勝竜寺城 光秀が脱出した城

勝竜寺城
勝竜寺城といえば細川忠興・ガラシャ夫妻ゆかりの城として有名で、ここで新婚生活を過ごしました。場内には二人の銅像が建っています。
戦国時代末期には三好三人衆が勝竜寺城を支配していました。織田信長の上洛で三好三人衆を追っ払った後は細川藤孝(幽斎)が城主となります。本能寺の変が起きた時には明智光秀の城でした。
山崎の合戦は秀吉軍、光秀軍ともに一進一退の攻防が続いていましたが、秀吉軍の奇襲などから明智軍が崩れます。明智軍は勝竜寺城に撤退しますが秀吉軍も前線部隊の消耗が激しく、日没でもあり追撃戦は本格的ではありませんでした。
明智軍から逃亡する兵が増えたため、明智光秀は本拠地である近江・坂本城を目指して勝竜寺城を出ます。この時に使ったのが写真に映っている虎口です。ところが小栗栖の藪で命を落とすことになります。

恵解山古墳 明智光秀本陣跡

恵解山古墳
大阪と京都の間にある隘路が山崎。現在も新幹線、JR、阪急、名神高速がすぐ近くを走っています。ここを舞台にしたのが秀吉と明智光秀がぶつかった山崎の合戦。
明智光秀が本陣を置いたのが御坊塚と呼ばれる場所で、境野1号墳もしくは恵解山古墳(いげのやまこふん)と言われていましたが、最新の学説では恵解山古墳と言われています。JR東海道線の車窓からよく見える前方後円墳です。
古墳からは火繩銃の玉や、平らに整形した曲輪の跡、堀などが発掘されています。現在は住宅地や工場が建て込んでいますが、当時は山崎が一望できました。光秀側の勝竜寺城のすぐ近くでもあります。
■古墳は城や陣として利用された
戦国時代、古墳は城や陣としてよく利用されていました。忍城攻めで石田三成が本陣を置いたのが丸墓山古墳。大阪の陣では茶臼山古墳が徳川家康、真田信繁双方の陣となりました。御勝山古墳は徳川秀忠の陣となっています。また道明寺の合戦にむけて真田信繁は岡ミサンザイ古墳(仲哀天皇陵)を山城に改造していたようです。
反対に本当の継体天皇陵といわれている今城塚古墳ですが、今城という名前がついているように戦国時代の城と言われていましたが伏見大地震による地滑りの跡ということが発掘調査で判明しています。

そうだ京都、行こう! 嵐山城

嵐山城
そうだ京都、行こう!
嵐山と言えば、まずは電電宮、次は嵐山城でしょう!
香西元長(こうざい もとなが)という戦国武将がいます。出身は讃岐国ですが、京都では細川氏の家臣となり山城国下郡守護代でした。この香西元長が築いたのが嵐山城です。
管領細川政元に仕えていましたが、実子がおらず3人の養子を迎えたため、養子同士の権力争いが発生します。香西元長はこの権力争いのなかで討死しますが、これが応仁の乱の一つの事件になっています。
電電宮のある法輪寺から南に少し行くと、「京都一周トレイル 西山26」という小さな看板があり、ここから細い山道が出ています。途中からはきちんとした登山道になり、トレイルを楽しんでいる人と出会えます。ひたすらこの登山道を行くと嵐山山頂へたどり着き、ここが嵐山城となります。高低差が大きな郭が並んでおり、郭からは渡月橋など嵐山が一望できます。

御土居(上賀茂)

御土居
御土居とは豊臣秀吉が作った京都を囲む土塁で、外側の堀とあわせ羅城になっています。
京都の市街地を取り囲む広大なもので、御土居の中が洛中と呼ばれ、外が洛外と呼ばれるようになります。井上章一氏の「京都ぎらい」の元がこうやって形作られることになります(笑)。御土居には出入口が設けられ、現在でも鞍馬口、丹波口、粟田口、荒神口などの地名が残っています。
御土居は市街化でだいぶ破壊されましたが一部には残っていて、上賀茂の御園橋近くに北東の部分が残っています。ここは面白くって御土居がとぎれた跡がくっきりと住宅の道路として残っています。

城郭だった山科本願寺

山科本願寺
十字軍とイスラムとの戦い、カトリックとプロテスタントの戦いなどの宗教戦争があり、今も続いていますが、日本でも宗教戦争が当たり前という時代がありました。
大坂城の前にあったのが石山本願寺ですが、もともと本願寺は京都の大谷にありました。ところが比叡山の僧兵に焼かれてしまいます。
■山科本願寺
そこで山科に山科本願寺を造ります。寺といっても高い土塁や堀などを整備した城でした。現在も山科中央公園などに土塁が一部、残っていて上に登れますが、けっこうな高さがあります。山科本願寺は日蓮宗と手を組んだ細川晴元・茨木長隆らの軍勢に攻め落とされてしまいます。
■石山本願寺
そして造ったのが石山本願寺。今度は強固な城造りをしたようで、織田信長との十年戦争に持ちこたえました。最終的には信長と和睦し、和歌山に退去。鷺森本願寺(雑賀御坊)を造ります。秀吉と和睦し大坂の天満本願寺に移り、最終的には京都へ移転し、本願寺として今に続いています。

向島城

向島城
伏見指月城の横を宇治川が流れています。豊後橋(現在の観月橋)を渡ると向島です。
向島は昔、巨椋池を拡がる湿地帯でした。ここに造られたのが向島城で伏見城の出城の役割がありました。秀吉が亡くなってから家康の一時的な居城にもなっています。古地図を見ると本丸、二の丸、三の丸からなる大きな平城でした。水堀も大きかったようです。
今は市街地となってしまい、何も残っていません。本丸町、二の丸町という名前がついていますが昭和のはじめにつけた町名のようで、当時は堀跡などがまだ池として残っていました。昔の堀跡の位置に水路があったり微妙な高低差があったりして楽しめます。

伏見指月城 舟入

伏見指月城 舟入
京都橘大学へ。それにしても今日の京都は暑かったですなあ。
大学へ1年ぶりに行くと、けっこう色々と変っていて学食に行ったらカフェに変っていました。他の学食を探して、ようやく昼飯をゲット。帰りには伏見に行くスクールバスがあったので乗車。伏見指月城の舟入を見てきました。
秀吉が最初に造った伏見城で、観月橋近くの丘に造られましたが、慶長大地震で倒壊してしまいます。新たにの木幡山に造りなおすことになりますが、大河ドラマ真田丸では、新しい城の縄張図を真田昌幸に命ずるシーンが登場していました。伏見指月城跡は団地になってしまいましたが東側に大きな舟入があり、川から城に入れるようになっていました。
写真の先が深い谷になっていて、ここが舟入跡です。今は住宅地になっていますが高低差が見事です。

笠置山城

笠置山城
鎌倉幕府打倒計画が漏れ、危なくなった後醍醐天皇は京都を脱出。三種の神器を持って挙兵したのが笠置山です。
ところが圧倒的な鎌倉幕府軍に囲まれ、笠置山は落城。後醍醐天皇は捕らえら隠岐に流されます。その間に楠木正成や赤松円心などの反幕勢力が勃興し、隠岐を脱出した後醍醐天皇と合流。足利尊氏、新田義貞を巻き込んで南北朝時代へ突入していきます。
全ての発端となったのが笠置山。ICカードが使えないJR笠置駅からすぐ見える山で、頂上に寺があり、ここが山城になっていました。あまり山城の遺構は残っていませんが稲荷神社や六角堂跡付近は高台で郭になっていました。ところどころに竪堀もあります。それはよいのですが笠置寺の住職が”猿が4匹、山の中を走りまわっているので気をつけて”と言っておりました。どう気をつけたらいいんだか。(笑)
笠置山の北、東、西は急峻な崖になっており、南側(柳生方面)は少しなだらかになっています。東海自然歩道から一歩入ると郭が5つほど並んでいました。こちらは戦国時代に造られたもののようです。

北の玄武 船岡山城

船岡山城
都を造る時に重要だったのが四神相応で、都を守る四神(玄武、青龍、朱雀、白虎)がある土地に都を造る必要がありました。平安京にも四神相応があり、四神のうち北の玄武は朱雀大路の真北にある船岡山と言われています。
北京にある紫禁城の真北には景山公園(人口の山)があり、紫禁城を一望できます。平安京があった頃、船岡山に登ると同じように一望できたでしょうね。現在でも京都タワーなど京の街がしっかりと見えます。
船岡山は応仁の乱では、山城になっていました。西軍側の備前国守護・山名教之や丹後国守護・一色義直らが船岡山に築城し、東軍と戦います。それ以来、船岡山一帯を西軍の陣、”西陣”と呼ぶようになります。京都市内で山といえば船岡山ぐらいしかないので城が造られたのでしょう。
船岡山には、堀などの城跡が現在でも残っています。だいぶ埋もれてしまったので単なる窪地になっていますが、跡をたどることができます。曲輪跡は公園や織田信長を祀る建勲神社になっています。

京都の”いけず”を生んだ御土居

御土居
秀吉が京都の街を囲んで造った総構が御土居で、今でも一部が残っています。鷹峯の御土居はよく保存されており、以前にブラタモリでも取り上げられていました。
ヨーロッパなどの城壁都市のようなものですが石ではなく土塁で造られています。高さは5mほどで、これが22km以上も続いていました。御土居は防衛の意味もありましたが、鴨川などの氾濫から守る堤防にもなっていました。
知的生産の技術研究会・関西で講演してもらった井上章一氏の「京都ぎらい」(朝日新書)が関西圏で異様に売れているそうですが、この本のなかに京都人がもつ”いけず”な洛中意識が出てきます。
■洛中、洛外
嵯峨といえば観光地で有名ですが、ここは洛中の人にとっては京都とはみなされていません。同じように京都橘大学がある山科も京都ではありません。大学があるのは京都市山科区ですが、なんせ東山を超えた向こう側にありますから京都とは認めてもらえません。
なんでこんなことになったかという一因が秀吉が造った御土居です。御土居の内部を洛中、外部を洛外と呼ぶようになったことから京都人の”いけず”な意識が形成されていったようです。
■洛とは
この「洛」はもともと洛陽からきており、平安京を造った時に右京(西側)を長安、左京(東側)を洛陽と呼びました。やがて湿地帯が多かった右京が廃れ、京都をさす言葉として洛陽が残りました。信長の上洛の洛もこの洛陽からきています。