讃岐神社(竹取物語の故郷)

日本最古の小説として有名な竹取物語ですが、竹林でかぐや姫を発見したお爺さんの名前を知っていますか?

正解は「讃岐造(さぬきのみやつこ)」です。

讃岐なんで四国説もありますが、我が町だと言っているのが奈良広陵町です。開化天皇の孫に「讃岐垂根王」の名前があるので讃岐氏がいたことは確かなようです。この讃岐氏が関係しているのが広陵町にある讃岐神社で、このあたりに屋敷があり竹取物語の故郷だと竹取公園まで作っています(笑)。

讃岐神社
讃岐神社

竹取物語は作者不詳ですがアンチ藤原氏が書いたのは確かなようで、かぐや姫に求婚する「くらもちの皇子」は藤原不比等の母親が車持氏(くるまもち)の出身をあてこすっています。

山の辺の道

ファイティング・コンサルタンツという、確か20年ほど前はコンサルティング・ファームを作ろうと燃えていた集団があるのですが、今や宴会と歴史散策をこよなく愛する、ていたらく状態になっています。

桧原神社
桧原神社

ということで歴史散策です。「どこでもよいけど、山はダメ」という、お達しに今回のテーマは日本最古の道である山の辺の道です。桜井から天理まで休憩なしだと3時間ほどで踏破できる初心者用コースです。飯森山城巡りで皆さん、山道にはトラウマがあり、それほど起伏がなく基本的に平坦コースな山の辺の道を選択。

■出発前の宴会で2時間
桜井駅に集合して、まずは腹ごしらえ。台湾料理店に入り、ビールから始まったのはよいのですが結局は食事というより宴会状態に。途中で雨があがるのを待ったり、頼まなくてもよいジャージャー麺を頼むヤツがいて2時間、店にいてから出発。山の辺の道・入口にたどりついたのは桜井駅を出て2時間半後でした。

海石榴市ー大神神社ー狭井神社ー桧原神社を巡ります。写真は桧原神社の鳥居前に拡がるレイライン。桧原神社は元伊勢と呼ばれ西に行くと淡路島の「伊勢の森」に至り、東に行くと伊勢神宮になります。

桧原神社を出発したところで、「疲れた~」の声。工程の1/3でリタイアし、卑弥呼の宮といわれる纏向遺跡を見学しJR巻向駅から奈良駅へ出て、また宴会して散会しました。

牧野古墳

奈良盆地の西側に丘になっているところがあり、これが馬見丘陵。いまは住宅地になっていますが古墳が点在していて、その一つが牧野(ばくや)古墳。大きな円墳でイベント時などは石室に入れます。中は石舞台古墳のようになっています。

牧野古墳
牧野古墳

古墳時代後期に造られ、延喜式には墓の敷地が東西15町・南北20町とあり、大仙陵古墳の8町四方を大きく上回るものになります。つまり今の馬見丘陵にある住宅街は全てお墓の敷地ということになり、実際、牧野古墳一帯には古墳がありません。

こんなに大きなお墓なんで敏達天皇の第一皇子である押坂彦人大兄皇子(おしさかのひこひとのおおえのみこ)の古墳と比定されています。舒明天皇のお父さんになります。蘇我系ではないので苦労はしたようですが忍坂部や丸子部といった領地を支配し経済的には潤っていました。これが舒明天皇から孫の中大兄皇子に引き継がれ、乙巳の変の軍資金などになりました。

神武天皇陵

橿原神宮の隣にあるのが神武天皇陵。欠史8代ともいわれているので実在そのものが疑われています。江戸時代に神武天皇陵を比定する時に候補が絞り込まれたのですが、それが下記の3つです。
・畝傍山の丸山
・ミサンザイ(現在の神武天皇陵)
・四条村の塚山(第2代の綏靖天皇の陵と比定)

神武天皇陵
神武天皇陵

丸山が有力だったのですが結局、ミサンザイに決まりました。孝明天皇の大和行幸にあわせ神武天皇陵参拝が行わることになり、江戸幕府は天皇陵の場所を定め、修復事業を実施することになりました。そこで住んでいる人がいなくって影響が少ないミサンザイが選ばれたという大人の事情があったようです。

日本書紀の壬申の乱の記載に大伴吹負が大海人皇子側として戦いますが、この時の神武天皇陵に馬と武器を奉納して勝利した記事があり、畝傍山近くに神武天皇陵があったことになります。藤原京造営でも壊されなかった塚山古墳を古代では神武天皇陵と考えていたのではという説もあります。

大和国分寺

近鉄・八木駅のホームに名所案内があるんですが「国分寺跡」とあります。国分寺!大和だから総本山である東大寺じゃないのと思うのですが、なんで八木にあるの!と思ったのですが駅の近くなんで寄ってきました。まあ分かりにくい住宅地の中にあり、しかも路地の奥です。

大和国分寺
大和国分寺

国分寺とは聖武天皇が仏教によって国を守るために全国に建立した寺です。巨大な七重塔と金堂などがセットになっており、今でいうと県庁所在地に高いタワーが建つイメージです。また学問の中心でしたので大学のような役割もありました。

なんでも江戸時代の大和志で大和国国分寺を東大寺でなく、八木近くに比定しています。実際に古代の瓦などが発掘されているのでガセネタというわけではなさそうです。ということで大和国分寺へ。現在は浄土宗のお寺になっています。

藤原京・朱雀大路

何もない田園ですが藤原京・朱雀大路跡で、朱雀大路は発掘で幅21メートルの大路だったことが確かめられています。遠方に大和三山の一つである耳成山があり、持統・文武・元明の三代にわたって白鳳文化が花開きました。まさに「天上の虹」(里中満智子)の舞台ですねえ。そうそう日経新聞「私の履歴書」の連載も続いています。701年の大宝律令により倭国から日本へと国号を変え、律令を基にした中央集権国家となります。

藤原京・朱雀大路
藤原京・朱雀大路

藤原京建設では中国の古典「周礼」に記述されている理想の都城を参考にしたようで宮殿を真ん中に置きました。663年、白村江の戦で有名ですが唐・新羅連合軍と戦ったことから唐とは長らく国交断絶。702年に30年以上途絶えていた遣唐使を派遣したら唐の長安の宮殿は一番北側にありました。「天子南面す」が基本だったようです。今さら都を作り変えることもできないので平城京から宮殿を一番北に置く形になります。

磐余甕栗宮

雄略天皇の息子が第22代・清寧天皇です。雄略天皇が倭王「武」ではないかと言われていますので倭の五王の次の時代の天皇となります。在位期間がわずか4年間で妃も子供もいなかったので実在しなかったのではという説もあります。清寧天皇の後は雄略天皇に殺された市辺之忍歯王(いちのへのおしはのみこ)の子で播磨に逃げていた兄弟(仁賢天皇、顕宗天皇)が即位します。

御厨子神社
御厨子神社

実在したかどうか分からない清寧天皇の宮が磐余甕栗宮(いわれのみかくりのみや)。磐余池を高台から見ることができる場所に御厨子神社(みずしじんじゃ)があり、ここが磐余甕栗宮と言われています。境内には真っ二つに割れた岩があり、柳生にある一刀岩のようです。あちらは鬼滅の刃人気になっていますが、こちらは誰もいません(笑)。

磐余玉穂宮

Googleマップで見ると若櫻神社(履中天皇磐余稚桜宮跡)のすぐ近くに継体天皇磐余玉穂宮跡とあります。磐余池のすぐ横で、現地へ行ってみましたが畑が広がり何もありません(笑)。

Googleマップ
Googleマップ

継体天皇は応神天皇の5世の子孫とあり、5世ともなると血統の薄さは1/32ですね。大和朝廷で何らかの事態があったようで越前や近江を拠点としていた男大迹王を招いて継体天皇となります。当時は水運が物流の要でしたので宮は淀川沿いに造られました。

樟葉宮(即位した場所)-京阪・樟葉駅から東に歩いた高台にあります。
筒城宮ー同志社大学・田辺キャンパスにあります
弟国宮ー阪急・長岡天神駅から行けるのですが、まだ行ったことありません

磐余玉穂宮ー晩年になって、ようやく大和に入り磐余池近くに宮を作りました。

天の香久山

「春すぎて 夏来にけらし 白妙の 衣ほすてふ 天の香具山」
持統天皇の歌です。

天の香久山

日経新聞「私の履歴書」が里中満智子で、1983年に「天上の虹」を編集者に短めの連載にしてねと言われながら連載開始。結局、32年もの連載となりました。主人公はもちろん持統天皇です。香久山・頂上からは畝傍山や二上山がよく見えます。また国常立(くにとこたち)神社があり、天地創成神話の国土神の最初の神さまです。

香久山は特別な山だったようで長髄彦に敗れた神武天皇は遠く、熊野から大和入りします。この時、密かに天香山の土をとって来させ、平皿八十枚と瓶を作って天神地祇を祀ります。これで勝ちます(笑)。ほんまかいな~あ。特別な力があったのが香久山のようです。

軽の池

近鉄・橿原神宮駅の近くにあるのが石川池(剣池、軽の池)。「軽の池の浦 うらみ行きみる鴨すらに 玉藻のうへに 独り宿なくに」(軽の池の浦を泳ぎ回る鴨ですらも玉藻の上に独りで寝ることはないだろうに…)という紀皇女(きのひめみこ)の歌が万葉集に掲載されています。池のほとりに孝元天皇陵がありますが、ホンマかどうかは分かりません。

軽の池
軽の池

南北に走る上ツ道が山田道になって東西を走るようになり軽で下ツ道と交差します。交通の要衝ですので飛鳥時代には「軽市」と呼ばれる市場があり、繁華街で出会いの場でもありました。柿本人麻呂も妻を軽市でゲットしたようで、妻が亡くなると軽市の雑踏の中に亡き妻の面影を求める歌を残しています。

軽には懿徳天皇・孝元天皇・応神天皇が宮を置いたと日本書紀に書かれていますが、懿徳天皇・孝元天皇は欠史八代(実在が怪しまれる)なので、ホンマかどうかは分かりません。