八木札ノ辻

古代官道ファンの皆さん!そんな人はいないって(笑)。

八木札ノ辻
八木札ノ辻

いよいよ下ツ道です。藤原京の西端と平城京の朱雀大路をまっすぐ結ぶ官道でした。一部が残っていて今の国道24号の約250m西方を並行して走っています。この下ツ道は江戸時代になると中街道と呼ばれるようになります。横大路は伊勢街道(初瀬街道)と呼ばれ、飛鳥時代からずっと使われています。

この下ツ道と横大路が交差するところが近鉄八木駅のすぐ近くにあります。交差点は「八木札ノ辻」という名前で伊勢参拝や大峯山への巡礼客などでにぎわっていました。交差点角にあったのが旅籠で、現在は整備され八木札ノ辻交流館という名前で客間や坪庭などの見学ができます。

中ツ道と横大路の交差点

藤原京から平城京を結んでいたのが上ツ道・中ツ道・下ツ道の3つの官道です。

■中ツ道
中ツ道は字の通り上ツ道と下ツ道の間にあり、南は藤原京の東端から北も平城京の東端を結んでいました。さらに南へ行くと香具山を迂回し、飛鳥の橘寺へ至るため、近世は橘街道と呼ばれていました。さらに南に向かうと吉野へ通じています。壬申の乱の舞台ですねえ。

中ツ道と横大路の交差点
中ツ道と横大路の交差点

■横大路
横大路は東西の官道で三輪山の南から葛城市の二上山付近まで、ほぼまっすぐに整備されました。三輪から東側は伊勢街道となり、近世は伊勢参りに使われ伊勢街道と呼ばれていました。二上山から西側は竹内街道につながり、堺に至ります。ここから難波大道が出て難波京にいたります。

中ツ道(橘街道)と横大路(伊勢街道)が交差するところです。今はなんてことのない交差点ですが飛鳥時代はインターチェンジみたいな場所でした。

山田道

飛鳥にある軽の衢(かるのちまた)を通り、安倍、磐余の間を結んでいたのが官道・山田道です。飛鳥資料館の前の道になります。飛鳥を出ると2つの丘陵の間を通るため途中で曲がり、古代・安倍寺の前に出ます。安倍からは北にまっすぐ延びて、桜井の戒重(かいじゅう)から「上ツ道」になります。当時は幅20mほどの大道で、現在の県道とほぼ同じところを通っていました。戒重が上つ道と横大路の交差点になっていました。

山田道
山田道

桜井には大和川沿いに海柘榴市がありました。難波津から入った一行は大和川をさかのぼり、斑鳩宮前を通って海柘榴市あたりで上陸しましたので、ここから山田道を通って飛鳥の宮を目指します。遣隋使とともに来日した裴世清もこの道を通ったのでしょう。

安倍寺

現在の安倍文殊院は移転したもので、もともとの安倍寺は少し南西にありました。現在は安倍史跡公園になっていて塔跡などがありますが、観光客は誰もいません(笑)。安倍寺が建っているのは飛鳥から続く山田道が北に延びる上ツ道になる所で交通の要所でした。

安倍寺
安倍寺

古くから高い盛り土があり、建物の建設計画が持ち上がった時に発掘調査が行われ、古代寺院が現れました。安倍寺は東に金堂、西に塔、北に講堂を配した法隆寺式、あるいは川原寺式に近かったことが判明します。山田寺式の軒丸瓦等が出ているので山田寺と同時期に安倍寺が造られたようです。

山田寺と同じ時期の創建なので建立者は孝徳天皇時代に活躍した阿倍倉梯麻呂のようです。安部寺は鎌倉時代に焼失してしまったため、阿倍倉梯麻呂の古墳など別院に移ります。これが現在の安倍文殊院。もともとの安倍寺は廃絶したようです。

阿部

桜井にあるのが阿部という土地。東隣には等彌(鳥見)があり神武天皇が大嘗祭を行ったとされる霊畤があります。また上之宮(聖徳太子の上ノ宮比定地)も東隣です。西隣には磐余があり、古代の一等地です。阿部は阿倍、安倍とも書きます。ここを本拠にしたのが阿倍氏です。

阿部
阿部

有名なのが乙巳の変後、左大臣となった阿倍倉梯麻呂。今は阿部文珠院という名前になっていますが、この阿部寺を創建したのが阿倍倉梯麻呂です。阿部文珠院の境内には古墳が2つあり、西の古墳は安倍倉梯麻呂の墓と言われ石室に入ることができます。阿部文珠院は高台にあり耳成山、二上山を一望できます。

阿部氏には斉明天皇時代に蝦夷を服属させた阿倍比羅夫や遣唐使として長安にわたり唐の玄宗に仕えた阿倍仲麻呂もいます。「天の原 ふりさけみれば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも」の和歌で有名です。後の時代には安倍晴明も出てきます。

磐余池の本当の場所

磐余池(いわれのいけ)ファンの皆さん!

磐余池
磐余池

そんな人はいないって(笑)。用明天皇の磐余池辺雙槻宮跡伝承地が石寸山口神社と吉備春日神社の2ケ所に比定されていましたが、2011年に人工池の堤跡などが発見され、これが磐余池といわれています。作ったのは履中天皇で5世紀前に築造、用明天皇がこの磐余池の畔に池辺双槻宮(いけのべのなみつきのみや)を造営しました。

今は田になっているところが人工池になっていて丘陵が島のようになっていました。Googleマップで「東池尻・池之内遺跡」で検索すれば磐余池にたどりつけます。磐余は古い地名で神武天皇の和風諡号はカムヤマトイワレビコになっています。

百済大寺

用明天皇の磐余池辺雙槻(なみつき)宮、もう一つの伝承地が吉備春日神社です。神社の横に吉備池(江戸時代に造られた溜池)があります。池にたどりつくのが大変なところで、迷いましたが結局は吉備春日神社からしか池に入る道はありませんでした。こんなところ観光客は絶対に来ないですね(笑)。吉備池廃寺跡で検索するとGoogleマップではでてきます。

吉備池
吉備池

■百済大寺
吉備池のほとりに塔跡と金堂跡がみつかり、吉備池廃寺と名づけられましたが、百済大寺とみられています。建てられたのは舒明天皇の時代とみられています。西の民は都を造り、東の民は寺を造るとの記載があり、百済大寺の西側には百済大宮があった模様です。

吉備池のほとりに大津皇子の歌碑がありました。大津皇子の辞世の句は磐余池で詠まれたので建てられていますが、吉備池は江戸時代にできた池なので絶対に磐余池と違うでしょう。もう少し西にいった池尻あたりと考えられています。

用明天皇の宮

大和桜井駅から少し行ったところにあるのが磐余(いわれ)です。神武天皇の日本書紀での名前は神日本磐余彦天皇(かむやまといわれびこのすめらみこと)ですので、とっても古い地名になります。

磐余池辺雙槻宮比定地
磐余池辺雙槻宮比定地

聖徳太子のお父さんといえば用明天皇、用明天皇のお父さん欽明天皇の時代に仏教が伝来し蘇我氏と物部氏の対立が続きます。用明天皇の時代にも蘇我馬子と物部守屋との抗争が続き用明天皇は病に倒れます。後継の崇峻天皇は蘇我馬子に討たれることになる激動の時代でした。

用明天皇の宮が磐余池辺雙槻(なみつき)宮で伝承地が2つあります。1つが石寸山口神社周辺で、大和誌に双槻(なみつき)神社と呼ばれてたことがあり伝承地になっています。もう一つが吉備春日神社です。ということで石寸山口神社を探して行ってきました。住宅地から坂を登ったところにあり、案内板も何もありません。池そばにある高台にあり、守りやすい地になっていて三輪山もよく見えます。

用明天皇の磐余池辺雙槻宮ですが近年、ずっと西に行った場所で大型建物と池跡が発掘され、こちらではないかと言われています。

越塚御門古墳

越塚御門古墳(こしつかごもんこふん)

越塚御門古墳
越塚御門古墳

牽牛子塚古墳に隣接し2010年に発見された古墳です。整備のために牽牛子塚古墳周辺の発掘をしている時に見つかりました。牽牛子塚古墳が八角形の墳丘で、しかも石室が2つあった合葬墓から斉明天皇と娘の間人皇女が被葬者と考えられていますが、日本書紀に「皇孫太田皇女を、斉明陵の前の墓に葬す」と記載されているので、牽牛子塚古墳の目の前にある越塚御門古墳の被葬者は太田皇女でしょう。

■太田皇女とは
太田皇女とは斉明天皇の孫娘となり、天智天皇の娘で、後の持統天皇の姉にあたります。大津皇子のお母さんですね。持統天皇は息子である草壁皇子を天皇とすべく、競争者だった姉の子である大津皇子を謀反の疑いで殺してしまいます。太田皇女は大津皇子が4歳頃に亡くなっていて後ろ盾になりませんでした。ドロドロとした「天上の虹」の世界です。大津皇子の墓は二上山上にあるとされていますが、謀反人を山上に葬るとは考えにくく、麓の鳥谷口古墳ではないかという説があります。

牽牛子塚古墳

牽牛子塚古墳(けんごしづかこふん)

牽牛子塚古墳
牽牛子塚古墳

以前に行った時は竹林の中にある土の山の古墳でしたが、きれいに公園として整備されました。牽牛子はアサガオの別称で八角墳の形がアサガオに見えるところから名づけられました。最初は円墳と思われていましたが、天皇しか使えない八角墳ということがわかり、しかも石室が2つあるところから日本書紀に記載されている斉明天皇・間人皇女の合葬陵と考えられています。

斉明天皇といえば中大兄皇子のお母さんです。乙巳の変では襲われた蘇我入鹿が天皇の前にすすみますが、とどめをさされました。白村江の戦など朝鮮情勢などに振り回された時代です。斉明天皇は九州へ出兵した時に那の津(福岡)にて急死しています。

斉明天皇は多武峰に両槻宮を作り、また運河を掘るなど土木工事が相次いだため、掘った溝は後世に「狂心の渠」と揶揄されました。明日香に残る亀形石造物や酒船石は斉明天皇の時代に造られています。そうそう大阪の四天王寺にあり、今も現役で使われている亀形の石造物がこの酒船石と同時代のものです。