六波羅探題

六波羅探題
六波羅探題

鎌倉幕府の出先機関である六波羅探題は旧平清盛邸の跡地に建てられ現在は東山開晴館になっています。写真は当時からあった六波羅蜜寺で東山開晴館はこの北側にあります。

足利尊氏の所領が丹波国篠村(京都府亀岡市)にあり、船上山に立て籠もる後醍醐天皇を攻撃するために山陰道を進みますが、既に討幕を考えていました。篠村八幡宮に北条氏打倒の願文を奉納し、Uターンして六波羅探題への総攻撃を開始します。明智光秀も”本能寺の変”の前に足利尊氏の故事に従って篠村八幡宮で戦勝祈願しましたので「麒麟がくる」でもシーンに出てくるでしょう。

室町幕府は幕府機能が京都にあったので出先機関はなし、江戸幕府では京都所司代が置かれました。

京都の大仏

方広寺 大仏殿跡
方広寺 大仏殿跡

見た目は単なる丘ですが、奈良の大仏よりも大きな大仏があったところです。

造ったのは秀吉で三好三人衆と松永久秀の戦いで奈良の大仏が焼けて破損したこともあり、奈良より大きい6丈3尺(約19m)の大仏と大仏殿を造りました。五条大橋を六条坊門に移して、大仏への参詣道とし、これが今も残る正面通りです。

ところが翌年に起きた慶長伏見地震で大仏が倒壊してしまい、秀吉は「自らの身をも守れないのか」と大仏に怒り心頭。大仏を再建することなく秀吉が亡くなってから秀頼が大仏を完成させます。大坂の陣の後も大仏は残っていましたが、寛文2(1662)年の地震で大破してしまいます。

大坂の陣の原因となった梵鐘

方広寺
方広寺

大坂の陣のきっかけになった一つが方広寺の梵鐘に刻まれた文字。

秀吉が建立した方広寺は慶長伏見地震で倒壊してしまい、秀頼が再建しました。新たに梵鐘が鋳造されましたが、問題となったのは鐘に刻まれた「国家安康 君臣豊楽」という文字。写真の白く囲まれた文字です。この文について家康は「家康の名を引き裂き、豊臣家を讃えるもの」だといちゃもんをつけます。これが有名な方広寺鐘銘事件です。最近ではいちゃもんではなく、武士の名前を分けるのは無神経という説も出ています。

文を書いたのは禅僧文英清韓で南禅寺の長老でした。糾弾されて蟄居することになります。大阪冬の陣が終わった後、清韓と鐘を製作した鋳物師辻家を高虎の領地である津に迎えて保護したという後日談があります。2人のお墓は津の上宮寺にあります。

狸谷山不動院

狸谷山不動院
狸谷山不動院

詩仙堂から坂をひたすら登っていくと狸谷山不動院の入口があり、ここから250段の階段が待っています。50段ごとに狸の置物が置かれて、あと何段あるかを明示しています。えっちらおっちら登ると、ようやく狸谷山不動院へ。京都の街が一望できます。

ここには滝があり、剣豪・宮本武蔵が滝行をしたと伝わっています。本堂は懸造りになっています。懸造りとは清水の舞台で有名ですが、崖などの上に建物を長い柱と貫で固定し,床下を支える建築方法です。

秀吉時代の大坂城では千畳敷がこの懸造りで造られていました。大坂城天守閣の模型で見ることができますが当時の人は驚いたでしょうね。伊達政宗時代の青葉城(仙台城)にも大きな懸造りがありました。

一乗寺下り松

一乗寺下り松
一乗寺下り松

一乗寺のあたりには平安中期から南北朝にかけ一乗寺という天台宗の寺がありました。1335年、南北朝の戦乱で、北朝方の細側軍が一帯に火を放ち、一乗寺も焼失します。その後、再建されず廃絶し、地名として残りました。

一乗寺で有名なのが一乗寺下り松。剣豪・宮本武蔵が吉岡一門数十人と決闘を行ったという場所です。坂を登ったところに八大神社があり、立ち寄った武蔵は参拝しようとしましたが、「我神仏を尊んで神仏を恃まず」と意を決して神社に祈ることなく決闘の場に向かいます。吉川英治の「宮本武蔵」でも名場面として出てきます。

もっとも町道場である吉岡道場が実際にあったのは堀川一条だったので、下り松の決闘は一乗寺ではなく、一条だったという説があります。

詩仙堂

詩仙堂
詩仙堂

叡山電鉄・一乗寺駅からずっと東に坂を登っていくと詩仙堂があります。江戸時代の文人・石川丈山の山荘跡です。

石川丈山は家康に仕える三河譜代の武士で、大坂の陣などにも出陣していましたが抜け駆けがとがめられ浪人。紀州の浅野家家臣にもなりましたが、引退して東山に詩仙堂を建てて終の棲家にします。もっとも鷹が峰の本阿弥光悦らと共に、洛中の監視をしていたとの徳川幕府スパイ説もあります。

詩仙堂で有名なのが庭にある鹿威し(ししおどし)。コーンと庭に響く音がいいですねえ。

曼殊院門跡寺院

曼殊院門跡寺院
曼殊院門跡寺院

正月になると天皇陛下が伊勢神宮へ参拝しますが、この風習が始まったのは明治天皇からです。それ以前は、古代の持統天皇しか参拝しておらず、壬申の乱の頃になります。

明治政府の国造りで神道が重視され伊勢神宮へ参拝するようになりましたが、幕末まで歴代天皇が重視したのがお寺です。門跡寺院というのがあり、皇室、公家が出家して住職を務める寺院のことで、お寺のなかでも最高格の位置づけととなります。仁和寺に出家後の宇多法皇が入りましたが、絶大な権力をもっていましたので門跡寺院どころか御室御所と呼ばれるようになりました。

東山・一条寺にあるのが曼殊院という門跡寺院。書院や狩野探幽の障壁画などが、そのまま残っていて、特に枯山水の庭が見事です。曼殊院の横から一条寺城へ登ることができます。

穴山梅雪の墓

穴山梅雪の墓
穴山梅雪の墓

同志社大学・田辺キャンパスからずっと東へ行くと木津川があり、その手前に穴山梅雪の墓があります。

甲斐の武田御一門衆の一人だったのが穴山梅雪。母親は武田信玄の姉で、妻は武田信玄の三女です。手薄となった信玄の本陣に上杉謙信が突っ込んだといわれる第四次川中島の戦いにおいては信玄本陣を守っていました。

信玄亡きあとは勝頼に従うことになりますが織田信忠による甲斐侵攻がはじまると、徳川家康と交渉し、甲斐一国の拝領と武田の名跡継承を条件にして勝頼を裏切ることになります。まあ勝頼は諏訪家を継ぐはずでしたので信玄亡き後は俺だという気持ちがあったのでしょう。

勝頼が滅んでから、信長への御礼言上のため家康と一緒に安土に向かい信長と謁見します。家康と堺を遊覧した翌日に京都へ向かう途中で本能寺の変を知り、逃げる途中で亡くなります。家康は飯盛山、枚方の尊延寺を経て京田辺に入り、普賢寺、興戸、草内のコースで木津川を渡り、宇治田原から伊賀を目指しました。穴山梅雪は家康より遅れて同じコースを行動していたようで興戸から木津川を渡る前に自刃したとも殺害されたともいわれています。

穴山梅雪亡き後に、家康は甲斐に侵攻し、武田の旧臣を傘下にして井伊の赤備えを作ったりして一番得をしていますので、家康が謀殺したという説もあります。また明智光秀軍が家康を探していたので間違えられて殺されたという説もあります。

普賢寺

普賢寺
普賢寺

普賢寺(大御堂観音寺)

創建は義淵僧正で、天武天皇の勅願により建てられました。度々、火災に見舞われたようで現在は大御堂だけが再建されています。現在は観音寺という名前ですが古代・中世には普賢寺と呼ばれていました。普賢寺のすぐ横には地祇神社があり、大西氏をはじめとした地侍の氏寺になっていました。

■神君伊賀超え
本能寺の変が起きた頃、徳川家康は堺から京都へ向かう途中にある飯盛山で、本能寺の変を知らされます。本拠地の岡崎を目指すことになり、これが神君伊賀越えです。ルートについては諸説ありますが、飯森山から生駒山地の北側を抜ける尊延寺(枚方)-穂谷ー普賢寺のコースをとったようです。普賢寺からは草内から木津川を渡りました。足利義昭も普賢寺から河内の若江城へ向かいましたので交通の要衝だったようです。

大学キャンパスにある筒城宮

筒城宮
筒城宮

継体天皇は応神天皇の5世孫であり越前国を治めていた人物。万世一系ということなら、ほとんど傍流で、この時に王朝交代したのではという説もあります。継体天皇陵は宮内庁指定ではなく高槻にある今城塚古墳と言われています。

継体天皇は大和に入れなかったのか、または越前-琵琶湖ー淀川の水運(当時の交易は日本海ルートが主でした)を重視したのか根拠地とした宮殿が

507年 樟葉宮(くすばのみや:枚方市)
511年 筒城宮(つつきのみや:京田辺市)
518年 弟国宮(おとくにのみや:長岡京市)
526年 磐余玉穂宮(いわれのたまほのみや:桜井市)
と移り替わり、大和に入ったのは即位から19年後になります。

同志社大学・京田辺キャンパスの入口を入ると右手にこんもりとした森があり、階段を登ると開けた場所があって、ここが継体天皇・筒城宮跡伝承地で石碑などが建っています。周りはキャンパスに囲まれています。

京田辺は木津川に近く、琵琶湖と大和や難波(瀬戸内海)との水運を意識するなら最適地になります。