興福寺・国宝館

奈良で仕事だったので、帰りに興福寺・国宝館へ寄ってきました。コロナ禍の影響もあり入場者は5名ほど。係員の方が多いですねえ。

興福寺・国宝館
興福寺・国宝館

国宝館での楽しみは天燈鬼。頭の上の燈籠を上目づかいににらんでいる姿がユーモラスでいいですねえ。

もう一つが仏頭で東金堂本尊だったものです。元々は天智天皇や藤原鎌足の陰謀で蘇我倉山田石川麻呂が自害に追い込まれます。自害したのが自分が造った山田寺(飛鳥)で、この山田寺の本尊でした。

鎌倉時代に東金堂を再建する時に興福寺の僧兵が山田寺から無理やり押し入り本尊を強奪してきます。時は流れて堂が焼けた時に焼け残った仏頭が本尊台座にほうりこまれ、昭和になってから発見されます。蘇我倉山田石川麻呂の無念がしのばれる仏頭です。

東向き商店街、餅飯殿センター街ともに、まあまあ観光客が増えていました。

佃煮 発祥の地

佃煮の発祥には諸説あるんですが、もともとは漁に出る時の保存食でした。悪天候時や船内食として小魚や貝を塩や醤油で煮詰めたものを持参していました。

田蓑神社
田蓑神社

後に江戸の佃島へ移ってから住吉神社へ奉納したのが佃煮の元となったという説がありますが、住吉神社は佃にあった田蓑神社(住吉明神)を分霊したものです。それなら佃時代から田蓑神社に奉納していただろうということで、ここが佃煮発祥の地という説もあります。

田蓑神社は神功皇后が三韓からの帰途に佃に上陸し、漁師が白魚を献上したという伝説が残っていますが、古代、住吉大社の領地だったようです。境内には東照宮もありました。

佃島 発祥の地

お仕事で阪神電車・千船駅へ。千船駅は神崎川と左門殿川に囲まれた佃にあります。そうそう佃煮で有名な東京の佃島の故郷がここ佃ってご存知ですか。

千船駅
千船駅

徳川家康が兵庫にある多田神社へ参詣します。多田神社は摂津源氏発祥の地ですから、源氏を名乗る家康としては参詣しないわけにはいきません。この時に佃村の漁師たちが船を出して川を渡したことから徳川家と縁ができました。

将軍家に献魚の役を命じられ、漁師の一部は江戸に行くことになります。また、どこで漁をしてもよいという特権を与えられ、隅田川下流の干潟を造成し、できたのが今の佃島です。

バッタモノの能見神社

バッタモノシリーズです。高槻城のすぐ近くに野見神社がありました。

能見神社
能見神社

まさかと思ったら祭神は野見宿禰でした。野見宿禰といえば垂仁天皇の命により当麻蹴速と相撲をして勝ち、土師氏の祖となった人物です。高槻といえば継体天皇陵といわれる今城塚古墳があるので埴輪の拠点だったのでしょう。

ただ調べると野見神社は、もともとは疫病対策の神社で須佐之男命を祀っていた牛頭天王社でした。明治になってから野見宿禰命を合祀して野見神社になります。理由は式内社に野見神社があり場所が分かっていないので、式内・野見神社になろうというもので、つまりフェークです。式内社は同じ高槻市内にある上宮天満宮摂社「野身神社」ではないかと言われています。

ところで式内社って分かりますよね。延長5年(927年)にまとめられた延喜式神名帳に記載された神社のことで、社格が高い神社です。

正倉院展

炎天下のなか、奈良国立博物館へ行って正倉院展を見てきました。

正倉院展
正倉院展

正倉院展といってもバッタモノです(笑)。「特別展よみがえる正倉院宝物 ―再現模造にみる天平の技」ということで複製品です。往時を再現していますので螺鈿細工など見事ですね。土曜日なので混んでいるかなと思ったら、正倉院展のオータムレイトチケットなみにすいていました。

会場は本場の正倉院展と同じ広さでの展示でした。五弦琵琶や鏡などを見て奥まで行くと古文書の複製までありました。古文書の裏に映った字まで再生されていました。すさまじい技術ですね。写経生の休暇願があり、「母親が病気なので3日間休ませてください」など書かれていました。

元興寺

せっかく奈良町へ行ったので元興寺へ寄ってきました。奈良時代は大伽藍で今の奈良町はほとんど元興寺境内でした。観光客で人気の奈良町もほとんど人がおらず旅するなら今ですね。ちょうど境内では地蔵会万灯供養の準備が行われていました。

元興寺
元興寺

日本に仏教が伝来し、蘇我馬子が最初に作ったのが法興寺(飛鳥寺)です。「なんと見事な平城京」で覚えた710年に平城京遷都が行われ、この法興寺が奈良に移転して元興寺になります。ですので元興寺の屋根瓦の一部には飛鳥時代の瓦が残っています。元興寺は平安時代以降、衰退していきますが庶民の寺として復活していきます。

元興寺は古くから鬼で有名で鬼のことをガゴゼと呼ぶのは元興寺に由来しています。昔々、元興寺の鐘楼に鬼が出て、随分こわがらせました。尾張から童子が入寺し、大力で鬼を退治したという話があります。この童子が尾張に帰って作ったのが金山駅近くにある尾張元興寺です。

奈良の商店街

奈良でお仕事でしたので奈良町界隈を散策してきました。

奈良町
奈良町

インバウンドで賑わっていた東向商店街の人通りは少ないのですが一歩西側の小西さくら通り商店街はまあまあの人通りです。こちらの商店街はもともと地元客向けのお店が多かったのでインバウンドの影響はそれほどなかったようです。インバウンドコースは近鉄奈良駅から東向商店街を通って中谷堂の高速餅つきを見てから興福寺への道を登るコースでしたので、東向商店街にとっては大打撃ですね。

東向商店街の南側の餅飯殿商店街も同様で、こちらもインバウンド向きより地元客もしくは日本人観光客向けです。たたお水取りが中止となり桜シーズンもダメでしたので、それなりの打撃はあります。

いつものように餅飯殿商店街の萬々堂通則で、ぶと饅頭を買ってきました。ぶと饅頭って、もともとは遣唐使によって伝えられたものという説があるお菓子なんですねえ。知らなかった。

お茶屋御殿

枚方市駅から超ひらパー兄さん(岡田准一)で有名な枚方公園駅へ向かう時、京阪電車は大きくカーブしながら丘の横を通ります。この丘の上にあるのが御茶屋御殿跡展望広場公園。眼下には京阪電車と京街道、淀川、高槻の街が見えます。

お茶屋御殿
お茶屋御殿

枚方城・城主の本多政康は秀吉に従いましたが、秀吉は本多政康の娘である乙御前を側室にします。まあ側室が20人近くいて女好きで有名な秀吉ですからねえ。文禄四年(1595)に乙御前のために丘の上にお茶屋御殿を建てました。

秀吉が死んだあと、大坂夏の陣で本多政康は討死し、枚方城は廃城になります。ただ御茶屋御殿は残っていたようで、徳川秀忠の宿泊施設として改装されました。その後、延宝七年(1679)に起きた枚方宿の火災で焼失したと伝えられます。

御茶屋御殿は枚方城跡とは小さな谷を隔てたと高台にあち、出城を造るにはもってこいの位置ですね。

菟道稚郎子って誰?

こっちは全然、目的地ではなかった菟道稚郎子の墓。太閤堤のすぐ横にあったので寄ってきました。

菟道稚郎子
菟道稚郎子

菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)とよみます。菟道(うじ)というのは古い地名で平安時代ぐらいに宇治になったようです。近くに莵道高校がありますが、こっちは「とどう」と呼んでいます。

■菟道稚郎子って誰?
菟道稚郎子って、全然知らなかったのですが、応神天皇の息子で仁徳天皇の異母弟なんだそうです。応神天皇が亡くなった時、日本書紀によると皇位を譲り合って自殺したと伝えられています。ほんまかいな~あ。大体、応神天皇といえば筑紫で神功皇后から生まれ、神功皇后と共に反乱を起こした大和へ攻め上ってくる神武天皇の東征のようなことをやった人物です。

とにかく菟道稚郎子は宇治にあった桐原日桁宮に住んでいたそうで、これが宇治上神社または宇治神社ではないかと言われています。念のために宇治上神社の祭神を調べると菟道稚郎子、応神天皇、仁徳天皇で関係者ばかりです。

亡くなった後、日本書紀は遺骸を「莵道の山の上に葬りまつる」とされていて、そのまま読めば山頂の古墳のはずですが、宮内庁は宇治川のほとりを比定しています。ほんまかいな~あ。

太閤堤

京阪・宇治駅を降りて線路沿いに歩き、平等院には目もくれず太閤堤跡を目指します。

太閤堤
太閤堤

秀吉といえば戦を土木に変えてしまった人物です。三木城の周りに堤を築き水攻めを行い、小田原攻めでは石垣山一夜城を作り土木力で勝ってしまいました。城下町整備でも力を発揮し、大阪の太閤下水は今も現役で使われています。

■太閤堤で大坂ー京都が結ばれる
伏見城を造る時にも大改造を行っています。伏見の南側に拡がっていたのが巨椋池。巨椋池は明治の頃までありJR奈良線が桃山駅から東側に大きく回っているのは巨椋池を避けるためでした。

秀吉は宇治川、淀川等の付け替えを行います。この時に造ったのが太閤堤。巨椋池に分流していた流路をまとめて伏見に引き込むことで水深が確保できます。これで伏見港ができ大坂とを結ぶ船運ができました。坂本龍馬が寺田屋(船宿)を根城にできるきっかけは秀吉でした。

この太閤堤が宇治橋のすぐ下流で400mほど続いているのが発見されました。それが写真の碑です。現在、一帯で宇治川太閤堤跡歴史公園を建設中でした。

■小倉堤跡が近鉄に
秀吉はまた巨椋池の上に堤を作り伏見と奈良の距離を縮める大和街道にしました。池の上の堤なので大軍は横に展開できず奈良方面から攻められてもすぐ撃退されます。この堤跡の一部が現在の近鉄京都線の線路になっています。ですのでJR奈良線のように大曲りしていません。