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いよいよ11月。暑い夏も終わり、ようやく城巡りのシーズンとなりました。
城といっても名古屋城や大阪城のような平城であれば季節は関係ないのですが、行こうと考えているのは戦国時代の城。日本にはたくさんの城があり、一説には全国に25,000~30,000の城があったと言われています。
江戸幕府による一国一城令の発布により各地で破城が行われました。破城とは城を崩し廃止することで城割ともいいますが、多くの大名は城にあった建物を壊し、また石垣や土塁の一部を壊してお茶をにごしました。江戸時代初期、まだまだ何が起きるか分からない時代です。いざという時に使えるように申し訳程度に城を壊しただけです。
ですので土塁や空堀がそのまま残っていることが多く、。田舎で城山とかいう地名がついている所には大概、城があります。破壊が進んだのは現代に入ってからでニュータウンやゴルフ場の建設で、戦国時代から残っていた貴重な城が破壊されてしまいました。津でも垂水城、渋見城などは跡形もありません。
そうは言いながら、まだまだ残っている城も多くありますが問題は城に行くには藪を掻き分けて道なき道を行かないといけないということ。とても夏場は城跡に入れません。ですので晩秋から冬が城巡りのベストシーズンになります。
写真は山城ではなく平城京近くにある平城・超昇寺城です。土塁と堀跡なんですが、こんな土と藪だらけの所へ行ってなにが面白いのかと人にはよく言われますが、「AKBのどこがいいの」とと五十歩百歩だと思っています。(笑)
カテゴリー: 城・山城
生きている間に日の目を見ない修理記録
松江城
せっかく出雲まで行ったので荒神谷遺跡まで足をのばそうという話があったのですが出雲大社横の島根県立古代出雲歴史博物館へ行ったら、荒神谷遺跡の鉄剣がずらっと壁一面に並んでいました。おまけに加茂岩倉遺跡の銅鐸も勢揃い。こりゃ、現地まで行かなくてもいいなとなったので行先を松江に変更。
まずは定番の松江城へ。昔、三重県中小企業診断協会の旅行で松江へ行ったのですが時間の都合で城が見られなく、そのリベンジです。もっともAll Aboutのガイド記事「戦国武将とシステム作り」シリーズのイメージ写真になりそうな所ばかり撮っていました。
名古屋城 本丸御殿
名古屋城がやられたら八事で迎え撃つ
名古屋の中心部を斜めに走るのが飯田街道。
主要道路を斜めに横切るので都会では珍しい五道の辻がいたる所にできています。これが名古屋で道に迷う遠因にもなっています。飯高街道は飯田ろ結ぶ目的があるのですが別名、駿河街道、岡崎街道とも言われ、徳川家康の命により軍事・産業用道路として整備されました。
まっすぐ進むと岡崎に行きますので、いろいろと考えられていて、まずは飯田街道沿いの八事(やごと)。近くには名城大学があります。地下鉄の八事がありますが、ここが名古屋から一番近い峠になります。興正寺など寺が整備されていますが、万が一西国から攻められて名古屋城が抜かれた時に迎撃する拠点でした。
尾張藩の重臣を有事の際に陣を構えることがきまっていたそうで興正寺には土塁が残っています。
御器所西城(尾陽神社)
贄崎砲台(津藩のお台場)
津市の岩田川の河口にあるのが贄崎地区。昔は競艇場があり、子供の頃に父親に連れられて行ったことがあります。今はヨットハーバーや、セントレア行きの船が出たりと様変わりしています。
この贄崎から少し川をあがった所に船溜まりがあり、この船溜まりをのぞむ丘の上に贄崎砲台がありました。いわゆるお台場です。戦後まで丘には松が生えていたそうですが、今は影も形もなく青果市場になっています。
ペリー来航以来、国防が意識され、津藩では、幕命を受けて度会郡の二見町に3ケ所砲台を築いていました。志摩は鳥羽藩が台場を築いていました。また津藩は岩田川と塔世川に囲まれた地に城下地がありましたので海の玄関口を守るために贄崎砲台が築かれました。塔世川にかかる塔世橋近くにも西浦砲台が作られます。現在の市町村会館あたりだそうで、こちらも何の痕跡も残っていません。