信長のお父さんのお城(末森城)

末森城
名古屋の覚王山まで専門家派遣で行ってきました。
せっかく覚王山へ行ったので駅近くにある城山八幡宮へ。ここは信長のお父さんである織田信秀の末森城があったところです。
信秀は斎藤道三と争いましたが、結局、決着はつかず和睦を結び、跡取りの信長と斎藤道三の娘である濃姫を夫婦にします。信秀は尾張に勢力を拡げ、津島や萱津などの経済力を重視し、これは信長に引き継がれます。
信秀はこの末森城で病死しますが跡取りの信長は那古野城(現在の名古屋城)にいました。この末森城を引き継いだのが信長の弟である信行です。ところが信長に反旗を翻したため、結局は殺されます。
末森城の本郭は神社の境内になっていますが、境内の周りが空堀になっており、きれいに残っています。本当は二重の空堀や馬出しもありましたが、外側の空堀などはなくなっています。名古屋の街中によく戦国時代の平山城が残りました。

寺沢広高が友人との約束を守った唐津城

唐津城
「唐津くんち」で有名な唐津にあるお城。邪馬台国時代は末盧国でした。
唐津湾に面して城が造られており、海にそびえる海城になっています。城の周りを巡ってみましたが、海岸線から石垣がめぐらされていて、なかなかすごいです。
唐津城を造ったのは秀吉家臣だった寺沢広高で、唐津藩の初代藩主になります。尾張の出身で朝鮮出兵では物資の輸送など兵站を担当しました。三成らと立場は同じで武断派とは対立していましたが、関ヶ原の戦いでは東軍につき、家を守りました。
寺沢広高には友人との逸話が残っています。若い時、出世して国主となったらもう一人をは10分の1の禄をもって家臣にしようと約束しました。友人は光秀に仕えますが、本能寺の変で没落。寺沢広高は約束を忘れず、国主になった時に石高の10分の1で友人を召し抱えています。
天守閣は復興天守で、耐震工事のため1階から4階までは工事中。5階展望所のみが解放されていますので、せっせと階段を登ります。途中でめげないよう、現在何段目であと何段残っているか案内がいくつか設けられていました。天守からの眺めは絶景です。

木下延俊陣跡(名護屋城)

名護屋城
朝鮮出兵には全国各地の大名が動員され、名護屋城の周りにはたくさんの陣が造られました。現在、118ヵ所の陣跡が確認されていて、うち65ヵ所に遺構が残っているそうです。
昭和バスに乗っていると伊達正宗陣跡というバス亭もありましたし、そこかしこに前田利家陣跡などの小さな看板が建っていました。そんななか、一番近くにあるのが木下延俊陣跡。名護屋城博物館の裏手の山の上にあります。博物館近くを太閤道(唐津街道)が走っていて、これを監視する場所にあります。
■木下延俊は「おね」の甥
木下延俊ですが木下という名前がついている通り、秀吉の奥さんである「おね」の親戚で、甥にあたります。木下延俊の兄弟が小早川家に養子で入り、これが小早川秀秋。
朝鮮出兵時、木下延俊は三木城攻めで有名な播磨三木郡2万石の大名でした。関ヶ原の戦いでは家康側につき豊後の日出藩として幕末まで続きます。
陣跡を取り囲んだ石塁の跡などが残っていますが、枡型虎口もあり小さな山城という風情。どうも茶室もあったようで、なかなか優雅です。変わったところではトイレと思われる遺構もありました。
特別史跡に指定された陣跡は23もあり、堀秀治陣跡の復元CGを博物館で見ましたが茶室も能舞台もある、すごい陣。この陣跡をぐるっとまわるとなると、かなりの時間がかかりそうです。

名護屋城 韓国にも城好きがいた

名護屋城
雪の佐賀城の後、唐津線で唐津へ。唐津で一泊し、朝一番、唐津バスセンターから昭和バスに乗って名護屋城へ行ってきました。
秀吉が行った文禄・慶長の役の後方基地になったのが名護屋城です。天守閣跡に登ると、遠くは対馬を見ることができます。まだ博物館も開いていない早朝に誰も城跡に登っているものはいないだろうと天守閣跡に登ると、先人が一人。
碑をバックに写真を撮ってほしいということで撮影したことで話し込むことに。実は韓国から来日したそうで、広島に1年ほどいたこともあり日本語は完璧。韓国の電力会社を定年退職し、現在は順天市で観光ガイドをしているそうです。
なんと韓国にも城好きがいるんですね。文禄・慶長の役で朝鮮に渡った日本軍が築いたのが倭城で30ほどあります。研究会でこの倭城巡りをしているそうです。ですので倭城の原点である名護屋城を見に来たというわけです。
へ~え。というわけで天守閣跡からいろいろな曲輪巡りをご一緒することに。登り石垣、切り込みハギ、算木積みなど全て通じるのがすごいですねえ(笑)

雪の佐賀城

佐賀城
佐賀には昔、神崎荘という荘園があり、管理していたのが平忠盛(清盛のお父さん)で伊勢平氏です。と言いますか、津にあるウチの母方の里が平忠盛が生まれた土地でして、どうも先祖の一人は平氏関係だったようです。という因縁がある佐賀へセミナーでやってきました。
セミナーが終わってから佐賀城へ。
本丸跡には本丸御殿が復元されていて、なかなか見応えがあります。堀や土塁も残っており、とってもいいですねえ。佐賀城はもともと龍造寺氏が居城としていた村中城です。
戦国時代の九州はさながら三国志のような様相で、島津、大友、龍造寺が九州を三分していました。龍造寺の家老だったのが鍋島氏。結局は主筋である龍造寺にとって代わるので、儀の曹操から乗っ取った司馬氏のようなものですね。
鍋島氏は村松城を拡張し、佐賀城になりました。鍋島といえば柳生新陰流で、小城藩を起こした鍋島元茂に柳生但馬守は兵法家伝書を与えました。死の床にあったので、花押を最後の力で印したため大きく乱れ、乱れ花押と伝えられます。剣に生きた鍋島家で、やがて「葉隠」が生まれます。

津城 内堀の石垣

津城
津市の中心市街地に百五銀行・本部棟を建設中。工事はほとんど完成し外観工事は終わっています。
工事中に見つかったのが津城・内堀の石垣。昔、ジャスコが建っていたのですが、石垣は破壊されず地下に残っていました。5メートルだけですが野面積の石垣が地上に復元されています。ちょうど内堀の石垣があったところの地上です。ほかの石垣があった位置は鉄鋲で印されています。
石垣から本丸までは60メートルほど離れており、水堀になっていました。津城を造ったのは織田信長の兄弟である織田信包。関ヶ原の戦いが終わった後、藤堂高虎が現在の縄張りに変更します。
藤堂高虎の縄張の特徴はまず広大な水堀。これは鉄砲の射程距離に対応するためです。あと城の曲輪は複雑な形にして横矢がかかるようにし防衛力を高めますが、藤堂高虎は四角にし、中に建物を建てやすく利用しやすくしました。その代わり枡形虎口を作って防衛力を補います。
これが家康の採用され、戦国末期から江戸時代に造られる城は四角形の曲輪と広大な水堀が標準形となります。

不破の関(関ヶ原)

不破の関
関ヶ原シリーズもいよいよ最終回。
■関ヶ原は壬申の乱の舞台でもある
関ヶ原の戦いよりも900年ほど前にあったのが壬申の乱。徳川家康が最初に陣地を置いたのが桃配り山で、大海人皇子が兵士に邪気を払う桃を配り快勝したことにちなんでいます。関ヶ原は交通の要所で中山道が通っており、北国街道、伊勢街道に分岐しています。この関ヶ原にあった不破の道を封鎖したのが大海人皇子。
壬申の乱を勝ち抜いた大海人皇子は即位して天武天皇になり、不破関、鈴鹿関、愛発関の3つの関所を設置します。写真は現在の中山道で、ここから急な下り坂になり、坂を下ると藤古川があります。下からみると崖になっていて、この場所に不破の関が作られました。現在も土塁などの一部が残っています。関所というと箱根の関所のようなイメージですが、古代の関所は広範囲に土塁や壁で囲まれた施設で部隊が駐屯していました。
■非常事態には関を閉じる
天皇がなくなったり非常事態が起きると三関が閉じられます。これを、固関(こげん)と呼んでいます。外部から都への侵入を閉じたのではなく、都側の方を閉じました。不破関も東側はなだらかな丘陵で壁があっただけですが、都がある西側は藤古川と急な崖で防衛されていました。
大海人皇子は関東の尾張族の力によって壬申の乱を勝ちましたが、同じように外部の勢力と結びつかないようにしたためかもしれません。威力を発揮したのが藤原仲麻呂(恵美押勝)の乱。藤原仲麻呂はクーデターに失敗し、息子がいる北陸に逃げようとしましたが、愛発関が閉じられ突破できず、結局、琵琶湖で討伐軍に討ち取られます。

藤堂高虎、京極高知陣跡(関ヶ原)

藤堂高虎、京極高知陣跡
まだまだ続く関ヶ原シリーズ 第12回は藤堂高虎・京極高知陣跡です。
東軍の第一軍が福島正則隊で、藤堂高虎・京極高知は第二陣になります。不破の関跡あたりまで進軍し、大谷吉継の隊に属していた平塚為広(美濃垂井城主)と交戦。小早川秀秋軍とともに大谷軍を破っています。
■京極高知
京極高知は名前の通り、近江守護で北近江をおさめた京極氏。浅井氏は京極氏の被官でしたので小谷城には京極丸があり、名義上の盟主を京極氏にしていました。信長が清州城に尾張守護の斯波氏を迎えていたのと同じ構図です。もっとも信長は途中で斯波氏を追放してしまいました。
京極高知の兄が京極高次で奥さんは浅井三姉妹の初。大河ドラマ「真田丸」では姉の淀君への使者として登場するはずです。関ヶ原の合戦の時は大津城城主で西軍の立花宗茂らに攻められましたが関ヶ原の合戦時までねばり、立花宗茂らは関ヶ原に間に合わず結局、西軍の勢力をそぐことに成功します。京極氏は兄弟で家康側として戦いました。
■藤堂高虎
藤堂高虎は最初、浅井の家臣ですので、京極氏は昔の主筋。ともに戦うことになった時、感慨深いものがあったでしょうね藤堂高虎は何度も主君を変えた戦国武将として有名ですが、江戸時代、外様だった高虎を家康がめちゃくちゃ信頼していましたので、半分以上は譜代のやっかみでしょう。藤堂高虎は秀長(秀吉の弟)に仕えた時に頭角をあらわし、はじめて自分の力量を評価してもらえる主人と巡りあい、せっせと働いて自身も大名になります。ところが長年、仕えた秀長が病死し、後を甥の秀保が継ぎ、家老として後見します。秀保の代理として文禄の役にも出征しますが、この秀保も若くして亡くなってしまいます。ホトホトいやになったようで、高野山に出家。この時は秀吉が説得して還俗させます。
藤堂高虎といえば旗印にしている三つの白餅が有名ですが、他にもいろいろな逸話が残っています。関ヶ原で敗れた石田三成に声をかけ、わが軍の直すべきところを教えてほしいと言った話は有名です。津藩の初代藩主となります。

福島正則陣跡(関ヶ原)

福島正則陣跡
関ヶ原シリーズ よく続きますねえ。(笑)
第11回目は福島正則陣跡です。
関ヶ原駅から少し西に向かうと松尾という交差点があり、少し南に行った春日神社の境内に福島正則陣跡があります。この神社の大杉は樹齢800年で、400年前の関ヶ原の時にもあり、関ヶ原合戦屏風の真ん中に描かれています。神社も当時からあったようで祠も描かれています。ここらあたりに陣を置いた福島正則は目の前の宇喜多軍とぶつかりますが、宇喜多勢の前衛が大河ドラマ「真田丸」にもきっと出てくるキリシタン武将・明石全登です。
■石田三成がきらいだった福島正則
福島正則は小さい頃から秀吉に預けられ加藤清正らとともに、秀吉の奥さん「お寧」に育てられ初陣は播磨の三木城攻めだったようです。文禄の役の頃から、石田三成とはそりがあわなかったようで、七将による石田三成襲撃事件にも加わっています。
先日、「地形で読み解く真田三代最強の秘密」(朝日新書)を読んでいたら、この襲撃事件の話が載っており、福島正則は三成に襲撃を事前通告していたそうです。石田三成が挙兵するか家康のもとへ行った時に殺してしまおうと考えていましたが、家康はそんな安直な道を選ばず、三成を隠居させることになります。この時、佐和山城へ送り届けたのが家康の次男・結城秀康で三成は結城秀康に秀吉からもらった名刀・正宗を送り、現在まで伝わり重要文化財になっています。ただ、三成の隠居がきっかけで関ヶ原の合戦になりましたので家康も驚いたでしょう。
■名槍を黒田家にとられた福島正則
大河ドラマ「黒田官兵衛」でも描かれていましたが、福島正則が黒田家家臣・母里友信に酒すすめたところ、断られ酔っていた福島正則は母里友信を罵倒し、「これしきの酒が飲めないのか、飲めたら何でもやるぞ!」と言ってしまいます。酒癖が悪かったようですね、自戒しないと(笑)。怒った母里友信が見事に酒を飲みほし、秀吉からもらった名槍をまんまとせしめます。これが「酒は呑め呑め~」の黒田節となります。
関ヶ原の後、福島正則が領地にしたのが広島藩。三成とは反目していましたが、気持ちは豊臣方だったため大坂の陣では江戸にとどめられます。家康が死んだ後、広島城の石垣等を幕府に無断で修理したことが武家諸法度違反にとらわれ、結局、福島家はとりつぶしとなりますが旗本としては残りました。

三成と同郷だった田中吉政陣跡(関ヶ原)

田中吉政陣跡
関ヶ原シリーズ 第10回は田中吉政陣跡
徳川家康最後陣跡が関ケ原町歴史民俗資料館のすぐ横にありますが、田中吉政陣跡もすぐ近くにあります。この位置ですので石田三成軍と戦っていたのでしょう。
田中吉政は近江・長浜の出身で石田三成の出生地のすぐ近く。田中吉政の方がひとまわり年長です。もともと浅井家の武将だった宮部継潤に仕えましたが、秀吉の調略で宮部継潤が織田方になったため、そのまま宮部継潤から秀吉に仕えます。そうそう本能寺の変の時、織田勢力の一番西側にある鳥取城を守っていたのが宮部継潤で、秀吉は全幅の信頼をよせていました。
■家康の後、岡崎をおさめたのが田中吉政
小田原の北条攻めが終わった後、秀吉によって家康は関東に移転させられますが、家康の旧領だった岡崎に入ったのが田中吉政です。宮部継潤と同じで、秀吉から信頼されていたのでしょう。
関ヶ原の合戦では家康に味方し、戦いが終わった後、探索を命じられ伊吹山中で逃亡中の石田三成を捕まえます。同郷ということもあり三成を手厚く扱ったようで、秀吉から三成がもらった脇差を田中吉政に渡し、この脇差が現在まで伝わっています。
■関ヶ原のあと、柳川藩初代藩主に
関ヶ原の功で筑後一国が与えられ柳川へ入ります。立花宗茂が西軍として大津城攻めを行ったため、柳河の領地を取り上げられ、代わりにあたえられました。柳川藩・初代藩主となります。田中吉政は関ヶ原の合戦から9年後に京都で死去。ところが復帰運動を展開した立花宗茂は旧領の柳川への復帰が成功。柳川藩田中家は2代で終わってしまいます。真田昌幸(幸村の父親)が立花宗茂と同様に復帰が認められていれば、来年の大河ドラマ「真田丸」はなかったでしょう。