一条戻り橋の近くにあるのが安倍晴明神社。そう、映画「陰陽師」の主人公として有名な安倍晴明です。屋敷跡に建てられ、一条戻り橋には式神を潜ませていたそうです。境内にあるのが晴明井で安倍晴明が念力により湧出させた井戸で、病気平癒のご利益があります。

安倍晴明の、はっきりした出生地は分かっていませんが、有力なのが大阪・阿倍野で阪堺電車・東天下茶屋駅ちかくにある安倍晴明神社です。ひっそりとした神社でお参りする人はそう多くないですね。
一条戻り橋の近くにあるのが安倍晴明神社。そう、映画「陰陽師」の主人公として有名な安倍晴明です。屋敷跡に建てられ、一条戻り橋には式神を潜ませていたそうです。境内にあるのが晴明井で安倍晴明が念力により湧出させた井戸で、病気平癒のご利益があります。

安倍晴明の、はっきりした出生地は分かっていませんが、有力なのが大阪・阿倍野で阪堺電車・東天下茶屋駅ちかくにある安倍晴明神社です。ひっそりとした神社でお参りする人はそう多くないですね。

室町通りにある小さな社です。
福長神社ですが、もともとは宮中の神祇官西院に祀られていた神さまです。秀吉が聚楽第を作る時か壊す時に現在地に移ったとありますが、織田信長が上杉謙信に贈った「洛中洛外図屏風」には現在の場所に福長神社が確認されるとあります。ということで洛中洛外図屏風をずっと見てみたのですが、どこにあるか分かりません。
洛中洛外図屏風は、もともと剣豪将軍として有名な足利義輝が狩野永徳に発注したものです。足利義輝は三好一党に殺されてしまったので、信長が上杉に”よいしょ”するために送ったものです。つまり室町幕府時代には室町通りに福長神社があったことになります。今は小さな通りですが室町通りといえば幕府に面したメインストリートでした。昔は大きな社でしたが火事で焼失してしまい、今は小さな祠がある神社になっています。

大学受験が華やかな頃、京都にあったのがカンブリ(関西文理学院)という地元の予備校です。本部の建物がまだ健在でした。
かって京都人文学園という民間教育運動がありました。スタートしたのは第二次世界大戦直後の1946年です。
■京都人文学園
一般教養を中心に自由な校風だったようです。「行動する思考人」の育成を目指していました。生徒が自治して、男女共学、無試験、無規則で革新的な教育を行っていたそうです。自由学園とも関係があり、旧制高校みたいな雰囲気ですかねえ。ただ学園を続けるのは大変だったようで1950年に閉校になりました。
■関西文理学院
ただ働いていた青年たちが教育理念を受け継いで夜間部を発足させ、これが社団法人京都勤労者学園となります。また赤字を解消するために1951年に予備校を創設。これが関西文理学院へと続きます。
京都人文学園の初代学園長は新村猛で、あの広辞苑を作った人物です。学園本部に当時の資料がいくつかあり、新村猛の自筆を見た時は感激しましたねえ。あの資料は長浜バイオ大学に引き継がれているのでしょう。

関西文理情報会計専門学校から少し南にあったのがバイオカレッジ京都。現在は長浜バイオ大学・京都学舎になっています。
もともとは関西文理学院・広小路校という予備校があったのですが、浪人する学生が減ったこともあり鞍馬口校に集約し、宝バイオと提携して作ったのがバイオカレッジ京都です。今は長浜バイオ大学になっています。
■「二十歳の原点」の舞台
もっと遡ると立命館大学・広小路キャンパスがあった場所で、たぶん学生会館でした。広小路キャンパスには法学部、文学部、産業社会学部があり、学生運動、華やかりし頃で高野悦子「二十歳の原点」の舞台です。
と言っても古い本なので知らない人も多いでしょう。勤めていた学園の上司が高野悦子の同級生だったという話を聞いたことがあります。出町の「ほんやら洞」や荒神口の「しあんくれーる」も無くなってしまいましたね。
独立する前に勤めていたのが関西文理情報会計専門学校。今はなくなってしまい跡地は帝国データバンクになっています。河原町今出川を少し下ったところで出町輸入食品の近くです。
コンピュータと簿記を教える専門学校で、当時は情報処理技術者試験・第2種と第1種合格を目指すコースでした。言語はCOBOLやC言語などで汎用機での実習もやっていましたね。途中で京都国際ビジネスカレッジという名前になり最後はビジネスカレッジ京都という校名でした。
昼からの授業に出てこない学生を近くのパチンコ屋に見に行くこともありましたね。「先生、フィーバーしちゃって、やめられません!」「お前な~あ。」
10年ほど勤め、後先考えずに独立してしまいました(笑)。
JR長池駅から住宅街の階段を登って高台に出ると公園があります。ここが縄文時代、弥生時代、古墳時代へと続く森山遺跡です。宅地造成で見つかった遺跡です。木津川を臨む高台ですので物流の拠点でした。竪穴住居などの集落跡が見つかっていますが、面白いのが古墳時代の初頭です。

東西40メートル、南北32メートルの方形台状に盛土し、その周囲に幅4メートル、深さ1.5メートルの溝を巡らした遺構が見つかりました。この土地を支配した首長の居館跡のようですが、堀を巡らした郭でまさに城郭の初期の形になっています。
日経新聞・朝刊の「交遊抄」(私の履歴書の下)を読んでいてビックリ!三月書房が6/10に閉店していたんですね。それがオシャレな閉店で顛末が掲載されていました。
三月書房は寺町御池を上がったところにある小さな新刊書店です。見た目は古本屋さんなので、よく間違って入る人がいます。私もウン十年前に古本屋だと思って入りました(笑)。
小さな本屋なんですが、店主が特定ジャンルの本を集めていて、ジャンルにはまっている人が三月書房に入ると、たくさんの本を買わざるをえないアリ地獄のような本屋さんです。初めて入った時、10冊ぐらい買って店を出た途端に重さに気がつき、すごすごと下宿まで持って帰った思い出があります。
三月書房のすぐ近くにあった八百卯は梶井基次郎の小説「檸檬」に登場する名店でしたが、こちらもだいぶ前に閉店しました。寺町通りを歩く楽しみが減ってしまいました。
京都で専門学校の教員をしていた頃、出町商店街が近くで時たま行っていたのが王将・出町店。小さな店なんですがチャーハンがおいしかったですね。
近くに京大、同志社、府立医科大学があるため、店頭には「飯代のない人 お腹いっぱい ただで食べさせてあげます。但し食後30分間お皿洗いをしていただきます。」と張り紙がしてありました。人情味のあふれるお店でした。そういえば京産大学生が多い王将・御園橋店も同じようなシステムでしたね。
長年、店を切り盛りしていた店主が70歳を超えたこともあり、10月末で閉店が決まったそうでネットでは惜しむ声があがっています。知らなかったのですが、この皿洗いのエピソードが「取締役 島耕作」に出てくるそうです。
「ほんやら堂」もなくなったし、昔、行っていたお店がなくなるのは寂しいですなあ。
こっちは全然、目的地ではなかった菟道稚郎子の墓。太閤堤のすぐ横にあったので寄ってきました。

菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)とよみます。菟道(うじ)というのは古い地名で平安時代ぐらいに宇治になったようです。近くに莵道高校がありますが、こっちは「とどう」と呼んでいます。
■菟道稚郎子って誰?
菟道稚郎子って、全然知らなかったのですが、応神天皇の息子で仁徳天皇の異母弟なんだそうです。応神天皇が亡くなった時、日本書紀によると皇位を譲り合って自殺したと伝えられています。ほんまかいな~あ。大体、応神天皇といえば筑紫で神功皇后から生まれ、神功皇后と共に反乱を起こした大和へ攻め上ってくる神武天皇の東征のようなことをやった人物です。
とにかく菟道稚郎子は宇治にあった桐原日桁宮に住んでいたそうで、これが宇治上神社または宇治神社ではないかと言われています。念のために宇治上神社の祭神を調べると菟道稚郎子、応神天皇、仁徳天皇で関係者ばかりです。
亡くなった後、日本書紀は遺骸を「莵道の山の上に葬りまつる」とされていて、そのまま読めば山頂の古墳のはずですが、宮内庁は宇治川のほとりを比定しています。ほんまかいな~あ。
京阪・宇治駅を降りて線路沿いに歩き、平等院には目もくれず太閤堤跡を目指します。

秀吉といえば戦を土木に変えてしまった人物です。三木城の周りに堤を築き水攻めを行い、小田原攻めでは石垣山一夜城を作り土木力で勝ってしまいました。城下町整備でも力を発揮し、大阪の太閤下水は今も現役で使われています。
■太閤堤で大坂ー京都が結ばれる
伏見城を造る時にも大改造を行っています。伏見の南側に拡がっていたのが巨椋池。巨椋池は明治の頃までありJR奈良線が桃山駅から東側に大きく回っているのは巨椋池を避けるためでした。
秀吉は宇治川、淀川等の付け替えを行います。この時に造ったのが太閤堤。巨椋池に分流していた流路をまとめて伏見に引き込むことで水深が確保できます。これで伏見港ができ大坂とを結ぶ船運ができました。坂本龍馬が寺田屋(船宿)を根城にできるきっかけは秀吉でした。
この太閤堤が宇治橋のすぐ下流で400mほど続いているのが発見されました。それが写真の碑です。現在、一帯で宇治川太閤堤跡歴史公園を建設中でした。
■小倉堤跡が近鉄に
秀吉はまた巨椋池の上に堤を作り伏見と奈良の距離を縮める大和街道にしました。池の上の堤なので大軍は横に展開できず奈良方面から攻められてもすぐ撃退されます。この堤跡の一部が現在の近鉄京都線の線路になっています。ですのでJR奈良線のように大曲りしていません。