柳の渡し

六田城に向かうには美吉野橋を渡ります。吉野川にはいくつか橋がかかっていますが、昔は渡しでした。美吉野橋近くにあったのが柳の渡しです。六田(ムダ)と対岸を結んでいました。渡し跡には江戸時代の石灯篭や道標が残り柳も植えられています。

柳の渡し
柳の渡し

柳の渡し以外にも桜の渡し、椿の渡し、桧の渡しがありました。柳の渡しは景勝地だったようで万葉集に「音に聞き 目にはいまだ見ぬ 吉野川 六田の淀を 今日見つるかも」という歌が残っています。

吉野からさらに奥に入ると修験道の大峯奥駈修行があります。修行では75の靡(なびき)と呼ばれる行場を巡ります。柳の渡しが北の起点で75番目の靡になっていました。昔は、多くの行者が吉野川で禊ぎをして大峯を目指したそうです。ちなみに1番の靡は熊野本宮大社です。

吉野・宮滝遺跡

■吉野宮
大海人皇子が妃の鵜野皇女らと隠棲していたのが吉野宮。どこにあったのか長らく不明でしたが昭和になり地元の郷土史家らが宮滝で古い時代の瓦や土器を採取したことから発見されました。吉野川沿いに広場があり、ここが吉野宮(宮滝遺跡)があったところです。

宮滝遺跡
宮滝遺跡

碑と説明版がありますが、吉野神宮からは離れていて、けっこう辺鄙な所で、飛鳥からは峠を越えて吉野川へ出て川を遡らないと到達できません。ここが壬申の乱の出発地になります。里中満智子の「天上の虹」の舞台ですなあ。

■吉野の盟約
天武天皇として即位した後、皇后となった鵜野皇女や草壁皇子らを連れて吉野宮に行幸して行ったのが吉野の盟約。草壁皇子を次期天皇とし、異母兄弟同士互いに助けて相争わないことを誓わせました。皇位継承で争いが多かったので、それを防ぐ目的がありました。

ところが天武天皇と草壁皇子が相次いで没したことから鵜野皇女が即位して持統天皇になります。その後、通算して33回の吉野宮行幸を行っています。後に続く文武天皇・元正天皇・聖武天皇も吉野宮への行幸をしていますので、聖域になっていたようです。

吉野・本善寺 蓮如上人創建

吉野の飯貝にあるのが本善寺です。石垣の上の高台にあり、飯貝御坊とも呼ばれています。どうみても城郭スタイルですね。裏山頂上にある飯山城を詰城として平地の城の風情です。

本善寺
本善寺

■蓮如上人
本善寺を創建したのが蓮如上人で、蓮如は衰退していた本願寺を再興した人物として有名です。畿内・北陸・東海を中心に布教し、越前に吉崎御坊を作り一向宗の一大拠点となります。山科本願寺や石山御坊(後の石山本願寺)を作り、最後は山科で亡くなっています。「朝には紅顔ありて、夕には白骨となれる」という御文でも有名な人物です。蓮如の3代後が顕如で石山本願寺で織田信長と10年以上にわたり戦いました。

本善寺は大和における浄土真宗寺院の中心になっていきます。当時は天文法華の乱など宗教通しでも争っていた時代で、イスラム国やタリバンどころの騒ぎではなかったですね。石山本願寺なんか堅固な城になっていて信長が10年間も攻めあぐねました。

信長と石山本願寺が戦っていた時に筒井順慶が吉野を攻め、本善寺の大半が破壊されます。江戸時代に本殿などが再興されました。

喜光寺 試しの大仏殿

喜光寺
  • 先週、奈良で法事だったので、ついでに喜光寺に寄ってきました。

    喜光寺があるのは菅原の地で、もともとは土師氏が住み、後には菅原道真を輩出する菅原氏が住みました。菅原の名前はこの地名からとっています。

    喜光寺は平城京の一等地にあり、ここに大仏作りに貢献した行基が菅原寺を建立します。行基が亡くなったのも、この寺でした。

    ■行基
    行基は近鉄奈良駅前の噴水でも有名ですが、最初は集団で徒党を組んで変なことをやっている反社会的勢力として弾圧を受けたりしていました。やがて政権側に理解され、聖武天皇が菅原寺に行幸した時に本尊から不思議な光が放たれたことから、「歓喜の光の寺である」として菅原寺から喜光寺に名称変更されます。

    現在の本堂は再建ですが、もともとは大仏殿の雛型として建てられたとの伝承から「試みの大仏殿」と言われています。そうそう、去年、喜光寺近くの菅原遺跡で夢殿のような八角円堂が見つかり行基の供養堂ではと言われています。

平城京へ

平城京
平城京

コンサルティング・ファームを目指すという設立当初の崇高な目的はなんのその、今や単なる飲み会集団となったファイティング・コンサルタンツという研究会があります。秋になると遠足に出かけております。

以前、飯森山城を登るイベントを企画・実行したところ、えらく不評でして今回は高低差がないというリクエストでした。ということで近鉄・新大宮駅から平城京跡へ。東院庭園→遺構展示館、造酒司井戸→第一大極殿、復原事業情報館→朱雀門、平城宮いざない館→遣唐使船と平城京跡の半分ほどを巡ってきました。

平城宮いざない館では位によって、土地とお金がいくらもらえるかで、えらく盛り上がっておりました。

ニギハヤヒ

■行くのが大変なニギハヤヒのお墓
近鉄けいはんな線・白庭台駅は神話に出てくる「鳥見白庭山」から地名がつけられています。神話の主がニギハヤヒ(饒速日命)でGoogleマップで調べると駅近くにお墓が出てきますが、これを信じると、えらい目にあいます。Googleマップの経路案内(徒歩)で最短ルートを探して行ってみても崖しかなく全く役に立ちません。

ネットで調べると生駒市総合公園まで回り込まないとたどりつけないようです。なるべく高台を目指すと途中で山道を発見。これがピンポンで、山道をひたすら登っていくと、たどりつけました。

ニギハヤヒ
ニギハヤヒ

■天皇家と同じだったニギハヤヒ
ナガスネヒコが仕えていたのが神武天皇より先に大和へ天下っていたニギハヤヒです。ナガスネヒコの妹を妻として生まれたがウマシマジ(宇摩志麻遅命)で物部氏の祖となります。同じ天孫の神武天皇が現れたのでニギハヤヒはナガスネヒコを裏切って神武天皇につきます。なんてやつだあ!

ニギハヤヒは天磐船に乗って河内国の川上哮峰(交野市)に天下り、次に鳥見白庭山に移ります。この白庭山にお墓があります。神武天皇より先に天下り大和に鎮座していた勢力があったことを日本神話や古事記も隠せなかったんですね。しかも物部氏の祖でもあり、なぜ出雲系の三輪神社があるのかなど不思議が多い大和です。

ナガスネヒコ 本陣の碑

ナガスネヒコ 本陣の碑
ナガスネヒコ 本陣の碑

長髄彦(ながすねひこ)ってご存知ですか?

神武天皇が海だった大阪を渡り、生駒山の麓にある日下に上陸。日下から生駒山を越えて大和に入ろうとしたところ、大和を治めていた長髄彦が立ちふさがり戦いとなります。神武天皇軍は生駒山にあった日下の直越(ただごえ)という道を進んでいきますが、麓から生駒山を登るには2時間ほどかかりますので、けっこう大変です。なんで山道を登ろうと考えたんですかねえ。もっと枚方あたりに回って北から大和へ回り込めば楽だったのに。どうも日下に何かあったようで、後世に宮の名前で日下がでてきますから支援者の拠点だったのかもしれません。

■ナガスネヒコの本陣碑
神武天皇を迎え撃ったのが長髄彦で本陣の碑が生駒市白庭台の住宅地にあります。ここらへんは登美(トミ)ともいい、今も近鉄・富雄駅などの名前で残っています。本陣跡は生駒山を越えたところにある高台で防御するには適した場所になっています。神話の世界の話なんですが場所は合理的なところです。

敗れた神武天皇は大きく紀伊半島を迂回することになりますが、敗れた理由が「日神の御子であるのに太陽に向かって戦ったからだ」です。そんなん東にそびえる生駒山を登るんやから、当たり前ですがなあ!と誰もつっこまなかったんですかねえ。

山辺の道・北コース

山の辺の道は日本最古の道として有名です。奈良盆地の東縁を巡る道で古代にあった奈良湖を避けるために標高が高い山裾を巡ったと言われています。もともと天理の布留遺跡と纏向遺跡を結ぶ道が卑弥呼の時代からあったようです。

山辺の道
山辺の道

山辺の道・南コース(海石榴市~布留遺跡)はたぶんこの古代の道らしいのですが、北コース(布留遺跡~春日)はどうですかねえ。天理の北、シャープ奈良工場の近くに櫟本(いちのもと)という場所があり、和爾下神社があります。ここか法隆寺付近までまっすぐに西に向かっていたのが北の横大路です。どうも山辺の道があったのは、このあたりまでで北の横大路と接続していました。

山辺の道・北コースは、あるとしたら上ツ道(現在の169号線)の東側にある高畑山線(バス通り)ぐらいですが、ハイキングコースということでかなり山を回り込む道になっています。

弘仁寺

「山の辺の道」をずっと歩いていくと山の中腹に弘仁寺があります。弘仁5(814)年に弘法大師が創建したと伝わっていますが本当のことは分かりません。平安初期にはできていたようです。戦国時代には、松永久秀の大和攻めで伽藍の大部分が焼失してしまい。現在の伽藍は江戸時代に再興されたものです。

弘仁寺
弘仁寺

鄙びたお寺で入山料としてセルフで200円を入れるシステムになっています。見どころは本堂と明星堂なんですが、山門を出て駐車場じゃなく階段を降りる道を歩いていくと暗い場所に奥の院があります。ここに閼伽井戸があり、弘法大師が三鈷杵で掘ったという話があります。眼病にきくんだそうです。

石上大塚古墳

天理から桜井を目指す山の辺の道・南コースは見どころも多く人気のコースですが、天理から奈良を目指すコースは地味なこともあり歩いている人はほとんどいません。

さて天理から山の辺の道を歩いていくと藪の中にあるのが石上大塚古墳。案内板から20mほど登ると石室がありました。天井石などは失われた状態です。

石上大塚古墳
石上大塚古墳

■石上大塚古墳の被葬者は誰?
石上大塚古墳は全長107mある前方後円墳で100mほど離れた反対側には少し大きいウワナリ塚古墳があります。石上大塚古墳が造られたのは6世紀後半で、ウワナリ塚古墳より若干遅れて造られたようです。少し離れたところに別所大塚古墳がありますが、石上大塚古墳、ウワナリ塚古墳、別所大塚古墳の3つは物部氏の首長墓だったようです。

6世紀後半となると蘇我馬子&連合軍が物部守屋を攻めた587年頃ですね。これで河内の物部守屋一党は滅びましたが、一族の石上氏が物部氏の本宗家になることになります。3つの古墳の被葬者は分かりませんが、物部贄子(物部尾輿の子供で物部守屋の弟)あたりですかねえ。石上贄古という名前もあり、娘が蘇我馬子の奥さんになっています。

排仏派、崇仏派の戦いと昔の日本史では習いましたが、そんな単純なものじゃなく半島情勢や権力闘争など複雑怪奇だったようです。