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先日、行った新横浜の大塚遺跡。横浜・地下鉄ブール―ライン線のセンター北駅近くにあります。大塚遺跡は弥生時代中期の遺跡で、環濠や竪穴住居などが復元されています。
環濠集掠と言えば、まあ早い話が城の原形です。当時の環濠は土塁の内側に空堀を作っていて、戦国時代の城とは反対。土塁の外側に空堀を作った方が防御力が高まるはずですが、なんでこんな形にしたんですかねえ。ひょっとすると水堀にして灌漑用か非常用の水を確保したかもしれません。
戦国時代、京都の西岡にあった物集女城は水堀になっていますが、村の灌漑に使われていた例があります。大塚遺跡は茅ヶ崎城址公園から、ちょっと行ったところにあり、同じような丘ですが戦国時代の城跡にはなっていません。大塚遺跡がある丘の上はけっこう広いので、戦国時代の城には不向きだったのかもしれません。
カテゴリー: 城・山城
柴田勝家が生まれた下社城
織田信長の宿老である柴田勝家。
映画やドラマでは必ず出てきて、直情で猪突猛進な姿で描かれます。最後は秀吉と対立し、賤ヶ岳の戦いでは前田利家の裏切りにより敗退。しかし恨みがましいことを利家には言わず、北の庄城でお市の方と共に自刃します。その柴田勝家が生まれたのが下社城。
名古屋地下鉄・東西線の上社駅を降りて、高級住宅街などを抜け、20分ほど歩くと明徳寺があり、かなりの高台になっています。城の遺構は残っていませんが柴田勝家の生まれた下社城跡です。寺からは周囲がよく見え城跡ということがよく分かります。勝家は織田信秀(信長のお父さん)の家臣でしたが、信秀が亡くなると織田信行(信長の兄弟)の家老となります。
織田信秀が最後に住んだ末森城は信行が継承しました。勝家の下社城(上社駅)から末森城(本山駅)までは4駅と近いので、勝家は下社城から末森城まで通っていたのでしょう。やがて信行は信長と対立して自刃することになります。
勝家は信長に仕えることになりますが、信長の清州城は名古屋駅の向こうですので、この時は清洲の屋敷に住んでいたのでしょう。上社駅近くには上社城跡、一色城跡などが残っています。今は2つとも寺になっています。
茅ヶ崎城跡
新横浜駅から地下鉄ブルーラインに乗ると、北新横浜駅を過ぎたあたりから地上に出て4つ目の駅がセンター南駅。センター南駅の東側にこんもりとした森が見えますが、ここが茅ヶ崎城跡。今は城址公園になっていて、近くの交差点の名前も茅ヶ崎城址入口になっています。
入口は北側に2ケ所あり、空堀、郭、土塁などが良好な状態で残っています。要所要所には丁寧な説明看板があり、これだけ整備されているのは、すごいですね。山城といえば藪をかきわけ、かきわけ土塁の中に入り、どうやらここらへんが主郭のようだと探しまわるのが定番ですが、茅ヶ崎城では看板で一目瞭然です。
城を造ったのは誰か分かりませんが、室町時代に相模・南武蔵を支配した上杉氏、その後を支配した後北条氏が関わっていたのは間違いないようです。小机城とは3.5km離れており、櫓から小机城が見えるので、小机城と一体で運用されたのでしょう。郭は西郭、北郭、中郭、東郭があり、帯郭も残っています。城址跡は公園になっていますので中郭ではキャッチボールや散歩している人がいましたが、城巡りをしている人はいませんでしたね。もったいないなあ。
写真の左側は中郭の土塁で真ん中の道が堀跡です。右の土塁が西郭になります。
横浜の古い地名は武蔵国都筑郡で、戦国時代は44の城がありましたが、遺構が確認されているのが寺尾城・茅ヶ崎城・小机城・篠原城の4城。とりあえず茅ヶ崎城・小机城・篠原城の3城を巡ることができました。
篠原城(金子城)
小机城跡を訪れた後、新横浜駅に戻り、次に目指したのが篠原城(金子城)。
新横浜駅のホームから見える小山が城山です。城山という名前がついている通り、戦国時代のお城がありました。今は住宅街になっていますが、頂上部分などには土塁などが残っているそうです。ただし金網の向こうで保護のため立入禁止になっています。金網ごしに空堀が見えました。城跡なので、けっこう急坂の住宅街になっています。
2011年に一部、発掘調査が行われ説明版などが整備されていました。金網をよく見ると3月7日(土)に城跡を見学できる見学会を先着30名で行うと書かれていました。城に行ったのは先週の土曜日でしたが、うーん、来週はさすがに来れないなと断念。
篠原城が最初に造られたのは15世紀で、やがて後北条氏が支配するようになります。城を守っていたのは小机衆の金子氏だったようです。小机城からそう離れていないので、一帯で運用していたのでしょうね。
しかし新幹線と横浜線に囲まれた都会の一角に戦国時代の城が残ったというのはすごいですね。目の前には新横浜プリンスホテルのタワーがあります。
篠原城(金子城)
小机城跡を訪れた後、新横浜駅に戻り、次に目指したのが篠原城(金子城)。
新横浜駅のホームから見える小山が城山です。城山という名前がついている通り、戦国時代のお城がありました。今は住宅街になっていますが、頂上部分などには土塁などが残っているそうです。ただし金網の向こうで保護のため立入禁止になっています。金網ごしに空堀が見えました。城跡なので、けっこう急坂の住宅街になっています。
2011年に一部、発掘調査が行われ説明版などが整備されていました。金網をよく見ると3月7日(土)に城跡を見学できる見学会を先着30名で行うと書かれていました。城に行ったのは先週の土曜日でしたが、うーん、来週はさすがに来れないなと断念。
篠原城が最初に造られたのは15世紀で、やがて後北条氏が支配するようになります。城を守っていたのは小机衆の金子氏だったようです。小机城からそう離れていないので、一帯で運用していたのでしょうね。
しかし新幹線と横浜線に囲まれた都会の一角に戦国時代の城が残ったというのはすごいですね。目の前には新横浜プリンスホテルのタワーがあります。
小机城(新横浜)
新横浜駅から日産スタジアムを超えて歩くと小机という土地があります。
小机に丘があり、ここが小机城。もともとは関東管領上杉氏の城でしたが、家臣が反乱を起こして籠城しました。この小机城を攻撃したのが江戸城を造った太田道灌。見事に落城させました。その後は廃城になったそうですが、やがて後北条氏の城となります。
後北条氏の家臣団に小机衆がいました。昔、読んだ後北条氏を扱った本に本領ではない遠くの城で小机衆が城番を勤めるという記述があり、兵農分離や方面軍(北陸の柴田勝家、丹波の明智光秀、中国の羽柴秀吉、関東の滝川一益)が信長の専売特許のように言われますが、そんなことはなく後北条氏でもやっていたという内容で、妙に印象に残っています。
昔、読んだ本に出てきた小机衆の城が、横浜の都会に残っているんですね。城の西側は道路などで破壊されていますが、中心部は小机城址市民の森として整備されていて、大きな空堀や郭跡などが見事に残っています。郭の一つは、ほぼ四角形で野球グラウンドになっていました。
山城好きは増えているようで、小机城に行くと、せっせと郭跡を歩いているオジサンがおりました。もっとも、こっちもオジサンなんですが(笑)、山城跡で人に会うことは、ほぼないので、なかなか新鮮でした。
矢田城跡
桑名商工会議所でのセミナー前に矢田城跡に行ってきました。
桑名駅から少し行ったところに三岐鉄道・北勢線の馬道駅があります。この駅の向こうに見えているのが走井山公園で、ここが矢田城跡。土塁などは残っていませんが、三段の郭跡が広場になっています。伊勢湾が見えて眺めがよいですね。境内にあるお菊稲荷神社が一段高くなったところにあり、櫓があったようです。
この矢田城の麓にあったのが刀鍛冶・村正の屋敷。水が走り出すほどの井戸があったことで走井山という名前になり、刀鍛冶に水はかかせなかったので村正の屋敷があったようです。家康が怖れたという妖刀・村正ですが、これは単なる伝説のようです。
矢田城は北畠の城でしたが、滝川一益の伊勢平定で落城し、長島一向一揆攻めに使われました。近くに愛宕山城もありましたが、こっちは住宅地になってしまいました。
七松城 荒木村重の舞台
尼崎のJR立花駅近く商店街を向けた住宅地にあるのが七松八幡神社。境内には「荒木村重ゆかりの地」という幟がひるがえっています。
昨年、大河ドラマ「軍師官兵衛」では、信長に精神的に追い詰められた荒木村重が謀反したように描かれていましたが、戦国時代に領主の独断専行だけで事をすすめられるわけがなく、中川清秀や高山右近など摂津衆の突き上げと十分に勝機があったため、摂津衆の総意のもとでの信長に対する謀反だったのでしょう。
ところが中川清秀や高山右近をいち早く荒木村重から遺脱させ取り込んでしまった信長が一枚上手でした。信長によって伊丹にある有岡城と有岡城の支城である尼崎城攻めが始まります。尼崎城攻めの付城として織田信忠が作ったのが七松城。城は現在の七松八幡神社一帯にありました。奈良などに多い、環濠型の城で近くの住宅地には水路が残っています。
■荒木村重の家臣などを処刑
荒木村重が神戸の花隈城へ、毛利の後詰を依頼するために有岡城から脱出しますが、その後、落城した有岡城の家臣や家族が処刑されたのが、この七松城。七松八幡神社境内に慰霊碑が建っています。
荒木村重につき従い花隈城に向かった荒木五郎右衛門という武将が、自分の妻が処刑されるのが分かり、身代りになると明智光秀に申し出ましたが、信長は許さず夫婦ともども処刑されたと信長公記に出てきます。七松八幡神社は商店街のすぐ近くにあり、住人は400年ほど前にそんな歴史があったとは、ほとんど知らないでしょうね。
富松城
今日は午後から尼崎で仕事でしたので少し早い目に出て富松城へ。
富松城は阪急・神戸線の武庫之荘駅から少し歩いた交差点のすぐ横にあります。阪神地域の古称を武庫と言いますが、ヤマト朝廷から見て大阪湾の向こう側にある山を「むこうやま」と呼んだ説と神宮皇后が武器をおさめた武庫に由来するという説があります。
住宅地のど真ん中に富松城の土塁の一部と堀跡が残っています。住民の方々がしっかり保存しており、近くのバス停は富松城跡。交差点の名前も富松城跡になっています。
富松城は伊丹城、大物城、越水城の中間地点にあり、たびたび戦火に見舞われています。城主はころころと変わり、細川高国やら三好長慶など戦国時代の中心地でした。
多治見国長邸
多治見にある「ぎんざ商店街」の中間に多治見国長邸跡(多治見城)があります。
といっても碑が建っているだけで、多治見国長は土岐氏の流れを組む一族でした。建武の新政って歴史で習いましたが、あの前に後醍醐天皇による鎌倉幕府打倒計画に参加。
後醍醐天皇側近の日野資朝が諸国をめぐって倒幕を呼びかけました。これに呼応して国長は京都に入りますが、企てが六波羅探題に漏れ、六波羅探題の急襲を受け、国長は奮戦しましたが破れ自害します。日野資朝は佐渡に流され、後醍醐天皇は釈明書を鎌倉に提出し、とりあえず不問となります。(正中の変)
鎌倉幕府を倒した楠正成、足利尊氏、新田義貞らはすぐに名前が出てきますが、それ以前にこんな武将がいたんですね。
多治見国長は多治見市では今も人気があるようで、「多治見まつり」の武者行列では、主役の扱いを受けています。また市内を流れる土岐川にかかる橋の名前も国長橋になっています。