野間館(能勢)

野間館
野間城の麓に野間館跡があります。敷地は削平されており広く、周りに土塁も残っています。ただ案内板もなにもありません。大阪では珍しく平時に使う麓の館と山頂にある詰城の両方が見学できます。ここに多田院御家人だった野間氏の館がありました。
阪急宝塚線の川西能勢口駅から能勢電鉄が出ており、途中に多田駅があります。駅近くに多田源氏発祥の地である多田神社(多田院)があります。清和源氏武士団発祥の地であるため源氏の流れをくむ足利、徳川ともに多田神社を源氏霊廟としていました。もっとも徳川は源氏詐称のようです。
清和源氏の源満仲が多田荘を所領としたことから多田満仲を名乗り、ここから多田源氏となります。やがて源頼朝が登場し、清和源氏の嫡流を名乗りましたので多田荘を奪われることとなり、多田源氏は没落したようです。多田荘は多田源氏の庶流や累代の家人たちによって構成される多田院御家人によって在地支配され、野間城を築いた野間氏も多田院御家人でした。

山城ガールがいた野間城

野間城
摂津・野間城へ。
主郭や堀切を見て山道を降りてくる途中で出会ったのが若い女性。
「上までだいぶありますか?」
「もう少し、上がったところから城になっています」と返答。会話はそれだけでした。
野間城はハイキングコースではないし、飯盛山城や芥川山城のようにメジャーな山城ではありません。山道への案内はなく、城の入口を自力で調べないと入れないようなマイナーな山城です。たまに同じような山城マニアのオジサンには山道で会ったりしますが、それもマレですね。ましてや女性の山城ガールは初めてです。いよいよ山城の時代です(笑)。
野間城は摂津の国人だった野間氏の詰城です。能勢郡には朝廷に銅をおさめる採銅所があり、野間氏は鎌倉時代ぐらいから銅に関わっていました。野間城の主郭には白髭稲荷社が昔あったようで、山道もきれいに整備されていました。主郭は広く、裏側の尾根をすごく深い堀切で切断していました。

土丸城

土丸城
雨山城のついでに土丸城へ行ってきました。谷を隔てた土丸山の上にあります。
雨山城から井戸跡へ降りて尾根沿いに歩いて行くと城跡にたどりつけます。木札の案内を見逃さずに行けば、たどりつけます。さすがに土丸城跡まで来るハイキング客はいませんでした。
土丸城には郭がいくつもあり、けっこう大きな城ですが雨山城と一体で用いられていたようで出城のような扱いだったようです。二上山城の雌岳、雄岳と同じですね。
主郭跡には神社があり、雨山城と同じように関西空港が一望できます。四方が見渡せ、眺めがいいですねえ。

雨山城

雨山城
2018年の初山城は雨山城。熊取の大阪体育大学、浪商高校の近くにある山城です。
関西国際空港の近くに日根野駅がありますが、昔、日根野村に九条家の日野荘という荘園がありました。今は日根荘遺跡として国史跡となり、雨山城も追加指定されています。南北朝から戦国時代にかけて日野荘や和歌山の粉河を結ぶ粉河街道をおさえる城だったようです。
南北朝時代、北朝方の高師直が日根野氏に城の警護を命じています。これを楠木正行の弟である楠木正勝が攻め落とします。ところが南朝側で孤立した楠木正勝が北朝方に寝返ったことから城が北朝方に。ところが、また南朝方になったりと、この城を舞台に戦国時代まで争奪戦が行われました。
雨山城は国史跡でハイキングコースとして整備されており迷うことはありません。十町からカウントダウンする町石が一町ごとに置かれ目印になります。大手道は幾重にも曲がり、高取城の七曲りのようになっています。城の入口は土橋になっていて、主郭には神社が建っていました。いろいろな郭があり、楽しめます。主郭からは関空、四国、明石大橋などが一望できハイキングコースとして人気があるわけです。

和泉苅田城

穴師薬師寺
和泉苅田城、Googleマップで偶然に見つけたお城で、JR和泉府中駅が最寄り駅です。府中という名前がついているので昔の和泉国府があったはずですが、国衙(役所)は見つかっていません。
和泉苅田城跡には住宅街になっていて何も遺構が残っておらず城跡は穴師小学校からJAいずみ穴師支店周辺だったようです。こんなマイナーなお城までGoogleマップに掲載されているんですね。かと思えば外鎌山城のように、割とメジャーな城が登録されたおらず、どんな基準で登録しているんだろう。
近くに穴師山薬師寺があり、秀吉の紀州征伐時には根来寺に味方し僧兵もいたため、大伽藍が焼けてしまったそうです。この時に和泉苅田城はどうなっていたんだろう。
小牧・長久手の合戦がこんな和泉の地でも行われたんですね。

積善寺城(貝塚)

積善寺城
積善寺城跡 JR阪和線の和泉橋本駅の近くにあります。
遺構は何も残っておらず住宅地になっていますが、長屋門のある家があったり、狭い通りなど古い町並みを残しています。主郭があったのが明教寺付近と言われています。表札には根来という名前がかかっていました。Googleマップでは明教寺が積善寺城跡となっていますが、少し離れた安楽寺境内が主郭とも書かれており、ここらへん一帯が城跡だったようです。
積善寺城はもともと三好一族と争った時の砦として作られ、近木川沿いの千石掘城などとともに、根来衆の出城でした。基本的に平城で秀吉の紀州攻めでは三重の濠をめぐらした城に根来衆9,500人が立て籠もって戦いました。結局、城は落ちず和睦開城となったようです。

千石堀城(貝塚)

千石堀城(貝塚)
秀吉の紀州攻めで有名なのが千石堀城の戦い
貝塚にある高井城から近木川を超えたところに千石堀城があります。貝塚こすもすの里の裏手に拡がる丘の上にあるのですが、城に入るところが分からなく、紀泉鉄道を通す予定で掘削した跡の道から藪に入ると登城できました。かなり大きな主郭で、帯郭が巡っています。写真は堀切横にある虎口ですが、写真ではよく分かりませんね。
千石堀城には秀吉と対峙した根来衆は鉄砲で武装し守っていました。
秀吉軍は豊臣秀次、堀秀政、筒井順慶、長谷川秀一らで二の丸まで攻めましたが本丸は攻めあぐね多大な被害を受けます。このまま持久戦になるかもと思われましたが、筒井隊が放った火矢が城郭を焼き、たまたま火薬箱に引火して大爆発が起きます。豊臣秀次軍が本丸に突入し、根来衆が討ち取られてしまいます。

藤ケ森城(安濃)

藤ケ森城(安濃)
津で午前中にセミナーの仕事が終わったので、もちろん午後の予定は何も入れず、城巡りです(笑)。
安濃には伊賀の国人領主のように城塞が密集しているところがあります。まず目指すのは藤ケ森城。標高30メートルほどの丘の上にあります。坂道を上るとすぐに主郭の中へ入ることができます。整備されていて藪が少ないのがいいですねえ。主郭は楕円形で、けっこう広く単郭になっています。近くにある浄土寺城、今徳城、連部城を見渡すことができます。
藤ケ森城を誰が造ったのか城主が誰だったのか分かりません。秀吉の家来の砦という説もあります。ちょっと行ったところに伊勢国で最大の城だった安濃城があり、長野氏一族だった細野藤敦が信長に敵対していました。安濃城は信長の伊勢攻めの舞台となったところで、藤ケ森城は位置からいくと安濃城攻めのための付城だったかもしれません。

紀州攻めの舞台 高井城(貝塚)

高井城
南海の貝塚駅から東南に近木川が流れています。この近木川沿いに二両編成の水間鉄道が走っていて終点には水間観音があります。
根来衆はこの近木川沿いにいくつもの出城を作っていました。松永久秀が三好三人衆と対立していたこともあり和泉をおさえるために築いたようです。水間鉄道の名越駅のすぐ近くにあるのが高井城跡。もともとは高井天神廃寺があったようで、寺跡を出城にしたようです。本丸、二の丸があったようですが現在は遺構が残っておらず高台になっているだけです。
秀吉の紀州攻めでは高井城に200名の農民が立て籠もりました。岸和田城に入った秀吉は、すぐに出城攻めを開始。高井城は福島正則軍に攻められ落城したようです。

雑賀衆の本拠地 雑賀城

雑賀城
傭兵集団だった雑賀衆の本拠地が雑賀城で、弥勒寺山城のすぐ近くにあります。
現在の城跡山公園で、階段を登ると妙見堂があり、ここから和歌浦を眺めることができます。尾根沿いに和歌山市側へ行ったところの頂上に少し開けたところがあり、ここが千畳敷と呼ばれ、雑賀城があったところです。城主は鈴木孫市で、織田信長の雑賀攻めでは本陣が置かれました。すぐそばに弥勒寺山城が見えるので織田軍を挟撃することが可能でした。
信長の後に台頭した秀吉は中央集権化を進めて土豪による在地支配を解体しようとします。サラリーマンのように転勤命令で全国に赴任しなければなりません。先祖伝来の土地と切り離されますので、対立することになり、秀吉の紀伊攻めで雑賀衆は壊滅してしまいます。
秀吉の朝鮮攻めで、加藤清正の配下として朝鮮に渡ったものの、朝鮮軍に投降し日本軍と戦ったとされる沙也可(さやか)は雑賀(さいか)ではないかという説もあります。