峰ケ堂城

峰ケ堂城
峰ケ堂城

京大・桂キャンパスは山を切り開いて作られましたが、桂キャンパスの奥にあるのが峰ヶ堂城です。

丹波と京を結ぶ唐櫃越の古道沿いにあります。丹波から京への入り口を見張るための山城です。もともとは法華山寺という山岳寺院があり、戦乱で衰微していったあと、細川晴元の家臣である木沢長政が寺院跡に峰ヶ堂城を築きました。細川晴元は三好長慶の主君でもありました。

峰ヶ堂城には4つの城郭群があり、郭跡が残っています。本来はもっと城郭跡があったのですが桂坂ニュータウンの建設によって消えてしまいました。ニュータウンのすぐ横にも城郭があり、登り口が住宅の真向かいの坂を登るしかない立地で、何の看板もないので城があることを知らない人が見たら、どう考えても不審者ですね(笑)。

東山霊山城

東山霊山城
東山霊山城

東山山頂にある将軍塚から下り、今度は霊山山頂を目指します。

なんとか東山霊山城にたどりつくと割と小さな山城跡が残っていました。東山霊山城を造ったのは13代将軍足利義輝で天文21年(1552年)に築城が開始され、翌22年(1553年)には早々と落城し、廃城となってしまったようです。

■東山霊山城の戦い
細川晴元の家来だった三好長慶は反旗をひるがえします。足利義輝と三好長慶は手を結び、京都奪還を狙う細川晴元と対峙します。この時に足利義輝によって東山霊山城が造られました。ところが足利義輝と三好長慶が仲違いをして、今度は足利義輝と細川晴元が手を結びます。

足利義輝は船岡山に陣をはっていましたが、東山霊山城は三好長慶軍に攻められ落城。東山霊山城が陥落することによって足利義輝は5年間にわたっては朽木に逼塞することになります。大河ドラマ「麒麟がくる」では、たぶん出てこないでしょうね。

伏見城の唐門

伏見城の唐門
伏見城の唐門

五条の正面通りを真っすぐ東へ行くと豊国神社があります。明治になり徳川の世でなくなってから豊臣秀吉を祭神とし創建されました。

豊国神社の唐門は南禅寺の金地院(塔頭)から移築されましたが、もともとは伏見城にあった唐門と言われています。金地院!黒衣の宰相である、あの金地院崇伝ですねえ。

秀吉が最初に造ったのが指月伏見城で慶長伏見地震で倒壊してしまいました。大河ドラマ「真田丸」でやっていましたね。近くに再建したのが木幡山伏見城です。秀吉が亡くなり、関ケ原合戦の前哨戦として伏見城が西軍に攻められ木幡山伏見城は焼失します。

跡地に家康が伏見城を再建し、1619(元和5)年に廃城となりますが唐門は二条城に移築され、その後、金地院に移築されたようです。国宝になっていて、なかなか豪勢な門ですねえ。

将軍山城

将軍山城
将軍山城

250段の階段を上がると狸谷不動院がありますが、狸谷不動院のさらに奥に山道があり、山道を登りきると将軍山城(北白川城、瓜生山城)があります。

幸龍大権現の社がある所が主郭跡で、付近は京都一周トレイルコースにもなっており、ハイカーや山道を走っている人がたくさんいます。もっとも山道からはずれて城巡りをしている人は皆無です(笑)。将軍山城には尾根沿いに、たくさんの郭があり、また付近には他に5つの城がある城塞群になっています。

■有名武将オンパレードの将軍山城
将軍山城を造ったのは細川高国で近江から京都へ攻め入る拠点として築きました。細川高国が大物崩れ(尼崎駅の手前に大物駅があります)で自害すると、隣にある東山新城と共に細川晴元が城を奪います。細川晴元といえば先日の「麒麟がくる」で三好長慶を襲っていた人物です。

それ以前に細川晴元と第12代将軍足利義晴が対立するようになり足利義晴が将軍山城を大幅に修復した記録が残っています。その頃は晴元の家来だった三好長慶軍が城攻めをしています。信長の時代には信長包囲網となった志賀の陣で、明智光秀が将軍山城に入って数カ月、延暦寺を牽制していました。

千草忠顕

水飲対陣碑
水飲対陣碑

京都一周トレイルから雲母坂城へ行く途中に水飲対陣之碑があります。

湊川の戦で楠木正成が討死し、京都へ迫るなか後醍醐天皇は比叡山に移ります。東坂本(琵琶湖側)を新田義貞と名和長年が守り、西坂本(京都側)を後醍醐天皇の皇子・尊良親王と、千種忠顕が守りました。千種忠顕は武芸に秀でた公卿で、後醍醐天皇が隠岐島に流罪になると随従し、ずっと後醍醐天皇を助けた人物です。

■水飲対陣
尊氏の弟・足利義直の軍勢が西坂本に攻め寄せ、雲母坂で激しい戦いとなります。水飲対陣之碑があるあたりは音羽川のせせらぎが聞こえる場所で、水飲という名前がついたようです。足利義直が陣を構え、千草軍を目指して三方から攻めあがりました。千種軍は全滅し、忠顕も討死します。

■菰野の千草城
御在所岳の麓にある菰野に千種城があります。千種忠顕は三重郡二十四郷を与えられており、息子の千種顕経によって千種城が築かれたと伝わっています。

修学院・雲母坂城

修学院・雲母坂城
修学院・雲母坂城

一乗寺城から京都一周トレイルコースに入って山をいくつか超えると雲母坂へ向かう登山道があります。この登山道を進んでいくと雲母坂があり、ここに山城がありました。修学院離宮の脇より比叡山山頂に至る古道で、この古道を登ってくる敵を撃退するための城でした。

それほど大きな山城ではありませんが、道を効果的に攻撃できるように郭が並びます。雲母坂から一乗寺城へ回り込めるために、雲母坂を防衛する必要があり一乗寺城と同時期に造られたようです。ですので造ったのは浅井・朝倉連合軍でしょう。

■志賀の陣
三好三人衆を攻めていた織田信長に突然、襲い掛かってきたのが石山本願寺。摂津で動けなくなった信長に対して浅井・朝倉連合軍が京都へ向けて動きます。迎え撃ったのが宇佐山城の森可成(森蘭丸のお父さん)で討死しましたが宇佐山城は守られました。

浅井・朝倉連合軍は山科まで進軍して京都を狙います。知らせを受けた信長は摂津戦線から撤退して京都へ向かうと浅井・朝倉連合軍は比叡山へ後退します。この時に使われた陣城の一部が一乗寺城と雲母坂城だったようです。

信長は比叡山に対して味方につくか、ダメなら中立を守ってほしい、浅井・朝倉に味方するなら焼き討ちにすると通告しましたが、返事はありませんでした。「麒麟がくる」でもハイライトになる比叡山焼き討ちは志賀の陣が発端となります。

一乗寺城

一乗寺城
一乗寺城

曼殊院門跡寺院の奥から比叡山への登山道があり、これを登っていくと比叡山トレイルコースにぶち当たり、この道沿いに進んで途中から尾根に入ると一乗寺城に入れます。

一乗寺城は2つの城域に分かれていて、間を京都と坂本を結ぶ白鳥超えの道が走っています。地元の国人である渡辺氏の城という説もありますが、志賀の陣で織田信長と対抗した朝倉・浅井連合軍が作った陣城の一つではないかという説もあります。信長にとっては苦しい戦いで、この後、比叡山の焼き討ちになります。

一乗寺城は土塁などがありますが、技巧に凝っているわけではなく臨時的に作られた陣城の可能性が高そうです。

共和国の砦だった草路城

草路城
草路城

JR同志社前駅を西に行くと普賢寺谷で山城群になりますが、東に行くと平地が拡がっており草路城があります。城跡は咋岡(くいおか)神社境内になっていて、神社の周りを水堀が巡り、境内には土塁の一部が残っています。

「応仁の乱 戦国時代を生んだ大乱」(呉座勇一 中公新書)がベストセラーになりましたが、とにかく複雑怪奇なのが応仁の乱。天皇だけでなく管領などの各家でも跡目争いが起こり登場人物が多すぎてよく分かりません。この草路城が応仁の乱の大きな舞台となります。

■山城国一揆の舞台
幕府の有力守護だった畠山家では畠山政長と畠山義就が争い、山城国をどちらが支配するかでも争っていました。畠山政長が支配していた草路城を畠山義就が攻め、落城させます。この後、南山城から大和にかけて戦場となり2ケ月ほど続いた時、疲弊した国人と農民が「もう、やってられない!」と起こしたのが山城国一揆。

1485年(文明17年)に南山城(久世郡、綴喜郡、相楽郡)の国人や農民が集まり自分たちで南山城の自治を行うことを決めます。その際、立て籠もったのが草路城とされています。さすがの畠山政長・義就もどうすることもできず、両者とも南山城から引き揚げます。

翌年、国人や農民が宇治の平等院に集まり、国中掟法を取り決めます。南山城は「惣国」と称される自治制となり、つまり共和国的存在となりますが、最終的には帝国軍である織田信長が侵略を迎えることになります。

普賢寺谷 大西館

大西館
大西館

普賢寺谷の小野垣内遺跡の対面にあるのが大西館。3つの郭をもつ城でしたが開発でほとんど削平され、郭の一部だけが残っていました。戦国時代の城としては珍しく城主が分かる城だったのにもったいない。

1437年に普賢寺が炎上した後、大西志摩守が普賢寺再興のために全国を勧請したという記録が残っています。普賢寺に一番近いところにもあり、このあたりの盟主だったようです。織田信長が侵攻してきた時代は反信長派だったようで織田信長の命令で切腹させられています。足利義昭と信長が仲違いし、足利義昭が宇治の槙島城で挙兵しましたが敗れて河内へ逃げる時に普賢寺谷を通っています。大西備前守敏元は、この時に足利義昭に付き従ったようで河内若江城で討死にしています。

普賢寺谷 駒ヶ谷遺跡

駒ヶ谷遺跡
駒ヶ谷遺跡

同志社大学・田辺キャンパスは山の上にあり、麓を流れているのが普賢寺川。反対側も山になっていて川が流れているのが普賢寺谷になります。不思議なことに谷の両川に城郭が続きます。

南北朝時代から山城が造られたようで、その一つが駒ヶ谷遺跡。ただし遺跡に関する情報はほとんどありません。昔は山しかありませんでしたが大学ができたので道路が整備され大学正門前の道がずっと多々羅という地を通っています。西山神社あたりから山に登れる道があり、登っていくと送電線があって、このあたりが郭のようです。探し回っていると井戸跡や堀切を発見。どうやらここらへんが遺跡のようです。ただけっこう崩れていたりして、よう分かりませんでした。