夏見廃寺

natsumi201109.jpgこの間、名張へ行った時に夏見廃寺を見てきました。

夏見廃寺は夏見の名張市中央公園の中にあるのですが、公園入口の看板には載っていないし、場所がなかなかわかりにくいですね。歩いていたらようやく入口を
見つけて、奥に入っていくと壮大な寺院跡がありました。塔、金堂、講堂跡の礎石や寺を取り巻いていた築地跡などが残っています。枚方に百済寺跡があるので
すが、あんな感じですね。

夏見廃寺は大来皇女が建てた昌福寺のようです。大来皇女は天武天皇の皇女で初代斎王として伊勢の斎宮へ行っており、弟が大津皇子で寺を建てたのにはいろんな思いがあったのでしょう。

写真は隣の博物館にあった金堂の復元です。

桔梗が丘 大阪通勤圏の最東端

kikyougaoka201109.jpg近鉄・桔梗が丘駅。

大阪からですと名張駅の次の駅で、大阪通勤圏の最東端になります。上本町六丁目から桔梗が丘の少し先の青山町まで行く電車が多く、テレビも関西のテレビが映り文化的には関西文化圏です。丘を切り開いて住宅地が開発され、広い一軒家が多いですね。

ただ桔梗が丘に家を買って大阪へ通勤していた世代が団塊世代となり定期利用が減っています。駅前には近鉄百貨店がありますが駅前に店は少なく、やはりロードサイト店が多いですね。今日は桔梗が丘の企業さんでへ経営相談に行っていました。

ボックスシート

jr201109.jpg実家近くのJR阿漕駅(無人駅)から各駅停車に乗車。中学、高校時代はこの阿漕駅から通っていましたが、当時は駅員が5名ほどいて乗降客も多く賑わっていました。中学校に入った頃は、まだSLが走っていた時代です。

阿漕駅を出た列車は紀勢本線を松阪を過ぎ多気駅まで走り、多気から参宮線に入って伊勢市駅へ向かいます。紀勢本線は多気駅から先は台風の影響で運転見合わせが続いていて南紀特急も運休です。

※夜、多気駅-紀伊長島駅間が運転再開されました。

伊勢市駅へ向かう列車にはほとんど人は乗っておらず、昔懐かしいボックスシートでした。台風が過ぎ去り晴れたので、あちこちで稲刈りしている光景
が見られました。伊勢の手前で、日本一の清流でもある宮川を通ったのですが、まだまだ濁流状態でした。伊勢でも相当、降ったんですね。あと少しで堤防が決
壊しそうなぐらい水位があがったそうです。

伊勢市駅から伊勢商工会議所へ。経営指導員と一緒に企業へIT相談に行っておりました。

美旗古墳群

mihata201108.jpg伊賀神戸駅と名張駅の間に美旗駅があります。この美旗駅のすぐ横に小高い丘があって電車から見えるのですが、気になって調べると前方後円墳でした。

というわけで行ってきました。駅のすぐそばにあり名前は馬塚。五世紀後半の古墳のようで、前方墳からえっちらおっちら後円墳に登れます。めちゃく
ちゃ広いですね。全長142mで、周りの周濠まで残っています。古墳というとキが生い茂っているのですが、こうやって古墳の上を歩けるのは大きさがよく分
かります。

奈良、大阪で古墳群というと、珍しくもなんともなく、そこらへんにありますが三重でこれだけ、古墳が揃っているところは珍しいです。駅の周辺には5つほどの前方後円墳が散らばっています。

ちょっと行くと観阿弥創座之地というのがあります。能で有名な観阿弥・世阿弥親子ですが、観阿弥が伊賀に猿楽座を作ったのが能の始まりになっています。

♪桑町、茅町、広小路、もひとつゆられて上野町♪

iga20110823.jpg♪桑町、茅町、広小路、もひとつゆられて上野町♪

西岡たかし 「上野市(うえのまち)」 で有名な広小路駅へ行ってきました。駅と言っても小さな待合がポツンとあるだけの無人駅です。伊賀鉄道はほとんど無人駅で有人駅は3つしかありません。

駅は大和街道のすぐそばで、今はバイパスができてしまいましたが江戸時代のメインストリートです芭蕉の生家も近く。西の端には仇討で有名な鍵屋の辻があります。

広小路駅で降りて、企業周りしていましたが暑かった。 

尾鷲南インター

owase201108.jpg大阪から松阪へ出て、最低賃金総合相談支援センターの車に便乗して尾鷲の企業へ。写真は尾鷲南インター近くの工事現場写真。

三重県の多気町(シャープ多気工場がある所)から熊野にかけて紀勢自動車道を建設中です。この区間は国道42号線しかなく、この国道が通れなくなると、全ての物流が止まってしまいます。

4,5年前に大雨で東紀州が陸の孤島になってしまいました。物資を尾鷲に船で運んで、尾鷲から物資を担いだ人が馬越峠を越えて隣の相賀へ運びまし
た。馬越峠というのは熊野古道で、尾鷲の人に言わせると熊野古道は古道ではなく、今でも生活道路だという具合に道路事情の悪いところです。国道42号線に
変わるもう1本の道路が悲願になっています。

紀勢自動車道は多気から大内山村までは開通しましたが、大内山-紀伊長島と海山ー尾鷲北は2012年度中に開通予定。尾鷲の町に入るまで2つの峠越えをしないといけませんが、これで尾鷲の手前の1つに減りそうです。

遷宮が2013年なので、何とかそれに間に合わせたいと工事が進んでいます。江戸時代、伊勢参りをしてから熊野古道を通って熊野詣でをするのが定
番でしたので高速道路で紀伊長島まで伊勢から行けることになります。ただ工事需要が終わると民需が少ない東紀州の建設業にとっては厳しいことになりそうで
す。

近鉄・湯の山線

mie20110812.jpg四日市商工会議所の経営指導員に連れられて四日市の桜にある企業さんへIT相談へ。もう一件まわるという経営指導員と別れて近鉄・湯の山線の桜駅から帰ってきました。

近鉄・湯の山線は四日市駅から湯の山温泉駅を結ぶ単線です。湯の山温泉駅を降りると温泉街となり、その先にロープウェイがあり御在所岳へ行けま
す。かなり高い所を通るロープウェイで高所恐怖症にとっては地獄ですね。小学校の時に乗ったのですが、二度と乗らないと誓いました。(笑)

湯の山線は単線なんですが、かっては大阪から特急が出ていました。名古屋行きと連結して走り、四日市駅で切り離して湯の山線に入ります。平日もけっこう乗っていたそうです。大阪の経営者に昔、聞いた話によると新地のホステスとお忍びでデートする時に活用していたそうです。

近鉄沿線沿いには榊原温泉という温泉がありますが、こちらは大阪から1時間少しと近いため奥さんが友達と来ている可能性があり、鉢合わせしないように2時間以上かかる湯の山温泉が経営者にとってよい温泉場だったそうです。ほんまかいなあ。(笑)

蘇民将来子孫家門

ise20110809.jpg朝から伊勢へ。伊勢商工会議所の経営指導員と宮川の河口近くにある企業さんを訪問してきました。

伊勢商工会議所の入口を入ると遷宮「お白石持ち」用のお木​曳き車模型が置いてありました。「お白石持ち」とは宮川の河原から採集した白石を陸曳・川曳で運び、正殿用地に敷き詰める行事で地元の神領民らが参加します。

もう一つ入口にあるのが蘇民将来子孫家門と書かれた注連縄。伊勢では1年中、注連縄を飾っておく風習があります。もともとは旅行中の須佐之男命が
蘇民将来の家に泊めてもらい歓待してもらったことから、入口に「蘇民将来の子孫」と書いておけば疫病などから守ってあげると言われたのが謂れだとか。伊勢
だけでなく松阪から志摩一体で見られる風習です。

略して将門と書くと平将門を思い出すので「笑門」と書きます。同じ三重県でも津市あたりでは見たことがない風習ですねえ。雲出川あたりが境目なのかなあ。

百五銀行

hyakugo201108.jpg三重県には百五銀行、三重銀行、第三銀行と3つの地銀がありますが一番大きいのが百五銀行。銀行名に番号が入っている通り、創立時は第百五国立銀行でした。

津市の岩田川の横に本店があるのですが、水はけが悪いのか大雨になると1階店舗に浸水しています。よく台風前になると入口前に土のうを積むのが風物詩になっています。高層建築が少ないので11階建はよく目立ちます。

本当は中心市街地である丸ノ内(三重会館の前)に移転する予定でしたが、調査したら津城の内堀が出てきて、遺跡保存の話もからんで進んでいないようです。

我が水谷IT支援事務所の口座も百五銀行に作っています。本当は大阪に店舗が多い三井住友銀行にする予定だったのですが、なんせ三重に都市銀行は
ほとんどありません。みずほ銀行は四日市と津に2店舗。三井住友銀行にいたっては三重県内に店舗がありません。その代わり三重銀行のATMで三井住友銀行
の口座から引き出しても引き出し手数料は無料です。と後で知りました。

結局、三重県内で店舗数が多い百五銀行に口座を作りましたが大阪は難波に1店舗あるだけです。

桑名藩と新選組

kuwana201108.jpg午後は桑名の企業さんへ。相談の後、世間話となり石取祭りから幕末の歴史の話に。

幕末の桑名藩主は松平定敬。松平定敬は会津藩・松平容保の弟で、。徳川慶喜らと京都で薩長と対峙していました。結局、鳥羽伏見の戦いから五稜郭まで戦った殿様として有名です。末期の新撰組に桑名藩士が多いのは、殿様自ら土方歳三らと転戦したのが理由です。

その間に若君のいる桑名藩は新政府軍の進軍路でもあり降伏しましたが、藩主の方は潔しとせず、自ら上野彰義隊、会津戦、越後戦などを戦い、最後は五稜郭で戦っています。最後は五稜郭を脱出して上海へ逃れ、やがて日本へ戻り、天寿を全うしています。

五稜郭の頃には土方歳三と一緒に戦っており、これが桑名藩新撰組です。強かったようですね。特に立見という侍は政府軍に名がとどろいていました。

西南戦争が起こった時、大久保利通などが、そうだ我々をさんざん苦しめた桑名藩の立見がいるではないかと思い出し、三重県庁に出仕していたのを陸
軍新撰旅団副長として呼び出しました。後に陸軍大将にまでなっています。薩長出身の将軍も戊辰戦争で煮え湯を飲まされた立見には頭があがらなかったそうで
す。

桑名はそんなこともあり、会津とは縁が深いですね。陸奥白河藩から松平家が移封されたため、今でもズーズー弁をしゃべる桑名市民がいるという説がありますが、さすがにガセネタのようです。