今城塚古墳

高槻にある今城塚古墳。摂津富田駅から歩いていけます。

今城塚古墳
今城塚古墳

三好に対抗するために織田信長が古墳を改造して城砦として使ったことから今城塚と呼ばれましたが発掘の結果、地震による地すべりと確かめられました。今城塚古墳に葬られているのは継体天皇と言われています。宮内庁は近くの別の古墳を比定しているため、今城塚古墳は全国的にも珍しい「会いにいける大王墓」になっています。

継体天皇は応神天皇5世の孫で皇位継承からいうと「?」がつく存在ですが、ヤマト政権に迎えられ大王につきました。北陸出身ということもあり、この時に王朝が交代したのではないかという説が昔から出ています。物流の大動脈であった日本海−琵琶湖−宇治川−淀川−瀬戸内海の水上交通を抑えていましたので経済力があった大王でした。これが政治力にもなったでしょうし、半島情勢もからんでしたので北陸出身で知見がある人物でないと大王は務まらなかったのでしょう。

推古天皇社

推古天皇社
推古天皇社

大安寺境内で見つけたのが推古天皇社。

祭神はもちろん豊御食炊屋姫尊(とよみけかしきやひめのみこと)つまり推古天皇です。新しく建てた神社かなと思うと、どうも違うようで昔の大安寺の伽藍を描いた図に東側に推古天皇と書かれ西側には聖徳太子と神社らしきものが書かれています。いつからあるのかなあ。大安寺が飛鳥から移転した時に神社もついてきたのかもしれません。

■日本に2つだけ?
そういうば大和郡山の額田部を歩いていた時にも推古神社を見つけました。推古天皇は額田部皇女(ぬかたべのひめみこ)とも呼ばれていたので額田部郷と関係があったのでしょうか。大安寺はもともと聖徳太子が平群郡の額田部に創建した修行道場なんで額田部というと平群郡で、大和郡山の額田部からは山を一つへだてています。

こういう時に便利なのが法人番号検索サイト。「推古」で検索すると該当するのは推古神社だけ。とすると推古天皇に関する神社は日本全国にこの2つだけしかないのかなあ。

元岩清水八幡宮

大安寺境内に元石清水八幡宮があります。大安寺の鎮守として建立されました。明治になるまで神仏習合でしたので神社と寺はセットでしたが廃仏毀釈となり、寺と神社の分離が進みますが大安寺では、そのまま残っています。

元岩清水八幡宮
元岩清水八幡宮

元岩清水八幡宮という名前は本家争いからきています。そもそも元石清水八幡宮は平安時代の僧侶である行教和尚が807年に宇佐八幡宮から勧請したものです。坂上田村麻呂が活躍し、最澄や空海が天台宗や真言宗を始めた頃になります。大安寺にあった石清水房に勧請したので石清水八幡宮となりました。

この後に京都の男山に勧請され石清水八幡宮ができたました。ところが行教和尚が宇佐八幡宮から男山へ直接、勧請したという説もあり、石清水八幡宮のホームページではこちらの説を採用しています。

■本家争い
1113年、興福寺が神輿を出して朝廷に圧力をかける時に、男山八幡宮は大安寺から勧請したんだから共に圧力をかけるのに参加するようにと呼びかけます。ところが男山衆は宇佐神宮から直接、勧請したので関係ないと返事します。

もともと男山に以前から石清水という名前があったとも主張するので、大安寺では元岩清水八幡宮というようになりました。こうなると饅頭などの本家争いと同じですねえ。

大安寺

南都七大寺、御存じですよね。東大寺・興福寺・元興寺・大安寺・薬師寺・西大寺・法隆寺の七寺です。

大安寺
大安寺

■引越ばかりの大安寺
大安寺はとっても古い寺で創建は聖徳太子です。仏教修行の道場として平群郡額田部に作られた後、最初の遣唐使を送った舒明天皇の時代に百済川の畔に移転して百済大寺となりました。これが発掘で見つかった吉備池廃寺と言われています。この後に高市郡にまた移転して高市大寺となりましたが場所は分かっていません。はたまた674年に飛鳥に移転して大官大寺となります。九重塔が建つ大伽藍でした。

710年、藤原京から平城京への遷都にあわせて、またまた移転して大安寺になります。よく引越をする寺ですが、ようやくこの地に落ち着きました。大安寺は大きな伽藍で南には七重の東塔と西塔がそびえていました。戦乱などで衰微し今は最盛期の約1/25の境内になっています。

■普照
大安寺は総合大学のようなものでしたので、たくさんの僧が学んでいました。その一人が普照(ふしょう)です。聖武天皇の命で授戒できる高僧を求め興福寺の栄叡(ようえい)と共に唐へ渡ります。栄叡は唐で亡くなってしまいましたが、普照は鑑真和上を無事に日本へ連れてくることができました。苦労話が、井上靖の「天平の甍」に描かれています。

辰市神社

辰市神社のあたりに平城京の東市がありました。神社の少し東側に物資を運ぶための東堀川が流れていましたが、今は水田などになり影も形もありません。

辰市神社
辰市神社

辰市神社の祭神は武甕槌命(たけみかづち)、経津主命(ふつぬし)で、それぞれ鹿島神宮と香取神宮の神さんです。春日大社を造る時に関東から神様を勧請しますが、この時に神さんは白鹿に乗ってきました。ですので奈良の鹿は神鹿として大切に保護されています。

春日大社といえば藤原氏(中臣氏)の神さんですが、侍従の中臣氏が住居を神託によって占ったところ神木が西北の地に落ちたので、辰市周辺に住居をかまえ、祭ったのが今の辰市神社になるそうです。辰市神社の場所は奈良市杏町(からももちょう)で杏(あんず)は昔、「からもも(唐桃)」と呼ばれていました。もっとも「あんず」は宋の言葉のようです。

コーボックスへ

マンションが大規模修繕工事をしていることもあり、天満橋にあるコーボックスへ避難。

コーボックス
コーボックス

コーボックスから大学のオンライン講義をしておりました。コーボックスというのは全国でも珍しいファブラボの一つで、コワーキングスペース&ものづくりスペースになっています。3Dプリンター、レーザーカッター、UVプリンターなどが時間チャージで使えますので一人メーカーなどが活用しています。時たま知的生産の技術研究会・関西のセミナー会場としてもお借りしています。

久しぶりにコーボックスに行ったら3Dプリンターが4台に増え、スタジオセットが新たに増えていました。実はコーボックスのオーナーがパソコン通信時代からの知り合いで、当時はまだ20代と若かったですね。人のことは言えませんが(笑)。

そうそうコーボックスを根城にしている松本さんにもお会いしました。いろいろと発明されている方で最新作は「あしゆび洗浄専用タオル」です。なるほどお腹が出てくると足の指を洗うのは至難の業ですから目の付け所がいいですねえ。

富本銭

西市近くの九条公園で1969年(昭和44年)に出土したのが富本銭です。その後も5枚ほど出土しましたが、決定的になったのが飛鳥池工房遺跡での発掘で、飛鳥で富本銭が鋳造していたことが分かりました。

富本銭
富本銭

それ以前は表面に文様がない無文銀銭が使われていましたが天武天皇が貨幣経済を目指すために銀銭ではなく銅銭を使うよう683年に詔が出します。そこで、和同開珎など皇朝十二銭と呼ばれる12種類の貨幣を鋳造されましたが、新しい貨幣が発行するたびに政権はデノミ政策を実施します。せっかくお金を貯めても価値が1/10になるので貨幣の信用がなくなり、やがて貨幣そのものが造られなくなります。

■キャッシュフローをまわしていたのは渡来銭
そこで中国から銭が輸入されます。推し進めたのが平清盛で宋で作られた銭の1割ほどが日本に入ってきたようです。江戸時代に慶長通宝や寛永通宝が国内でできるまでの400年間は宋銭のような渡来銭でキャッシュフローが回ります。

貨幣経済に着目していたのが織田信長で旗印は永楽通宝(永楽帝の時代に造られた銭)。戦後時代の武将は金勘定が分かっていないと戦ができませんでしたが江戸時代となり朱子学などの影響で「武士は食わねど高楊枝」となります。「晴天を衝け」で金勘定がわかる渋沢栄一が活躍するはずです。幕府にも人物がいて勘定奉行である小栗忠順が積極通商を推し進め明治の礎となった横須賀造船所を造ります。小栗忠順はあまりにもキレる人物だったため逼塞していたのに新政府軍が殺してしまいます。

ワクチン接種日は禁酒

東大阪市の集団接種会場の一つが大阪商業大学。お昼に1回目のワクチンを受けてきました。

大阪商業大学
大阪商業大学

懐かしいですね。中小企業診断士試験会場といえば大阪商業大学が定番でしたので、夏になると河内小阪駅で降りてよく通ったものです。つまりそれだけ通らなかったということです(笑)。試験が終わったら受験生仲間と河内小阪駅で待ち合わせて打ち上げするのが定番でした。

大阪商業大学のワクチン接種はTKPが運営しているようでスムーズに案内していました。それはよいのですが接種日は禁酒なんですねえ。テレビで副作用などは散々、報道しているくせに禁酒の話なんて初めて知りました。接種が終わった後、「今日は飲めないんですよね」と聞いたら「飲めません」とキッパリ。そんな大切な情報はもっと事前に報道してよ!

平城京 西市

710年、藤原京から平城京に都が移されます。都には政府直営の東市と西市が作られます。

西市
西市

平安京では米、麦、油、塩、海藻、魚といった食料品。他にも繊維製品、衣類、食器、文房具、薬なども売られていました。太刀や弓などの武器も売られていて平城京でも同様だったのでしょう。

■長屋王商店ではホカ弁を売っていた
藤原四兄弟の陰謀で自刃させられた長屋王も市に店を出していて、弁当と酒を出品していたようです。お米がたくさんあったので付加価値があがるように邸宅内で酒や飯に加工していました。お米は笥に入れて売っていたようで、今でいうホカ弁ですね。荷物が多いと運搬もしていたようです。

練兵場跡

大阪府よろず支援拠点からの帰り道、運動不足を解消するため大阪城の外堀を見ながら森ノ宮駅まで歩いています。

大河ドラマ「青天を衝け」では大政奉還が行われ、いよいよ鳥羽伏見の戦いに突入します。徳川軍の総司令部があったのが大阪城ですが、敗戦後、徳川慶喜は大阪城を抜け出し江戸へと向かいます。朝敵として天皇と戦うのを避けたなど、いろいろな説がありますが尊皇という点では松平容保と徳川慶喜が一番、真摯に取り組んでいたでしょう。玉(天皇)を握ればよいと割り切っていた薩長とは大いに違っていました。

大阪城の南外堀あたりに慶喜は練兵場を作りフランス式の訓練で兵を鍛えていました。「晴天を衝け」では渋沢喜作(高良健吾)が訓練しているシーンが出てきます。明治時代に陸軍が接収し射撃訓練などに使っていたため城南射撃場跡の碑が残っています。

幕府が訓練のために招へいしたフランスの軍事顧問団ですが、戊辰戦争に巻き込まれ騎士道精神なのか一部は脱走して榎本武揚や土方歳三と共に五稜郭の戦いまで戦っていました。その一人がブリュネ大尉で「ラストサムライ」(トム・クルーズ主演)のモデルとなります。