楠城

専門家派遣というコンサルタントを派遣する制度が支援センターにあるのですが、今日は現場へ行って専門家が行っている支援の様子をチャックしてこいと要請があり、企業さんへ行ってきました。

もっとも単なるオブザーバーなんで、黙って見ているだけです。自分でコンサルティングしている方がよっぽど楽ですねえ。

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場所は四日市の南になる楠町というとこなんですが、近くに楠城があると案内があり行ってきました。川に囲まれ、また昔は海が現在の近鉄線路ぐらいにあり要害の地にあった平城でした。今は碑が残っているだけです。築城は南北朝時代で、最初は信濃の諏訪一族がやがて楠木正成の子孫である楠一族が引継ました。楠町と言う名前はこの楠から来ているそうです。

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城は小牧・長久手の戦いの時に秀吉に攻められて落城しています。

勝龍寺城

都橘大学でWOC認定看護師の講座がスタート。

WOCとは創傷・オストミー・失禁のことで、現役の看護師さんが認定看護師の資格取得のために半年間缶詰状況で勉強をします。全国から来ていて、今日の講座で出身を聞いてみたら北海道から九州までいました。ほんまに全国ですね。年齢は20歳代から40歳代までこちらも様々。

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情報処理の講座は午前中だけでしたので、午後はJRで長岡京駅へ。昔は神足駅(こうたり)と言っていましたが。、1995年に改称されています。駅前には村田製作所のビルが建っています。

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駅から少し歩くと神足神社で、神社の境内に勝龍寺城の土塁や堀跡がそのまま残っています。神社から少し歩くと本丸跡が公園になっています。公園にはなっていますが、よく遺構が残っていますね。勝龍寺城は細川藤孝の城で、境内には細川忠興・細川ガラシャの銅像がありました。

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JR長岡京駅の次の駅が山﨑で、秀吉と光秀が争った山﨑の合戦が行われたところです。勝龍寺城は明智光秀の城になっていました。山﨑は目と鼻の先で、敗れた明智光秀は勝龍寺城の北門から逃げ、山科の小栗栖で亡くなりました。

 

戦国の城 渋見城

1日中小企業庁が行われた三重県総合文化センターの裏にはあまり知られていませんが戦国の城「上津部田城」があります。郭が一つ残っているだけですが土塁や堀跡が残っていて、なかなか見応えがあります。ただ案内も何もないので、知る人ぞ知る城になっています。

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すぐ近くに峯治城があったのですが、こっちは完全に破壊されて今はマンションになっています。また三重県総合文化センターから少し行くと三重テレビやFM三重があるのですが、この近くにあったのが渋見城です。津を支配していた工藤氏の城で、織田信長の伊勢侵攻に備えて作られました。

sibumi2.jpg伊勢侵攻では織田信包の軍に包囲され破れました。ちょっと昔の写真を見ると堀跡なども残っていたようですが、今は住宅地になって完全に破壊されています。公園があって碑だけが残っています。

織田信長が元服した古渡城

昼から名古屋ソフトウェアセンターで会議

金山駅で降りて、駅近くでセルフサービスの讃岐うどんを駆け込んでから、時間があったので歩いて10分ぐらいのところにある東本願寺名古屋別院へ。

でっかい山門と本堂がありました。大きいですね。
境内に入って左手を見ると、ありました! 古渡城の碑が。
古渡城は織田信長の父親である信秀が作った城です。当時は東西140メートル、南北100メートルで周囲に二重の堀を巡らせていたそうです。今は碑だけで何も残っていません。

信長が13歳の時、ここで元服をしました。 信長の生まれた那古野城(名古屋城の前身)から、そんなに遠くない所にあったんですね。少し行ったら熱田神宮です。 そういえば若い女性に戦国武将や三国志が流行っているそうですが、こんな場末の城まで来るモノ好きはさすがにいないでしょうね。(笑)

津にある戦国のお城跡(上津部田城)

今日は津駅から少し山手に入った三重県総合文化センターに行ってきました。
三重県総合文化センターは県文(けんぶん)と略称で呼ばれており、文化会館、生涯学習センター 、男女共同参画センター、三重県立図書館、放送大学三重学習センターからなる複合施設で、えらく近代的な建物です。
私も最近まで知らなかったのですが県文の横に戦国時代のお城跡が残っています。少し時間があったので、男女共同参画センターの奥にある上津部田城を見てきました。 男女共同参画センターから遊歩道を進んでいくと下り坂があります。これが堀跡です。土塁を登ると主郭のあったところで、ここが城の中心でした。
虎口には門も築かれていました。主郭の周りには土塁が築かれ、周りは空堀になっています。誰が城主だったかは分かっていませんが、築かれたのは戦国時代ですので、信長の伊勢侵攻の舞台になったかもしれません。 <発掘後、整備され建物跡には柱の位置や井戸を復元されています。それにしても近代的な建物の横に、こんな戦国時代の城が残っているんですね。

戦国時代の土塁が残る(京都・山科)

京都橘大学、秋期講座の最終日。

今日は2講時目からで、時間があったので山科中央公園へ寄ってきました。

山科駅から地下鉄で一駅目が東野駅です。地上に上がると国道1号線と新幹線が走っています。

この東野駅から北西に少し行ったところが山科中央公園で、ここに山科本願寺の土塁が残っています。蓮如の時代です。寺といっても戦国時代ですので土塁や堀に囲まれた城で、中は寺内町になっていました。公園の一角が小山になっていて、これが戦国時代の土塁です。今もしっかり残っていて遊歩道として整備され歩くことができます。堀跡もありグラウンドになっています。土塁はけっこう高いですね。7mぐらいの高さで50mほど続いています。
戦国時代はこの土塁がずっと新幹線の高架を越えた向こうまで続いていました。山科本願寺は延暦寺、近江守護,法華一揆などの連合軍の猛攻によって陥落。これ以降は大阪の石山本願寺に移りました。すぐ近くには蓮如のお墓もあります。