら滅茶苦茶きれいに公園として整備されていてビックリ。説明版も設置されていました。写真の左手が勝竜寺城の外郭土塁で真ん中に虎口があります。右手から空堀にかかる土橋を渡って虎口に侵入しますが、両側の土塁から横矢がかかるようになっています。これを”横矢掛かりの虎口”と言います。公園化に向けた発掘調査では神足城時代の土塁や空堀が見つかったそうです。

勝竜寺城 光秀が脱出した城

勝竜寺城
勝竜寺城といえば細川忠興・ガラシャ夫妻ゆかりの城として有名で、ここで新婚生活を過ごしました。場内には二人の銅像が建っています。
戦国時代末期には三好三人衆が勝竜寺城を支配していました。織田信長の上洛で三好三人衆を追っ払った後は細川藤孝(幽斎)が城主となります。本能寺の変が起きた時には明智光秀の城でした。
山崎の合戦は秀吉軍、光秀軍ともに一進一退の攻防が続いていましたが、秀吉軍の奇襲などから明智軍が崩れます。明智軍は勝竜寺城に撤退しますが秀吉軍も前線部隊の消耗が激しく、日没でもあり追撃戦は本格的ではありませんでした。
明智軍から逃亡する兵が増えたため、明智光秀は本拠地である近江・坂本城を目指して勝竜寺城を出ます。この時に使ったのが写真に映っている虎口です。ところが小栗栖の藪で命を落とすことになります。

恵解山古墳 明智光秀本陣跡

恵解山古墳
大阪と京都の間にある隘路が山崎。現在も新幹線、JR、阪急、名神高速がすぐ近くを走っています。ここを舞台にしたのが秀吉と明智光秀がぶつかった山崎の合戦。
明智光秀が本陣を置いたのが御坊塚と呼ばれる場所で、境野1号墳もしくは恵解山古墳(いげのやまこふん)と言われていましたが、最新の学説では恵解山古墳と言われています。JR東海道線の車窓からよく見える前方後円墳です。
古墳からは火繩銃の玉や、平らに整形した曲輪の跡、堀などが発掘されています。現在は住宅地や工場が建て込んでいますが、当時は山崎が一望できました。光秀側の勝竜寺城のすぐ近くでもあります。
■古墳は城や陣として利用された
戦国時代、古墳は城や陣としてよく利用されていました。忍城攻めで石田三成が本陣を置いたのが丸墓山古墳。大阪の陣では茶臼山古墳が徳川家康、真田信繁双方の陣となりました。御勝山古墳は徳川秀忠の陣となっています。また道明寺の合戦にむけて真田信繁は岡ミサンザイ古墳(仲哀天皇陵)を山城に改造していたようです。
反対に本当の継体天皇陵といわれている今城塚古墳ですが、今城という名前がついているように戦国時代の城と言われていましたが伏見大地震による地滑りの跡ということが発掘調査で判明しています。