京都から大津に出るには逢坂関を超える道(国道1号線)と山中超えの2つがありましたが、織田信長はこの2つの道を封鎖し、新たな道を通しました。この新道が現在の県道30号線で、俗にいう山中越えになっています。
この道のすぐ横にある宇佐山山頂に築いたのが宇佐山城。城から新道を見下ろすことができ京都への物流を抑える重要拠点でした。山づたいに行けば敵対していた比叡山ですので、兵站を守る拠点でもあります。城を守っていたのは森蘭丸のお父さん・森可成です。
■志賀の陣
三好三人衆が摂津で起こした野田城・福島城の戦いに織田信長が出かけます。この戦いで突如、起きたのが石山本願寺の参戦。10年におよぶ石山本願寺との戦いが始まります。
滋賀では浅井・朝倉連合軍が信長の背後をつこうと湖西を南下。京都から信長の弟である織田信治が兵を率いて、森可成と合流。坂本で浅井・朝倉連合軍を迎え撃ちましたが、織田軍の数は少なく、比叡山の僧兵まで加わったため森可成、織田信治は討死。
連合軍は宇佐山城も攻めましたが、城兵が守りきり落城を免れます。織田信長は摂津から急遽、宇佐山城の救援に向かいます。浅井・朝倉連合軍は比叡山に入り、こう着状況が続きます。結局、信長は浅井・朝倉連合軍と和議を結ぶことで窮地を脱します。この時が一番、危なかったですね。
■宇佐山城
主郭にはNHKなどのアンテナ施設が建っていますが、信長時代の石垣や堀切などが見事に残っています。大きな郭は3つあり、3の郭からは琵琶湖が一望できます。琵琶湖から見える側の郭はすべて石垣が積まれていたようで、当時はけっこうなデモンストレーションになったでしょう。
カテゴリー: 城・山城
近畿の名城を歩く
大阪は昨日が曇で、今日は雨という天気予報でしたが逆になりました。
今日はずっと雨だと思っていたので、これだったら城巡りでもしたらよかったな~あ。まあ、昨日は尼ヶ辻への用事のついでに宝来城へ行けたのでラッキー。
というわけでお酒を飲みながら「近畿の名城を歩く 滋賀・京都・奈良編」を読んでいます。ご存じ、「大阪・兵庫・和歌山編」の続編です。
滋賀県
玄蕃尾城/小谷城/下坂氏館・三田村氏館/上平寺城/男鬼入谷城/鎌刃城/佐和山城/彦根城/山崎山城/敏満寺城/安土城/観音寺城/八幡山城/後藤氏館/井元城/小脇館/小堤城山城/佐久良城/中野城/新宮城/土山城/水口岡山城/上鈎寺内/大津城/宇佐山城/壺笠山城/坂本城/清水山城
京都府
大俣城/今熊野城・阿弥陀峰城/金屋城・三縁廃寺/大内城/平山城/日置谷城/栗城/位田城/宍人城/八木城/法貴山城/笑路城/神尾山城/周山城/一乗寺城/北白川城/中尾城/如意岳城/霊山城/峰ケ堂城/聚楽第/御土居/伏見城/山科本願寺/物集女城/勝龍寺城/山崎城/槙島城/田辺城/鹿背山城/笠置山城/田山西の城
奈良県
多聞城/西方院山城/古市城/郡山城/筒井城/番条環濠/立野城/竜王城/布留遺跡居館/菅田遺跡/信貴城/今井寺内町/十市平城/布施城/楢原城/佐味城/佐比山城・多田北城/赤埴城/沢城/秋山城(宇陀松山城)
が掲載されています。縄張図もあり、いいですね~え!
天皇陵じゃなく城跡だった宝来城
奈良の尼ヶ辻(西大寺の次の駅)に用事があったので宝来城に寄ってきました。
宝来城といいながら、実は安康天皇陵になっています。古墳を山城にしているケースは多く、大阪なら古市にある高屋城、大塚山古墳を活用した丹下城、大坂冬の陣において徳川秀忠が陣城にした御勝山古墳などがあります。
古墳だと思われていたが実は城だったというところもあり、天王寺公園にある茶臼山古墳。大坂冬の陣では徳川家康の陣城になり、夏の陣では真田幸村の本陣がおかれました、古墳じゃないという説が出ています。
宝来城も同様で、戦国時代の城でしたが、何がどうなったのか宮内庁が城跡を天皇陵にしてしまいました。宝来城は大和の国の国人の一人だった宝来氏の城で松永久秀と戦った記録が多聞院日記などに出ています。
安康天皇陵の北側にまわると堀越しに城跡を見ることができますが、どう見ても櫓台跡だし、土橋があって虎口につながっているところが、よく見えます。こんなに城跡だと分かるところなのに、なんで天皇陵にしてしまったんですかねえ。でも、街中に城跡がそのまま残ったという効果がありました。
本能寺の変は今週、日曜日
備中高松城の戦いシリーズの最終回。(笑)
高松城の周りは湿地帯で城を攻めるには狭い道を行くしかなく、城から狙い撃ち。「のぼうの城」で有名な忍城と同じ沼城でした。ですので高松城の経験があった秀吉は三成に水攻めを命じたのでしょう。
■水攻めの開始
秀吉は高松城を3万の軍勢で囲み、攻めてみましたが敗退。そこで誰もやったことがない水攻めを開始します。工事に着手したのが1582年5月8日。旧暦ですので新暦にすると5月29日となります。完成に12日かかりましたので、新暦の6月9日に完成。足守川の水をせき止めて流し入れ水攻めを開始。
ちょうど梅雨シーズンで、今日のような雨が降り、みるみる水位があがっていきます。後詰(援軍)に来た毛利軍も手が出せず講和の申込をしますが、秀吉は信長に出陣を待って毛利攻めをするために、ノラリクラリと講和を引き延ばします。
■本能寺の変はこの日曜日
信長に京都から来てもらうため山陽道と高松城までの街道を整備し、途中に休憩所なども造っていたのでしょう。秀吉の中国大返しができた理由に、この街道整備が大いに貢献しました。
1582年(天正10年)の今日、秀吉は水攻めの真っ最中。高松城の士気を下げるために石井山の付城で宴会でもやっていたのでしょう。明智光秀は今日、丹波亀山城に入り、出陣の準備をはじめます。信長は安土城にいて、森蘭丸など小姓を連れ京都へ出発するのが金曜日。
本能寺の変は21日(日)になります。来週の月曜日に本能寺の変が秀吉の本陣にもたらさせ、来週から怒涛の人生が秀吉を待つことになります。
宇喜多家の陣跡
先日行った、備中高松城シリーズ第4段!(笑)
秀吉側で戦った宇喜多忠家の陣跡。八幡山の山頂で、現在は八幡神社が建っています。宇喜多といえば宇喜多直家が有名で、当初は毛利方でしたが後に織田信長に降参しています。これで備前(岡山)は織田方となったため毛利との境目は備中となりました。毛利方の防波堤となったのが備中七城、その一つが備中高松城です。いわゆる境目の城となりました。
宇喜多直家は備中高松城の前年に病没しており、後は嫡男の宇喜多秀家が継ぎましたが、まだ10歳と若かったため叔父の宇喜多忠家(直家の弟)が宇喜多勢を率い高松城攻めに参戦しています。宇喜多忠家が陣をかまえた八幡山の眼下が高松城で、向こう側には堀尾吉晴や秀吉の陣が見えます。なかなか眺めがよい陣跡です。
家督を継いだ宇喜多秀家は秀吉の養女(前田利家の娘)の豪姫を正室として秀吉の一門衆となりました。関ヶ原の戦いでは石田三成と共に戦い敗北。薩摩まで逃げ島津が家康と交渉してくれ、結局、八丈島に流されることになります。83歳まで長生きし、関ヶ原を戦った大名の中では最後に残った一人となりました。
国宝・松江城を造った堀尾吉晴が38歳の時に戦っていた場所
先日行った、備中高松城シリーズです。(笑)
秀吉の本陣がある石井山のすぐ前に小高い岡があり、ここに陣を構えていたのが堀尾吉晴。今は神社になっていますが、神社の裏側にまわると堀切が残っていました。
秀吉の家臣団の中でも尾張時代から仕えていた最古参の重臣が堀尾吉晴。今度、天守が国宝となる松江城を造ったことでも有名です。備中高松城の水攻めをしたていた頃は38歳の壮年でした。秀吉の信任も厚く、備中高松城城主の清水宗治が自決した時は検死役を務めています。
備中高松城の戦いが終わり、中国大返しの時の山崎の戦いでは明智光秀軍に対して先手の鉄砲頭として参加し手柄をたてます。九州征伐や小田原征伐にも従軍。小田原征伐の後、関東に移封された徳川家康の旧領・浜松城主12万石に封じれます。秀吉が亡くなった後は徳川家康と結び、関ヶ原の戦いでは東軍側に参加。
やがて松江24万石に封じられ、尼子氏の本拠地だった月山富田城に入りますが、山城だったので平地である松江に松江城を造ります。この時に築城年を記した「祈祷札」が天守につけられました。築城の年代を証明する大事な札でしたが、1937年以降に所在不明となったため松江市が懸賞金500万円をかけて探したところ松江神社にあるのを発見。これが決め手となって国宝の申請をします。札が見つかった松江神社は懸賞金の受け取りを辞退しています。
松江城を造った堀尾吉晴が38歳の時に戦っていたのが、この場所です。
「本能寺の変」の知らせが飛び込んだ秀吉本陣
岡山へ行ったついでに備中高松城と付城(敵城を攻めるための城)を巡ってきました。まず、備中高松城を見下ろす石井山。ここに秀吉の付城がありました。石井山の頂上に登ると開けたところがあり、ここが秀吉の陣跡。備中高松城が眼下に見えますが、かなり近いので人の識別ができるほどです。ここなら清水宗治の姿もよく見えたでしょう。
この秀吉の陣に飛び込んできたのが「本能寺の変」の知らせ。通説では毛利軍と間違って使者が紛れ込んでしまったとありますが、旗指物を見たら、どの軍かわかるし、毛利軍は水攻め堤防の先の山々に陣取って、同じように旗指物を上げていましたから、間違うことはなかったでしょう。となると明智光秀が秀吉に知らせたことになりますが、抜け目ない秀吉だったので、なにか変事が起こればすぐに知らせを送る自前の通信網をあらかじめ作っていたのでしょう。
いずれにしても、この場所で安岡寺恵瓊を通じて毛利方と交渉が始まります。清水宗治の自害と引き換えに城兵を助けることで話がつき、清水宗治は秀吉から贈られた酒と肴で別れの宴を行い、小舟に乗って、舞を踊った後に自害。首は秀吉の陣に運ばれて、首実検が行われ、篤く葬られました。陣のすぐ隣に清水宗治の首塚がありました。
毛利軍の撤退を確認した後、水攻めの堤防を決壊させ、ここから秀吉の「中国大返し」が始まります。ここが、まさに、その場所だったんですねえ。以前に書いたガイド記事が、ちょうどこの場所のことでしたので感慨深いものがありました。
→ 中国大返し 秀吉に本能寺の変の第一報が
烏帽子型城(河内長野)
専門家派遣が午前中で終わり、雨も上がったので河内長野へ、烏帽子形城へ出かけてきました。
河内長野駅を降り、風情がある高野街道を歩くと天野酒の蔵元・西條合資会社があります。享保三年(1718年)創業の蔵で、豊臣秀吉が愛した僧房酒を復活した蔵元としても有名です。蔵元のすぐ近くから城跡まで看板が出ていました。山城跡で看板があるのはありがたいですね、さすがは国指定史跡。城跡は河内長野駅の近くにある烏帽子形山の山頂にあります。
烏帽子型城は楠正成が作ったといわれていて、当時は上赤阪城などと連携していたのでしょう。室町時代は畠山氏の城となり、秀吉の紀州攻めでは中村一氏が城の普請をしています。イエズス会の報告書にも出てくる城でキリシタンの領主もいたようです。烏帽子型城は単郭の城ですが、かなり複雑な縄張になっています。掘跡や櫓の跡がはっきり残っていて、公園になっていますから木も伐採されていて、郭跡もよく分かり、堀跡も歩けます。もっとも公園化によって改変された所もあります。
南海特急が停車する駅から少し歩いた所に見事な山城が残っているのがすごいですねえ。烏帽子形城はきちんと整備されており、スーツ姿でも登れる山城で、おすすめです。ただ縄張図などは事前に調べて行かないと、説明がどこにもないので要注意。予備知識がないと、なんでこんなにデコボコしたり、穴が空いているだけで、どこが公園なんだ、になってしまいます。
備中高松城 水攻め土塁跡
昨日、せっかく岡山まで行くので、吉備線に乗って備中高松駅へ。
駅近くに秀吉の水攻めで有名な備中高松城がありますが、駅は完全なローカル駅で、駅の中には何の案内もなく、駅を出たところに看板があるだけ。
駅から少し歩くと蛙が鼻築堤跡があります。水攻めにするために堤防を築いたのですが、この堤防の土塁が今も残っています。
土塁を発掘したことろ一番下には土留めに使われた木杭や土を入れた俵の跡などが見つかり、しっかり基礎をつくってから土を盛ったようです。発掘現場も展示されていました。残っている築堤跡は高さ3~4メートルほどで、江戸時代の地誌類では高さ8mとあります。この堤防を延々と3kmも築き、高松城を水攻めにしました。わずか12日で完成したという話ですが、本当ですかねえ。
水攻めは中国の歴史書には出てきますが、日本では高松城が本邦初。水攻めの策を考えたというのは黒田官兵衛と言われています。
去年、大河ドラマが黒田官兵衛でしたので、それにあやかって「黒田官兵衛 備中高松城を水攻めにする」という記事をAll Aboutに書いたのですが、現地を見たのは今回がはじめて。(笑)書いた内容はだいたいあっていたので一安心。
→ 黒田官兵衛 備中高松城を水攻めにする (戦国武将に学ぶシステム作りシリーズ)
諏訪城跡(神戸 諏訪山公園)
今日は午後から専門家派遣だったので、午前中に諏訪山公園へ行ってきました。神戸のJR元町駅から坂をずっと登ったところにあります。神戸は本当に坂の町ですね。諏訪山公園は高台で神戸の街が一望。ここが室町時代に赤松範資が築いた諏訪城跡といわれています。残念ながら遺構は残っていなく、公園なのでスーツ姿で登れる山城です。
戦国時代になると織田信長に謀反を起こした荒木村重が花隈城にこもり、信長の乳兄弟である池田恒興が陣所を諏訪山におきました。公園から見ると神戸ポートタワーから港が一望で花隈城跡もよく眺められます。
諏訪山に陣をおいたのは池田恒興と嫡男の元助、次男の輝政は生田神社の森に、紀伊雑賀衆の援軍は大倉山に花隈城を囲むようそれぞれ陣をおいて攻めます。荒木軍は敗れ、荒木村重は毛利へと落ちていき花隈城は廃城となります。
池田恒興は荒木の旧領をまかされ新たに兵庫城を築城します。地下鉄・中央市場前駅近くにあります。本能寺の変の後、清州会議では秀吉に味方します。小牧・長久手の戦いでは迂回して家康の本拠の岡崎を攻めるよう進言して実行しますが、家康に察知され攻撃を受け、嫡男の元助と共に討死してしまいます。岐阜県・多治見市にある池田城跡へ行くと池田恒興、元助の墓標がありました。
池田家の後を継いだのが次男の池田輝政。そう、あの姫路城を造った人物です。