奈良の鹿

鹿

奈良といえば鹿で、そこらへんをウロウロしています。

春日大社が創建された時に4つの神様が勧請されましたが、その一つが鹿島神宮の建御雷命(たけみかづちのみこと)で名前の通り雷神です。また剣の神様でもあります。出雲の国譲り神話では天照大神の使者として大国主命と外交交渉し、反対していた建御名方神を相撲で負かして諏訪に追放した神様です。

この建御雷命が鹿島から奈良へやってくる時に白鹿に乗ってきたということから、鹿は神鹿と呼ばれ古代から大切にされています。鹿は神の使いですので人が鹿と出会うと挨拶したことから、鹿もお辞儀の習慣を覚えたという俗説があります。単に鹿せんべいが欲しいだけだと思うんですが(笑)。

それにしても何で都から遠く離れた鹿島から神様を招いたのでしょうか。実は藤原鎌足の生まれが鹿島だったとする説があります。鎌足はもともと中臣鎌足ですが、中臣氏は京都・山科が拠点なんで、鹿島はちょっと不思議です。古代、四方向に四道将軍が派遣されたと日本書紀にあり、このうち二人の将軍が会ったのが会津の地名の由来ですので鹿島は東北経営の水運拠点だったかもしれません。親が赴任していて誕生したんですかねえ。鎌足のお母さんは大伴氏で軍事氏族ですから可能性はあります。そうなると明日香の藤原鎌足誕生地はどうなるのかな。

春日大社には枚岡神社から中臣氏の祖神である天児屋根命と比売神が勧請されて祀られていますが、これも不思議な話で枚岡から八尾一帯は物部氏の勢力圏です。聖徳太子&蘇我馬子連合軍と戦って破れ、殺された物部守屋の館は八尾にありました。物部&中臣でタッグを組んで蘇我と争ったので中臣の拠点が枚岡にあったのかなあ。

興福寺 中金堂 復元

興福寺 中金堂

正倉院展へ行く途中、近鉄奈良駅から東向商店街を通ります。東側にある興福寺に尻は向けられないと東向き(西側)に商店が作られたのに由来しています。もっとも東側は断層でかなりの段差になっているので店を作りにくかったのが本当でしょう。

この段差を登って興福寺の脇に出ると中金堂が復元されていました。興福寺のど真ん中なので、なかなかの存在感があります。

興福寺には、金堂が3棟ありますが、そのうち中心となる金堂が中金堂で、藤原不比等が創建しました。東金堂は五重塔の横に健在ですが西金堂は中金堂と一緒に焼けて現在は基壇だけが残っています。西金堂にあった仏像が阿修羅像や八部衆立像で、無事に運び出され今では国宝館で見ることができます。

中金堂は源平の争乱や雷などで7回、火災で燃えました。なんせ平安時代から興福寺は延暦寺、園城寺、東大寺と並ぶ僧兵の巣窟で、お坊さんというより軍隊でしたから争乱によく巻き込まれています。暴れん坊将軍である吉宗の頃に泥棒に入られた失火で焼けてからは、幕府も興福寺も金がなくなんとか仮堂だけ作り、ようやく300年ぶりに復興されました。しばらく観光客が増えるでしょう。

15%の高利で借金(正倉院展)

正倉院展

家で仕事をしてから夕方、正倉院展へ

正倉院展では閉館1時間半(平日16:30~)前からオータムレイトチケットの販売が始まり待ち時間なしで入れます。閉館30分(平日17:30~)前には入場できなくなるので入口近くの展示場には、ほぼ係員しかおらず、じっくり見られます。ポスターにもなっている平螺鈿背八角鏡も入口近くに置かれています。

■月利15%の高利
御物もいいのですが面白いのが古文書ですね。今年の目玉は奈良時代の借用証書である「月借銭解(げっしゃくせんげ)」の展示。古文書を見ると500文の貸付金に対して月利65文と記載されています。100文に対して月15文ですから月利15%となります。

東大寺の写経所では月借銭が多く行われており通常の借入期間は1~2ケ月ぐらいでした。翌月の給与で返済していたようで、こうなると借りて返しての自転車操業ですね。布を質物(担保)として出していたり、返済が滞った時に支払い保証をする償人(連帯保証人)も書かれています。

借用証書は天平時代から全然、変わっていないようです。それにしても15%の金利を返すのは大変だったはずですが、当時はインフレだったんでしょう。また銭文が流通する貨幣経済が少なくとも都では実現されていたようです。

稗田阿礼

賣太神社
大和郡山の近くに稗田(ひえだ)という集落があります。稗田と聞けば出てくるのは稗田阿礼です。記憶力がすごい人物で帝紀、旧辞を暗記し、太安万侶が稗田阿礼のしゃべる内容をまとめたのが古事記と言われています。
古事記は神代における天地の始まりから推古天皇の時代に至るまでの様々な出来事を記した書物です。江戸時代となり松阪在住の本居宣長が35歳頃から35年をかけて書いたのが「古事記伝」。古事記の注釈書で全44巻でした。
太安万侶については1979年に奈良市の茶畑から墓誌が発見され墓が特定され考古学上の大発見となりました。問題は稗田阿礼で、古事記の序文以外には、まったく登場しません。なかには実在を疑う声もあります。稗田氏はアメノウズメを始祖とする猿女君と同族と言われていることから女性説もあります。
写真は稗田阿礼が主祭神の賣太神社(めたじんじゃ)。

長谷寺 二本の杉

長谷寺
高束城跡から石畳の道をずっと下ると初瀬ダムがあります。ここから初瀬川となり、やがて大和川になって大阪湾へ至ります。
初瀬ダムから初瀬川沿いに下っていくと牡丹で有名な花の御寺である長谷寺があります。ふつうは近鉄の長谷寺駅から行くのですが、山側から行くのも、なかかなオススメです。長谷寺に着き、境内入口で待っているのが399段の登廊です。
長谷寺の創建は奈良時代で、平安時代には貴族の信仰を集め、枕草子、源氏物語などにも登場します。登回廊の途中から藤原定家塚へ行く道があり、途中にあるのが二本(ふたもと)の杉で、この杉は源氏物語の第22帖「玉鬘(夕顔の娘の名前)」で登場します。
長谷寺の御利益を頼みに参詣の旅に出た玉鬘が、夕顔(母親)の女房である右近と再会するのが二本の杉で、根元から二本に別れています。再会がかなう霊木とされており現在もあります。早い話がパワースポットの一つなんですが、全然知られていないようで観光客は誰もいません(笑)。再会で縁結びじゃないからかな~あ。

薬師寺

薬師寺
昨日は西ノ京で仕事だったので久しぶりに薬師寺へ寄ってきました。
奥さんの実家が西ノ京なので、西ノ京自体へはよく行っているんですが薬師寺や唐招提寺はさっぱりですね。大阪人が身近な通天閣に登らないのと同じです。もっとも高所恐怖症という話もあります。
フェノロサが”凍れる音楽”と絶賛した東塔は解体修理中で、平成32年6月頃に修理完了予定です。その代わりに食堂が新しくなっていました。堂内には壁画「仏教伝来の道と薬師寺」があり、平城京までの大きな絵画が何枚も飾ってありました。

相撲の発祥

力士埴輪
相撲界が騒がしいですが、日本で相撲が始まったのは垂仁天皇の時代。大和八木駅から西ノ京駅へ向かう時、線路のすぐ右手に見える古墳が垂仁天皇陵です。
垂仁天皇の時代、当麻に当麻蹴速(たいまのけはや)という剛の者がいて俺に勝てる者はいないと言っているので、出雲の国に野見宿禰(のみのすくね)を呼び出し展覧試合が行われました。これが相撲の祖となります。相撲を取った場所は山の辺の道沿いにある穴師坐兵主神社です。
試合に勝ったのは野見宿禰で当麻蹴速の腰を踏み折って殺します。コロッセオの試合のようですね。その後、野見宿禰は垂仁天皇に仕えることになります。また、それまで行われていた殉死をやめ埴輪に替えることを提案し、野見宿禰は土師臣(はじのおみ)の祖となります。今の藤井寺市や道明寺が本拠地となり土師の里と呼ばれるようになります。
古墳時代には力士が定着したようで今城塚古墳では力士埴輪が見つかっています。織田信長も相撲が好きで勝者を家臣にしています。高杉晋作が組織した騎兵隊には力士隊があり伊藤博文が率いて功山寺の挙兵に参加しています。そういえば新選組が大坂で起こした乱闘事件の相手も力士でした。

奈良競馬場跡

奈良競馬場跡
「近鉄沿線ディープなふしぎ発見」に奈良競馬場跡が載っていました。
秋篠寺の近く、神功皇后陵のすぐ隣にみえるのが巨大な楕円形で、これが奈良競馬場跡です。1939年につくられた一周1600mの超巨大な競馬場でした。戦後、競輪ブームが起きるとパドック等に競輪場を開きます。1954年に競馬場は廃止となり、維持が簡単な競輪場のみとなったそうです。それで横に奈良競輪があるんですねえ。

大津皇子の墓(二上山)

大津皇子の墓(二上山)
二上山の雄岳頂上にあるのが大津皇子の墓。円墳になっていて里中満智子の「天上の虹」で有名です(笑)。
大津皇子は天武天皇と大田皇女の間に生まれた子供で、大田皇女は鸕野讃良皇女(のちの持統天皇)の姉でしたが、大津皇子が小さい頃に亡くなり、後ろ盾がありませんでした。そのため天武天皇と鸕野讃良皇女の息子である草壁皇子が皇太子となりますが、朝廷内には大津皇子を推す声も多かったようです。
天武天皇が亡くなると、大津皇子は謀反をたくらんだと捕えられ24歳の若さで殺されます。黒幕は我が子可愛さの鸕野讃良皇女のようで叔母さんに殺されちゃうんですね。ところが草壁皇子が早世してしまい、予定が狂ってしまいます。しょうがないので草壁王子の息子だった文武天皇を14歳の若さで即位させ、実権は持統天皇がにぎりました。これが院政のモデルとなります。
さて大津皇子の墓ですが麓にある鳥谷口古墳が実際の墓ではないかと言われています。姉の大来皇女の有名な歌「うつそみの人なる我や明日よりは 二上山を弟と我が見む」とも矛盾しません。濡れ衣かもしれませんが謀反人の墓を都から見える二上山の上に造るのもどうかなという気がする。としたら誰の墓なんだろう。

現在まで名前が残った宮内省

宮内省
律令制度によって官僚制度が整い、8省が整備されました。他に神祇官(神祇祭祀を司る)、太政官(国政一般を司る)がありました。
中務省-天皇の公的な補佐 詔書の作成など政治に関わる
式部省-文部省
治部省-外務省&葬事・仏寺・雅楽
民部省-税務署
兵部省-軍隊
刑部省-裁判所
大蔵省
宮内省-天皇の私的な補佐
今でいう厚生労働省、農林水産省、経済産業省、国土交通省、環境省なんかはなかったんですね。民部省には主計寮と主税寮があり現在の財務省主税局、財務省主計局・主計官として名前が残っています。予算編成になるとよく名前を聞く役名です。
古代の省名で現在まで残っていたのが大蔵省と宮内省ですが大蔵省は財務省になってしまいましたので、残っているのは宮内庁だけです。
平城宮跡の宮内省は建物などが復元されています。ただ、ここが宮内省だとは確定はされておらず、おそらくという推定です。